自ら手掛けた香川県庁舎の完成を喜ぶ若き日の丹下健三=1958年(神谷宏治撮影、香川県立ミュージアム所蔵)

 東の丹下、西の増田—。京都大教授で建築家でもあった増田友也(1914~81年)がメディアで紹介されるとき、この修辞がよく使われる。丹下とは、戦後日本の建築界に大きな足跡を残した東大教授で建築家の丹下健三(1913~2005年)。生まれが1年違いの2人は、東京と京都という違った環境で同時代を生きてきた。

 「東の丹下—」という言葉は、いつごろ、誰が言い始めたのか。増田が活躍していた頃の建築雑誌をめくっても、この修辞はどこにも出てこない。ただ、増田が京大退官後の80年から教授を務めていた福山大では、丹下と肩を並べる建築家という目で学生たちが増田を見ていたようだ。

 80年当時、福山大建築学科の2年生だった樋口泰昌(57)=岡山県津山市=は「東の丹下、西の増田という話は誰かがしていた」と言う。「丹下さんは造形的な作品を得意とし、増田さんは哲学的思考に基づく建築論が専門。タイプが違うことも聞いていた」と振り返る。

 堺市に生まれた丹下は、7歳から中学卒業までを父の郷里の愛媛県今治市で過ごす。30年に旧制広島高等学校に入り、33年に東京帝大建築学科を受験するが、2年続けて失敗。35年に三度目の正直で合格した。

 大学卒業後はモダニズム建築の旗手といわれた前川國男(1905~86年)の事務所に入るが、41年に東京帝大大学院に戻り、立て続けに三つのコンペで1等を取る。戦後の46年には東大助教授に就任。49年の広島市平和記念公園・記念館のコンペでも1等に輝き、その名を不動のものにした。増田が京大講師になる1年前のことである。

 丹下は大胆な構想力に加え、コンペの審査員の好みをくすぐる戦略にもたけていた。審査員の代表格は、丹下の上司で建築界の重鎮だった東大教授の岸田日出刀(1899~1966年)。丹下は岸田好みの意匠を盛り込み、岸田も丹下の活躍を演出した。東京五輪の舞台となった国立代々木競技場(64年)の設計者に文部省が丹下を選んだ際も、岸田の意向が強く働いたとされる。

 才能と学閥を背景に政界や官界に食い込み、日本の記念碑的施設を次々と手掛けていく丹下。一方の増田は権力や資本の中心から遠く離れた京都でいる。国家と共に歩む東大と、権力に対して斜に構える京大。マスコミに華々しく紹介される丹下と、それには乗ろうとしなかった増田。この違いが後に2人の知名度を大きく分けていく。

 「丹下は器用な男でネ、コンペは何時も一番で、何でもこなしてしまうのだヨ」。京都出身のある建築家が恩師・増田と祇園に繰り出した際、増田からこんな丹下評を聞いたと自身のブログに書いている。これは褒め言葉なのだろうか。

 2人は目指したものが違っていた。丹下は「美しきもののみ機能的である」という有名な言葉を55年に残している。余分な要素をそぎ落とせば建築はおのずと美しくなるという、当時の主流だった機能主義を否定した。3年後の58年に完成させた香川県庁舎では、各階のひさしの裏に垂木のようなコンクリート部材を並べ、日本の木造建築に似た美しい外観を造り出した。

 増田はこの頃、尾道市庁舎の建設に着手している。この仕事で増田と組んだ構造家の岡本剛(1915~94年)は、雑誌「建築と社会」60年1月号に文章を寄せ、香川県庁舎の垂木に似せた部材を指すと思われる文脈で「見せるためにのみ役立つ不必要な構造材」「美しく見えさえすれば、嘘でもよいという態度」と痛烈に批判している。

 尾道市庁舎の完成時に、増田が残したと思われる文章がある。「われわれは目さきの奇抜さを追うよりも、時間という厳しい批判にたえ、長く生き残るものをねがっている」(「新建築」60年8月号)

 丹下が建築そのものの美を求める一方、増田は「精神上の焦点とでもいえるようなもの」「市民のモニュメントとして、いつまでも新しく永遠なるもの」(前掲書)を目指していた。