増田友也(1914~81年)が鳴門市で最初に手掛けた仕事は、61年に完成した市民会館(鉄骨造り一部鉄筋コンクリート造り)である。2年後の63年には南隣に市役所本庁舎(鉄筋コンクリート造り3階建て)を建て、この二つの建物を全長118メートルのオーバーブリッジでつないだ。
市民会館と市役所本庁舎は、後世に残したいモダニズム建築として専門家から高い評価を受けている。モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO(ドコモモ)の日本支部は、2008年度にこの二つを「日本におけるモダン・ムーブメント建築」に選定した。
建築特集をよく組む情報誌「カーサ・ブルータス」(マガジンハウス刊)も、15年9月発行のムック本「ニッポンが誇る『モダニズム建築』」の中で、鳴門の市民会館と市役所を取り上げている。紹介文には「その造形美や素材使いなど、いずれも重要文化財級の価値ある建築」とある。
ところが、こうした評価は一般にはあまり浸透していない。モダニズム建築がどこにでもあるような普通の建築に見え、レンガ造りや石張りで装飾も施した旧来の様式建築に比べると、珍しさやありがたさを感じさせないからだろう。
事実、徳島市の文化の森総合公園に県立文書館として部分移築された旧徳島県庁舎(1930年、設計監修・佐野利器(としかた))のような擬洋風建築には保存運動が起こっても、鳴門市役所本庁舎には「あんな古い建物のどこがいいんだ」という反応が少なくない。建物としての分かりにくさ、それがモダニズム建築への理解が広がりにくい要因となっている。
1920年代から始まるモダン・ムーブメント(近代建築運動)は、それまでの伝統的な様式建築を否定し、新たな工業化の時代にふさわしい建築を模索する試みだった。装飾を排して合理性や機能性を重視し、材料にも鉄やガラスやコンクリートを使う。そんな中から生まれたのが、後にモダニズム建築と呼ばれる建物である。
同じ官庁建築でも、権威的で重厚な外観を持つ旧徳島県庁舎の造りに比べ、モダニズム建築の鳴門市役所本庁舎はプロポーションがスマートで、窓の割り付けも軽快だ。その違いは、建築を貫く精神や時代背景が異なることから来ている。
「特に戦後のモダニズム建築は、民主主義社会を築こうとする戦後精神と共振し、それを体現するものだった。権威の象徴としての建築から人間のための建築へ、根本的な転換が図られた」。ドコモモ日本支部代表で京都工芸繊維大教授の松隈洋(60)=近代建築史=は、戦後モダニズム建築の意味をそう指摘する。
様式に縛られた彫刻のような建築ではなく、身近な生活環境をより良くするための機能的な造りを目指したモダニズム建築。その考え方は、現在の建築デザインにも受け継がれている。
2016年には、東京・上野の国立西洋美術館など世界7カ国に点在するフランス人建築家ル・コルビュジエ(1887~1965年)のモダニズム建築17件が世界文化遺産に一括登録され、20世紀の近代建築が歴史的評価の対象になってきたことを印象付けた。
鳴門市政策監の三木義文(61)は「市役所本庁舎を仮に現地で建て替えるとなると、土地の有効利用の観点から、恐らく隣の市民会館も取り壊すことになる」と言う。つまり、市役所の現地建て替えは、ドコモモ選定建築の二つを同時に失うことを意味する。
古い建物には、その時代を今に伝える歴史的・文化的価値がある。では、市民会館と市役所本庁舎はどういう時代背景の中で生み出され、設計にはどんな思いが込められていたのか。