鳴門市文化会館のホワイエから見る柱と梁

オーギュスト・ペレが設計したパリのイエナ宮の柱と梁(フランス経済社会環境評議会ホームページより)

 着工から、1年が過ぎていた。時は1981年3月半ば。鳴門市文化会館の建設現場で工事監理をしていた河井恭一、松本良洋、白砂伸夫の3人が増田友也(1914~81年)に呼ばれ、こう告げられた。

 「実は、食道がんなんだ。しばらくしたら東京の病院に行って現場に来られなくなるから、お前たちでちゃんとやってくれ」

 工事監理の責任者だった河井恭一(71)=大阪府富田林市=は、この時初めて増田ががんを患っていたことを知る。体調が悪そうだとは感じていたが、まさかがんにかかっていたとは思いもしなかった。何より増田は検査の類いが嫌いで、がんの発覚もこの直前だった可能性がある。

 文化会館の設計チーフだった前田忠直(74)=京都市、京都大名誉教授=は、この81年3月からスイス連邦工科大に留学している。日本をたつ前、京大農学部正門横のアパートで住んでいた増田の所にあいさつに行くと、増田は別れ際、珍しく今出川通りまで見送りに出て前田に大きく手を振った。「まるで今生の別れのような身ぶりだった」という。

 前田は増田の下で15年近くいた、晩年の増田を最もよく知る門下生である。しかしこの時、前田は増田ががんだとは知らなかった。あるいは増田も、がんの発覚前だったのか。それともまな弟子に心配は掛けまいと配慮したのか。それが実際に今生の別れとなった。

 前田によると、文化会館の設計は、基本設計から実施設計に移る段階で大きな改変がなされた。撫養川に平行に配した建物に対し、内部のホールだけを反時計回りに11度回転させたという。「若い学生が粘土模型のホール部分を持ち上げ、角度を振って置いたことがきっかけだった」

 ホールの回転はさまざまな効果を生んだ。建物の入り口からホールの客席に至るまでの通路空間(ホワイエ)に遠近法的な奥行き感が生まれ、建物の中央には増田が最後までその造形にこだわった中庭ができた。

 これ以外にも、空間の魅力を高めるための試行錯誤が増田研究室のアトリエでは続けられた。中断や縮小を経て計3回に及んだ文化会館の実施設計は、最後はスタッフ8人で取り組んでいる。そのうちの1人だった坂田泉(62)=東京都=は、北西の角にある階段室を担当した。

 通称「坂田階段」と呼ばれるその階段は、なまめかしいカーブを描いて上昇していく特異な雰囲気を持つ。「あの階段は、理詰めで設計したというより、僕と増田先生のディオニュソス的(熱情的)なものが共鳴して生まれたと思う」と坂田は懐かしむ。

 文化会館を巡っては、こんなこぼれ話もある。鳴門市長の谷光次(1907~2002年)が現場監理の白砂伸夫(65)=京都市、神戸国際大教授=に「こけら落とし、どうしよう」と尋ねてきた。白砂は「鳴門と言えばベートーベンの交響曲『第九』でしょう」と即答する。高校時代から第九の合唱に参加していた白砂は、鳴門が日本初演の地であることを知っていた。

 谷は乗った。82年5月15日の落成記念演奏会には、白砂も377人の合唱団に名を連ねている。こうして文化会館は「鳴門の第九」の殿堂となり、今日まで歴史を刻んでいる。

 増田の遺作となった文化会館のホワイエの柱や梁を見て、増田門下の満野久(82)=京都市=は「デザインの源泉はペレだと思う」と言う。

 ペレとは、20世紀のフランスで活躍し、古典主義の伝統の上に鉄筋コンクリート建築を実現させた建築家オーギュスト・ペレ(1874~1954年)。そのペレの作品を優れた古典的アプローチの建築として日本に紹介したのが、増田の恩師の森田慶一(1895~1983年)だった。

 増田は最後の作品に森田への思いを込めたのかもしれない。満野は「あの柱と梁は森田先生へのオマージュだ」とみる。

 谷から与えられた鳴門での最後の仕事で、ぎりぎりまで悩み、修正し、完成を見届けることなく旅立った増田。命を削るように格闘した文化会館を、満野は「増田さんの壮大な墓だと思っている」と表現した。