「半隔離」を体現した、障子のような鳴門市役所の半透明ガラス窓

鳴門市役所の構造がよく分かる模型。建物中央の柱から窓側に伸びる梁が特徴だ(京大大学院建築学専攻・田路研究室所蔵)

 公共施設など大きな建物の設計は、デザインを担当する意匠設計者と、柱や梁などの強度を決める構造設計者が協力して進める。

 デザインに優れた建築の裏には、優れた構造設計家がいる。丹下健三(1913~2005年)が構造設計家の坪井善勝(1907~90年)と組んで東京五輪の舞台となった国立代々木競技場などの名作を生み出したように、60年代の増田友也(1914~81年)は、坪井の下で学んだ若林實(1921~2009年)と多くの作品で協働した。鳴門市役所本庁舎もその一つである。

 意匠設計者としての増田は、市役所の南北を総ガラス張りにし、その窓の割り付けに注力した。大学院生の頃に増田の家で市役所のイメージスケッチを見たという門下生の渡部英彦(84)=横浜市=は「窓の開け方を何通りも考えていた。何度も何度も書いたり消したりした鉛筆の跡があった」と明かす。

 引き違いの窓と固定窓をどういう配置で割り付けるのか、そこに増田の関心があったのだろう。「そんなスケッチを見てあの市役所を眺めると、なるほど、気品漂ういい建物になっている」と渡部は話す。増田は大小さまざまなガラスで構成する窓を東西に整然と並べ、シャープな外観をつくり出した。

 増田建築の中では鳴門市役所が一番好きだという京大大学院工学研究科准教授の田路貴浩(55)=建築論=は、この建物の魅力は窓と青いパネルの割り付けにあるとした上で「増田は建物をスクリーンのような薄い幕で囲おうとしたのではないか」とみる。

 増田が64年に記した「日本の空間表現について」には、日本の建築的空間の特徴は開放性にあり、その開放性を演出するものが「半隔離」だと書いている。障子がそうであるように、外から中は見えそうで見えない。それでも光は透過する。市民会館や市役所はそうした半隔離を体現する半透明のガラス張りになっており、開かれた行政を印象付けながら、近代建築と日本の伝統美を融合させようとしたようにも思える。

 意匠設計者が考えたそんなデザインを力学的にどう持たせるか、そこが構造設計者の腕の見せどころだ。増田と組んだ構造家の若林は、新しい技術へのトライで応えた。

 市役所本庁舎では、建物の四隅や窓側には柱を置かず、中央部分の廊下に2本一対となった柱を13対(計26本)並べた。その柱から両サイドの窓に向かってやじろべえのように梁を伸ばし、梁の先端を細い鋼材の柱で押さえ付けて安定させている。

 この梁の形式はキャンティレバーと呼ばれ、窓側には太い構造材を一本も入れずに窓ガラスとパネルで薄い幕のような壁を実現させた。つまり、窓が並ぶ南北の壁はそれ自体が構造体とはならないカーテンウォールになっており、当時としては先駆的な試みだった。

 「増田先生は鳴門市役所の構造を講義でもよく取り上げた。面白い構造だったから、それを楽しげに話していた」。市役所が完成した翌年の64年に京大建築学科に入った人長信昭(74)=京都市=はそう述懐する。

 先に完成していた市民会館とオーバーブリッジでつながれた市役所は、人と車の通り道を立体的に分ける考えから2階が基準階として設計され、北側の正面玄関にはチョウの羽のように折れ曲がったY字型のキャノピー(ひさし)が取り付けられた。

 京大に残る市役所の設計図を見ると、このキャノピーは当初、屋根がフラットなT字型で設計されていたが、Y字に折り曲げるよう後から鉛筆で図面に上書きされた痕跡があった。飛躍する鳴門市をイメージし、キャノピーにも造形性が加えられていた。