鳴門に多くの建築作品を残した増田友也(1914~81年)は、鳴門海峡を挟んで向き合う淡路島南部の兵庫県三原郡八木村(現・南あわじ市)に生まれた。
日中戦争さなかの39年に京都帝大建築学科を卒業し、満州炭鉱工業会社に就職して戦中期を大陸で過ごす。戦後、シベリア抑留を経験したとの説もあるが、増田に近い関係者は「中国で復興の手伝いなどをしていたようだ」として、抑留を否定している。
増田は終戦から49年に帰国するまでの間の体験をほとんど語っておらず、真相は分からない。ただ、目の前で多くの人が無残に殺されていく場面に身を置いた経験があるようで、これがその後の生き方にも影響を与えたと思われる。
郷里に引き揚げた増田は周囲の勧めもあり、自身の恩師で京大建築学科教授の森田慶一(1895~1983年)の所に、就職口がないかと訪ねて行ったようだ。森田は教授仲間の村田治郎(1895~1985年)とも相談したのだろう。50年8月、増田を建築学科の講師に迎える。このとき増田は35歳と8カ月。遅咲きのデビューだった。
80年刊行の「京都大学工学部建築学教室六十年史」に収録された卒業生の座談会では、増田が教官として帰ってきた頃の様子が語られている。一節を引くと、教授の村田が学生に「君等(ら)の製図が不味(まず)いから、この増田君に来て貰(もら)ったんだ」と紹介し、学生たちは「新進気鋭の雰囲気の中で、いろいろと製図のテクニックを教わった」とある。
難解な建築論で知られる増田だが、建築学科を58年に卒業した満野久(82)=京都市=によると「初期の頃は学者というより、まったく『建築家・増田』だった。建築家の第一線を走っているという自負を持っていた」と言う。
増田の設計指導は厳しかった。東大より後発の建築学科の教官として、さらには西洋の建築に明治以来学んできた日本の建築家として、焦りがあったのだろうか。満野は先の座談会で、増田が「至急に建築の設計家を何とか育てなきゃいかん」と思っていたことを明かしている。
海外から来た留学生にも、増田は日本建築の良さを懸命に伝えた。フランスのエコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)やスイス連邦工科大学などとの交換留学を始めたのも増田の功績の一つだ。
学問や設計以外の領域でも、増田は強烈な個性を放った。とりわけ63年に教授になってからは、面白いエピソードに事欠かない。
設計アトリエの地下にバーをつくったり、学生の車に「何人乗れるか実験しよう」と増田を含む十数人が乗って夜中にキャンパス内を走ったり。いずれも表ざたになり、教授会で大目玉を食らっている。
大学の教員として生活費を稼ぐ傍ら、設計活動も行う「プロフェッサー・アーキテクト」だった増田は、入った設計料を惜しげもなく花街で散財した。学生たちを誘って祇園(ぎおん)や先斗町(ぽんとちょう)に繰り出し、舞妓(まいこ)や芸妓(げいこ)を交えて談論風発。朝まで飲み歩くのもしょっちゅうだった。78年3月の最終講義には、なじみの芸妓もたくさん来たという。
増田はある時期から妻との折り合いが悪く、大学や、大学近くに借りたアパートで寝泊まりしていた。「正月も家に帰らず勉強している教授の顔が見たい」と言って、作家の川端康成が訪ねてきたこともある。
ハイデッガーや道元など東西の先哲の書物を読みあさり、建築論を究めようとする「聖」なる部分と、こうした「俗」な部分が同居していた増田。そのウイングの広さが学生にはまた魅力だった。
「広いだけじゃない。その思索は深くて難しい。祇園で遊びながら深いんだから、そりゃすごい」。70年に京大大学院を修了し、ボザールに留学した門下生の杉本安弘(74)=京都市=はそう言って笑う。
終戦直後の大陸で、増田は何を目にし、何を感じたのか。命のはかなさと、生きることへの渇望と・・・。増田は聖から俗まで全てがつながっていることを、学生たちにさらけ出すように生きていた。