鳴門市民会館(左)と並び立つ増田友也の名作・市役所本庁舎(写真奥)。保存か解体かの議論が始まる=鳴門市撫養町南浜

増田友也

 鳴門市役所の本庁舎が耐震基準を満たしていないとして、市が新たに庁舎を建てる計画を進めている。築55年の現庁舎は、20世紀の新しい建築スタイルを示したモダニズム建築として高い評価を受けており、現地で建て替えるとなれば解体されることになる。この庁舎を設計したのは、京都大教授で建築家としても活躍した増田友也(1914~81年)。市内には増田の作品が他にもあり、これらを「鳴門の建築遺産」として再評価する声が出始めている。耐震化・老朽化という課題に直面する「増田建築」の今後を考える。 (編集委員・谷野圭助)=全16回

 鳴門は増田建築の宝庫と言われている。市役所本庁舎のほか、体育館や集会所の機能を持つ市民会館、幼小中の学校群、1600人収容のホールを備えた文化会館など、その数は19件にも上る。

 増田は、設計活動を本格化させた57年から亡くなる81年までの24年間に、61件の建築作品を世に送り出した。そのおよそ3分の1が鳴門に集中しており、現存する増田建築の集積度でいえば、増田の活動拠点だった京都よりも高い。

 しかも鳴門には、増田の初期作品の市民

会館(61年)から、遺作となった文化会館(82年)まで、建築家としての歩みを映す各時代の建物がそろう。いわば、増田の建築と思想の変遷を身近な建物を通して知ることができるわけだ。

 増田が鳴門でこれほど多くの公共建築に携わることができた背景には、59年から鳴門市長を7期28年務めた谷光次(1907~2002年)の存在がある。谷は京都帝大法学部の出身で、学部は違えど同じ京大つながりから、工学部の増田に設計を依頼したのだろうとされる。

 一つの自治体が特定の建築家に幾つもの公共建築を発注し続けるという、今ではあり得ない関係が鳴門市と増田との間には築かれていた。競艇事業の収益を背景にした市の豊かな財政、そして谷の長期に及ぶ政治的安定が、それを可能にしていた。

 「市役所に学校、それに文化会館と、街の骨格となるような公共施設を増田先生は次々と任された。建築家にとってこれ以上の幸せはないし、同じ建築家の作品がこれほど凝縮しているのも街の大切な宝だと思う」

 自身も京大の建築学科に学び、増田の授業を受けたことがある建築家の野口政司(66)=徳島市山城町=は、一つの自治体から継続的に活躍の場を与えられたという点で、増田は日本でもまれな建築家だと指摘する。

 鳴門市の財政は80年代から悪化し始め、01年度には財政非常事態宣言を発表する。老朽化してきた市役所本庁舎の建て替えを促す声は議会でもたびたび上がったが、市は財政難を理由にずっと先延ばしにしてきた。

 ところが16年の熊本地震をきっかけに、状況が一変する。熊本では災害対応の司令塔となるべき自治体庁舎が被災し、使えなくなる事態が相次いだ。そこで国は、庁舎の建て替え事業費の一部を地方交付税で支援する新制度を20年度までの期限付きで創設した。庁舎の耐震化が進まない自治体に対応を迫るためで、鳴門市もこれに乗ろうとしている。

 市は、本庁舎整備の有識者会議を5日にスタートさせ、新庁舎の建設位置や規模、現庁舎の利活用の是非などの方向性を今秋ごろに出すという。保存か、解体か。鳴門の埋もれた財産ともいえる増田建築が存廃の岐路に立っている。