入院初日の面会後、じめっとした晩春をペタペタ歩きながら自分が考えていたのは生活の変化だった。それも、誕生の喜びというよりも“今の生活が終了する”ことのほう。陣痛直後は「ようこそ生命!」と大興奮だったが、もう少し時間がかかりそうだとわかってからはどんどん冷静に我が身を振り返るようになる。そして、改めて誕生によって男女2人猫1匹で暮らしてきた東京の模範的カルチャーライフの終わりが近いことに気づき、卒業の切なさを噛み締めた。
とはいえ、自分たちの分身が爆誕する前夜であることにすさまじい興奮も継続して押し寄せてくる。これから何が起こるか、想像もつかないけれど、とてつもない、何かは、確実に来る! 新学期とかニューアルバムとかってものじゃなくて、いきものが来る! しかも来て、その上で自分の人生や生活にずっと付帯する! しかもその納品がいつかは現状未定とのこと! ウソでしょ書を捨てよ外へ出ようよ新生児!
息苦しいくらい感情が大揺れして、それでもやることは待機のみ。あまりにしんどいものだから病院を出てから景気良くなりたくて「アベンジャーズ・インフィニティ・ウォー」を観る(口頭で許可を取ったが妻の日記上では当然ディスられてた)。でも作中で登場人物のねじれた親子関係が映し出されれば「絆ってそういうのちゃう…!」とそわそわし、別のキャラが死ねば「親御さんはさぞかし…」と気が気じゃなかった。そして家に帰っても「寝てるうちに生まれる可能性が…?!」と落ち着かず、猫を膝に乗せてスプラトゥーンを深夜までプレイした。ソファで目覚めて早朝。数時間おきに届いていたLINE、どんな痛みが来ていたかの記録。不真面目で本当に申し訳ない。まだリリースは遠いらしい。
陣痛をこじらせてから丸1日。ふたたび見舞いに行って病室のカーテンを開けた先にいた妻は、予想以上に参っていた。前夜に6、7分おきだった陣痛は明け方5分おきに縮まり、さらに4時間おきに90分の点滴交換&モニタ定期観察イベまで発生するのだという。眠ることを許されない状況で強くなる痛みとプレッシャー、彼女はすっかり疲労困憊してしまっていた。「文学フリマで買ったZINEを持ってきて」と言われていたが、読むどころじゃないそう。Blu-rayなら楽しめるねと「High&Low」を持っていったが、プレーヤーがDVDしか再生できないことが病院で発覚してオウフ……という具合。
妻の状況は過酷だ。陣痛にも種類があり、昨日今日のものは前駆陣痛というプレビュー公演的なものだそう。進行を巻くための陣痛促進剤を打つことが検討され、「スクワットをしましょう」「そのへん歩いといで」など赤子を放り出すためのフィジカル努力を病院から命ぜられている。地獄の部活動のようだ……。
一方、自分にやれることは意外となく、仕事とか、一時帰宅してエアコン工事の立ち会いとか、病院食に慣れない人のためにコンビニで何かを調達するとかをした。すぐそこに出そうで出てこない命と、激烈にしばかれている命があり、あと自宅には留守を預かる猫の命もあるというのに、そわそわアイドリングしているだけの命ときたらどうだろう。こういうときにこそ仕事が捗る。5月だっていうのに、休憩室の冷房は心底ありがたく涼しい。
そういえば、休憩室を根城にして2日目だけど、ここにも人生のドラマは転がっている。クロックスを履いたパパにオフ日のギャル結い髪型したママという下町カップルの励まし合いとか、昭和スタイル義両親と真面目そうな夫のぎこちない待機組トークとか。
出産前の夫婦を対象とした両親学級なんかでも思ったけれど、義務教育から離れて久しく同じクラスタ以外の人たちと、こうして妊娠出産という生理現象のもとにいろんなジャンルの人間がクロスオーバーできているのは不思議で面白い。自分は人付き合いのまずさに定評があるので「みんな仲間だね!」なんて気分はさらさらないながらも、抱く気持ちはある程度似ているんだろうな。
一方、4人部屋に収容された妻は「先にリリースした同部屋の人の夫がカーテン越しにバースト撮影したりうるさかったりしてマジしんどい」とLINEしてくる。うわーそういうもんか、生まれたら謙虚に静かにしていよう……とは思いつつ、そんな自分も出発前の自宅に届いたパイナップルをザクザク剥くなどしていた。パイナップルは妻の空腹を満たしたが、胎児は居心地よく滞留したままだ。
前日に20いくとヤベー痛いなんて話してた陣痛のピーク値が、この日から50を越えた。病室で談笑していても、妻はやんわり脂汗をにじませている。フェスみたいな入院患者用リストバンドを付け、ダッセーパジャマで苦しそう。それでもイケてる顔面したこの人が、本当に神々しい。率直に言って腹の中でスローライフくすぶらせている男児なんかよりもぶっちぎりで愛しく、そういう意味でも新生児が心配だ。
結局、2日目も面会時間中にリリイベが始まることはなかった。しかし前進してはいて、予定日である明日が最終決戦になるのは体感でお互いわかっていた。帰宅してから「最高の夏にしてくれてありがとう」「きみのパートナーになれて本当にうれしい」など、よくある感情ダダ漏れのカップルのようなLINEのラリーを繰り広げる。
そして気分は盛り上がり、ふとメルカリに自分の妊娠レポ同人誌が売られてるのを知ってウケてから「そういえばまだ在庫ある!」と思いつきでTwitterにて募集をかけ、ありがたいことに30冊即完。各購入者さまにDMをブン投げるというタスクで鼻息を整えて夜中を過ごしたり、合間にエゴサして見ず知らずの人が「なぜか本人さんのお子様リリースが気になる」とツイートしてるのを発見して「あったけえインターネットだなあ!」とうれしくなったりもする。
ほかにも分娩時のやることの復習や月齢別の発達の仕方まとめなんかを読み返しながら「ぜんぜん頭に入らん、ウケる!」とハシャぐなどした結果、再度となる深夜寝落ちで1日が終わった。目が覚めてあんな壮絶なことになると知ってたら、睡眠導入剤をかっこんででもちゃんと寝たというのに。