ドコモモ選定建築の鳴門市民会館と市役所の模型を眺める京都大の田路貴浩准教授(左)ら=京大桂キャンパス

 モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日本支部(ドコモモ・ジャパン)が、鳴門市民会館と市役所本庁舎を「日本におけるモダン・ムーブメント建築」に選定したのは、2008年度である。ドコモモ選定物件は現在、国内で208を数えるが、鳴門の物件は140番目に選ばれた。

 徳島県内での選定物件はこの二つだけで、増田友也(1914~81年)の全建築作品の中でも、京都大学総合体育館(72年)と合わせて3件しかない。

 鳴門の物件をドコモモに推薦したのは増田の門下生ではなく、鳴門に01年から06年まで住んでいた加藤雅久(54)=名古屋市、居住技術研究所主宰=だった。加藤は、解体される歴史的建築物などを訪ねて建築材料の変遷を調べている研究者で、ドコモモの国内登録専門委員でもある。

 その時期、妻の仕事の関係で加藤はたまたま鳴門に住むことになり、増田建築と出合った。当初はそれほど意識はしなかったが、鳴門を離れる頃になって「どれも徹底的に使い込まれ、市民生活の舞台になっている」と感じるようになる。

 作品として見た建築と、生活目線で見た建築とは、どこか乖離がある—。加藤は建築に対して常々そんな思いを抱いていた。「竣工写真をきれいに撮るのはいいけど、その後はどうなのか」と。

 しかし、鳴門の市民会館や市役所については「作品としての派手さはないものの、日曜日には建物前の広場で青空市が開かれたり、建物をつなぐオーバーブリッジの上で高校球児の甲子園壮行会が開かれたりする。この建物が新しい都市生活の舞台を提供し、それが市民に受け入れられている特徴的な例だ」と言う。

 誰のための建築か。その建築や公共空間は人々を幸せにしているのか。加藤の視点はそんなところにあった。

 加藤が鳴門の物件をドコモモに推薦したのは、鳴門を離れた後の08年12月。最初は鳴門の増田建築19件(加藤の分類では、併設の島田幼稚園と島田小学校を別々に数えて20件)を一括して推薦した。

 しかし、選定対象が20~70年代の建築であったことから文化会館(82年)が年代不適合で除外され、「群登録も不可」として差し戻される。そこで加藤は市民会館と市役所本庁舎、市職員共済会館の3施設に絞って再提出し、審査で市民会館と市役所の2施設だけが認められたという経緯をたどっている。

 この時の選定会議に出席していたドコモモ・ジャパン幹事長(当時)の兼松紘一郎(78)=東京都新宿区、建築家=が、鳴門の増田物件を審査した際の様子を自身のブログ(09年8月21日付け)につづっている。

 「DOCOMOMO選定会議で、材料の研究者加藤雅久さんからこの一連の建築を紹介されたとき、ホーという溜め息ともつかぬ空気が流れた」「代表作といわれる京都大学の総合体育館は知っているが、鳴門の建築群はほとんど誰も知らなかった。写真が提示され資料によって概要の説明がされると皆の好奇心が刺激された」

 15年に京都工芸繊維大で開かれた「増田友也 生誕100周年記念建築作品展」に、鳴門市民会館と市役所の100分の1模型を出品した京大大学院工学研究科准教授の田路貴浩(55)=建築論=は「L字型に配置された二つの建物がセットで存在していることで、さらに価値が高まっている」と言う。

 市民会館と市役所が一体的に見えるのは、二つの建物をつなぐオーバーブリッジの効果による。これは増田が強く主張して実現にこぎつけたデザインだった。