増田友也(1914~81年)には、建築設計の実務を手伝うスタッフが大勢いた。その多くは「マスケン」と呼ばれた増田研究室に属する大学院生や研究生で、増田の単独設計による50年代の一部の作品を除くと、設計作業のほとんどはチームで行われている。
現在は京都市南西部の桂キャンパスに移転している京大建築学科がまだ吉田キャンパスの本部構内にあった頃、増田研究室の設計アトリエ(製図室)は、構内北東に立つ建築学教室本館裏にあった。
35年完成の旧写真アトリエを改装した小さなコンクリート打ち放しの建物で、増田は助教授になった58年ごろからここを拠点に学生らの設計指導に当たっている。
チーム増田の設計作業はどのように始まるのか。複数の門下生によると、まず、増田がデザインの方向性を決め、スケッチまたは言葉によって大まかなイメージをスタッフに伝える。スタッフは増田の指示を咀嚼(そしゃく)しながら図面を引き、それをまた増田が指導するといった具合である。
「これで検討してみてくれ」。鳴門中学校(鳴門町三ツ石、72年完成)の設計チーフを務めた人長(ひとおさ)信昭(74)=京都市=が増田から最初に渡されたのは、フリーハンドのスケッチだった。1階部分を柱だけの空間にし、中学生が自由に通り抜けられるようにしたピロティが描かれている。
「そういう空間のドラマをつくるのが先生の意図だと分かった」と人長。増田は細かい指示は出さないものの、「建物のプロポーションだけは終始一貫してやかましく言われた」と振り返る。
増田は建築家として設計活動に従事する傍ら、学問的にも「建築とは何か」を生涯にわたって探究した。その著作をたどると、増田が目指していたのは、その地で生きる人々にとっての世界の一部となる、そんな建築だったと考えられる。
増田は、自身が手掛けた豊岡市民会館(兵庫県、71年)の落成記念講演で「建築とはひとつの全体である」という言葉を何度も使っている。
住む、音楽を聴く、スポーツをする―。そうした目的を果たすためだけに、建築はあるのではない。そこに人が集い、行き交うことで、建築はその地の風景や歴史の一部となる。人は、人と出会うように建築にも出合い、建築との関係を育む。だからこそ増田は建築のありようにこだわった。
主張の強いデザインで建築の存在感を示すことは好まなかった。その場にとって不可分なひとつのピースとなることで、豊かな空間を生み出す。自身が手掛ける建築は、そんな存在でありたいと願っていた。
増田は先の落成記念講演を「豊岡の市民のみなさま、つつしんでこの白い建物をささげます」という言葉で締めくくっている。そこで暮らす人々にとっての建築を目指した増田ならではの言葉であり、それは鳴門の建築群についても同様の精神が貫かれていたと言えるだろう。
遺作となった鳴門市文化会館を撫養川の対岸から眺めると、増田が建築で目指した「一つの全体」が具体的にイメージできる。川沿いに立つ文化会館は、北隣の市健康福祉交流センター(旧勤労青少年ホーム・老人福祉センター)と対を成し、地域の風景に溶け込みながら徳島を代表する建築的空間を創り出している。
増田が教授をしていた頃の京大建築学科で学んだ建築家の野口政司(66)=徳島市山城町=が言う。「川があって、あの建物があって、そこに一つの世界ができている。仮にあの建物がなくなると、市民に愛されてきた場所性そのものが失われてしまう。あそこは鳴門を象徴する独特の場所だと思いますね」。