今回はとても長い記事になったんですけども。まぁ、暇つぶしにでも。
倭国と天皇家は、縄文の古くから連綿と、日本列島にあった、そして大和の都は神代から奈良にあったと、ずっと疑いようのない常識として語られてきましたね。
これらは実際のところ、本当の話ですか。
古代に行って、見てきたの?
偉大な先人がそう伝えてきたからですか。
つまり誠に失礼な表現をして申し訳ないのですが、もし偉大な先人が、間違って伝えてた・・・とは、考えられませぬか。
電子書籍の拙著「日本の地名の真の~(上)」で解説している九州系地名を、再度検証していたところ、
「倭国の本拠地が時代と共に西から東へ移動している」のは確実と感じられたのですよ。
そして中国史書は、倭国の本拠地の変遷を、ある程度書き残してるんではないかと、思い至ったのでした。この辺りをゴソゴソと探ってみます。
決定的証拠にはならずとも、最後まで読むと、ちょっとは近づいていると実感できるかも知れませんよ。
まぁ、日本の歴史はほとんど日本列島内と普通に考える方は、ちょっと苛立つ内容かもしれませんけど。
まずは歴史書から、関係する箇所を抜き出します。
参考
倭・倭人関連の中国文献(ウィキペディア)
『中国正史日本伝』(石原道博編訳)
「正史三国志について」
ほかネット検索によったりする。
──山海経 ──
「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。
蓋国というのは場所が不明とされてるのですけど、北朝鮮に蓋馬高原があるので、だいたい北朝鮮の西の平野部と言ったら、外れてもいないと思われます。
蓋国とは、燕と倭の間にあったらしい。
ここに登場する燕とは、秦の頃(前3世紀)の燕を言うのか、漢の時代の燕地方のことを言ったか。ともかく前3~前1世紀頃と見られ、紀元前から倭は燕に所属したとか。
──漢書地理志の要点──
「楽浪海中に倭人あり。100余りの国に分かれている」とある。
紀元前1世紀のこと。
現代人は、日本列島に100の国があったと思い込んでいる。ここに問題の発端があると見られ・・・。
──後漢書の要点1──
「西暦57年、倭の極南海(最南端)の奴国(委奴国)の王に金印が授与された」とある。
これは間違いなく福岡県の志賀島で見つかった「漢委奴國王印」のこと。委奴国、或いは奴国は、福岡県にあったことと矛盾しない。
極南界とは、最南端の境界のことであるから、従って「倭国の最南端は福岡だった」と書いてあるのが要点になるのです。
──後漢書の要点2──
『後漢書』の冒頭にはこうある。これはスルーされがちなのですけど。
「倭は韓の東南大海中にあり、山島によりて居をなす。およそ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」
ここに登場する武帝とは、前140~前87年の武帝のこと。
ここでなぜか、朝鮮が出てくる。
文脈からは、「武帝が朝鮮を滅ぼしたから、その影響で、紀元前1世紀に倭の使いが通じるのは100国から30国に減った」と読み取ることもできる。・・・え?この時代に、朝鮮半島と倭人の間には、一体何が起こったのか。
──後漢書・檀石槐伝──
光和元年(178年)、「檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという」
この汗人については「三国志集解」で倭人のことだと注釈があり。
魚とりが上手いと書いてあるので、日本列島の倭人と同様に、素潜りや漁のプロ「海人」である、倭人そのものと言えます。
倭人が遼東半島の東に居たことは、倭人というのは、日本列島に留まらず、東アジアでかなり広域的に居住した民族だったと分かるのですが。
で、烏侯秦水とは、内蒙古自治区の東端、乾燥地帯に流れる川で、この川の東に汙人がいたというのですね。扶余のすぐ南方に倭人がいたというのは、ちょっと気になります。
一つ、汙人居住地の候補として挙げられるのは、北朝鮮西部の平安北道に、かつて「播汗」という土地があって、もしかするとこれが汙人の土地だったのではないかという点。汗と汙は似ているので、中国的な言葉遊びの意味で関連付けているかもしれません。
──晋書の要点──
晋書は、倭の女王卑弥呼の出身地について触れている。
「王名は卑弥呼。宣帝(司馬仲達)が平定した公孫氏(の出身)なり」
この一文は、倭と邪馬台国を研究してる方は、デタラメ扱いするか、取り上げない場合が多いのです。しかし他の中国史書を信じて、これだけは信じないというわけにいかないのでは。まぁ歴史研究は、自分本位の見方に偏るのが一般論ですけど。
公孫氏は遼東半島に本拠があった。卑弥呼が公孫氏ではないにしても、卑弥呼が遼東半島と汙人の拠点の付近に居たかもしれない、そんな出自の秘密をはらんでいるとすれば・・・?
──魏志倭人伝の要点1──
倭人伝に登場する、最初の倭国の地方自治体は狗邪韓国であり、当時の倭の最北端となる。
現在の韓国の慶尚南道(韓国の南東)の沿岸部にあった。これは西暦200~250年頃と見られ、日本書紀では7世紀まで、朝鮮半島の倭地は「任那」という名に継承される。
──魏志倭人伝の要点2──
倭人伝の倭の諸国(地方自治体)の位置は、普通に考えればこうですね。
・狗邪韓国=朝鮮半島南部、沿岸の倭地
・対海国=対馬(隋書に都斯摩国とあり)、和名抄では対馬国
・一大国=壱岐(隋書に一支国とあり)、和名抄では壱岐国
・末盧国 =松浦、和名抄では松浦郡
・伊都国=糸島半島、和名抄では怡土郡
・奴国=儺県(なのあがた)那津(なのつ)、福岡市付近、和名抄では那珂郡に継承される
・不弥国=宇美町(?)和名抄では糟屋郡大村郷か。『角川日本地名大辞典』によれば、『地名辞書』に宇美、須恵の付近とある。大村郷は於保牟良と表記がある。すると、「不弥→宇美」、または「不弥→ほむ→於保牟良」と変遷したと考えられる。
ここまでは発音的にも、地理的な順序的にも、和名抄記載の国郡名とも、矛盾しない。
投馬国、邪馬台国以降は諸説入り乱れ、確定に至っていない。この邪馬台国時代は、西暦200~250年頃の情勢を反映したもの。
──中国史書・韓伝の要点──
1・魏志馬韓伝「韓(馬韓・弁韓・辰韓の総称)は、帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南に倭と接し・・・」
2・後漢書馬韓伝「南に倭と接す」
3・晋書馬韓伝「東と西は海により限界とす(南は含まれない)」
つまり「韓(馬韓・弁韓・辰韓)」とは、東は海に接し、西は海に接し、南は海に接しておらず、南は倭に接することになる。朝鮮半島に倭の土地があったとはっきりわかる。ここは何故かスルーされがちだ。
・・・なにか「朝鮮半島は古代からずっと韓国人の土地だ」という韓国的な決め付けが、日本史学の中にある?
──中国史書・韓伝の要点──
さらに倭人が朝鮮半島に居住していた記録を探ってみる。
・後漢書馬韓伝「馬韓の南界は倭に近く、全身に刺青をするものがいる」
・後漢書弁韓伝「国は倭に近いので、全身に刺青をするものがいる」
・魏志弁辰伝「国は鉄を算出し、韓、濊、倭などが採りにくる」
ということで、倭人そのものが朝鮮半島の南端に居住したとわかる。これらは西暦200~250年頃と見られる
──古事記・日本書紀から1──
阿加流比売と卑弥呼
記紀には、加羅(韓)の比売碁曽の阿加流比売(ひめごそのあかるひめ)が海を渡って、倭の難波と豊国へ社を建てたのが比売碁曽社(ひめごそのやしろ)の始まりとある。
新羅の王子、天之日矛(都怒我阿羅斯等)は、阿加流比売を追って倭の但馬(たじま)国へ至った。天日矛の子孫の田道間守は、第十一代垂仁天皇に仕えた。
阿加流比売の「阿加流」は明るい=太陽、「加流」は加羅、「流」は「加羅から海を流れた」意味ならば、「阿加流比売は、加羅から海を渡った太陽の子」となる。
阿加流比売は赤い玉から生まれた。これは扶余の神話そのもの。扶余系の高貴な女性が海をわたって倭へ入ったと想像できる。
阿加流比売は「明るい姫」で日の巫女であるから、日巫女である卑弥呼と、同系統の名と判断できる。
また、比売碁曽の「比売碁(ひめご)」が卑弥呼と重なることから、比売碁曽の阿加流比売と卑弥呼が同一だと見られるわけです。
卑弥呼の名を分解してみると、卑は日、弥は渡る、呼は子。或いは弥呼は巫女とか。
弥=渡るとは、海を渡った意味ではないかと。
そうすると卑弥呼もやはり、「海を渡った太陽の巫女」で、比売碁曽の阿加流比売と全く同様と言って過言で無しだったのですね。
馬韓には「卑弥国」という、卑弥呼の名を冠する一村落国家があったのは、卑弥呼に関係すると見ることができますね。ここは卑弥呼が居た土地だったとか言うと、愛国的な日本史研究者の方に怒られそうなのですが。
と、ここまで2012年の拙著『崇神天皇に封印~』に書いたのですが、阿加流比売=卑弥呼説というのは、既に提唱者があったとか。
晋書の「卑弥呼は公孫氏の土地にいた」との情報と合わせると、卑弥呼の移動経路が想像できる。公孫氏の土地→馬韓の卑弥国→加羅(任那)→倭→邪馬台国という移動経路(推定)。勿論これは日中の史書をまとめて推定したものであって、世界記録保持者級のとんでもない勢いで否定されるだろうし、正解かは定かでないです。
まぁ、まとめると要するに、卑弥呼と阿加流比売の漢字は、全く同じ意味を持ってることになり、同一人物とすれば日本の歴史が変わってきますけど
ここに崇神天皇について加えると、またまた違った古代史が見えてくるんですけど、長くなるので・・・。
これに関連した記録があり、
──魏志馬韓伝──
実は倭国大乱のような出来事は、倭国だけで起きたのはなかったです。朝鮮半島でも同じ頃、桓帝~霊帝の間(146~189年)、
「韓と濊が強勢となって郡縣は制御不能に陥り、多くの民が韓国へ流入した。公孫莫らを派遣し・・・韓と濊を討伐し・・・その後、倭と韓を帯方郡に帰属させた」
この一文でおかしいのは、最初は「韓と濊」の大混乱・大移動を取り上げているのに、いつの間にか最終的に、「韓と倭」の話に変容しているところ。
要するに倭人は、朝鮮半島の南部に本拠があり、突然の北からの韓・濊の移民に押し出される形で、朝鮮半島の本拠地から、日本列島へ本拠を移したと読み解けませぬか。
また、同じ頃に檀石槐が遼東半島の東方の倭人(汙人)を襲撃しており、逃れた汙人らが南方へ進路を取ったとすれば、制御不能の中に汙人も含まれるかもしれませんけど。
その流れのままに、倭国大乱とは、西暦160~180年代に、
「朝鮮半島の倭人が、日本列島に大挙して移住し、先住倭人(委奴国やアイヌ・縄文の混成集団)と争ったことが発端」
と考えてるのですが。
当時の日本列島を治めることができたのは、大王の血を受け継ぐ卑弥呼しかありえなかったでしょう。そして私は卑弥呼は崇神天皇だと思ってるのですが・・・。
──辰王とは──
魏志馬韓伝「辰王は月支国で統治する」「蘇塗の義は西域の浮屠(仏教)に似ている」
後漢書辰韓伝「秦の亡命者」「秦語に類似しているので秦韓とも呼ぶ」
魏志弁辰伝「辰韓の十二国は辰王に所属する」
この辰王というのはおそらく秦の亡命者というのは、言語が秦語とあることからも明らか。たぶん紀元前に徐福の一団が渡ったのは、この辰王国だったのではと思うのですが。
気になるのは隋書に登場する、筑紫国の東方の「秦王国」のことですよ。
辰韓=秦韓とあるのだから、辰王=秦王となる筈。
そうすると筑紫の東方の秦王国=辰王国ということで、ファイナルアンサーですよ。
王国というからには、倭の大王(天皇)は、秦王家の血筋、ということになるのかも。
ネットで調べると、秦の始皇帝は金髪で蒼眼という話、ありましたけど、月氏と同じでイラン系という話です。辰王が首都を置いた月支国というのも、月氏と近縁だからこそです。
まぁ古代の天皇には、秦王家に留まらず、いろんなDNAが入ってそうですけど・・・。
仮に辰王家が、大王(天皇)家そのものだとしますね。
卑弥呼が擁立されたのは辰王の血筋だったからですかね。でも卑弥呼は扶余系神話の阿加流比売と同一として、晋書では公孫氏の土地に居たとなると、
「秦+扶余+公孫氏+辰王=天皇」という、天皇家の過去の栄光はもの凄いことになるんですけど。
つまり、秦から扶余、公孫氏、辰王、天皇が出た、というふうに見えますね。みんな繋がってることに。
あーそして、個人的には、根幹は烏孫と思うのですが。ということは、、まあ、そのへんはいずれ。
あちこち脇道に逸れて長くなって、何を言わんとするか目的を忘れてましたが、以上の倭国の情報を、時系列に並べてみると、
(A)・紀元前1世紀以前、(武帝が朝鮮を滅ぼす以前)、倭は100余国あり、燕に属す
(B)・紀元前1世紀(武帝が朝鮮を滅ぼした後)、倭は30許国になった
(C)・西暦57年当時の、倭国の最南端は福岡の奴国(委奴国)、本拠は朝鮮半島南部
(D)・西暦160~180年代、朝鮮半島で民族移動、同時期に倭国大乱
(E)・卑弥呼は公孫氏の土地(遼東、楽浪付近)で生誕(170年代と仮定)、阿加流比売は赤い玉の扶余神話を持ち、卑弥呼と同一人物か。
(F・西暦189年頃、倭国大乱末年、卑弥呼(阿加流比売)が倭へ渡海?
(G)・西暦200~250年頃、朝鮮半島に倭人が居住していた
(H)・西暦200~250年頃、倭の最北端は狗邪韓国、西日本に倭の拠点、帯方郡に属す
(I)・鮮卑の檀石槐が遼東半島東方の倭人を攻めて捉え、鮮卑の土地へ移住させたという。西暦178年。
(C)の情報「倭の最南端は福岡の委奴国」を起点とし考察すると、(A)・(B)の倭の諸国があった場所は、日本列島では無い、燕(遼東半島)に近い場所になると思われます。
中国史書の各韓伝で「倭人は朝鮮半島に居た」ことが記してあるから、2世紀以前の倭国の本拠地が、朝鮮半島だったことで充分に整合することになるのであります。
──日本列島の倭人──
忘れてならぬのは、倭国の本拠が朝鮮半島にあったとしても、1世紀当時、倭人そのものは日本列島の各地に居住したことです。これは各地の弥生時代の遺跡を見ても明らかなこと。彼らが倭人であっても当初は呉や越、または朝鮮半島の倭・韓、或いは騎馬民族系の人々で、大陸各地からの移住者・亡命者であった。
彼らは「倭国の中央政権に従う人々」ではなかったとみられる。なにしろ西暦57年時点で、日本列島における倭国の支配地は、福岡県地域が最南端だったのだから、大部分の日本列島の倭人は、倭国には所属しなかったといえる気がしますが。
扶余系で辰王ともお仲間の卑弥呼軍団が、海を渡って日本列島先住民と争って倭国大乱が起きたのでせう。それは崇神紀で「疫病と百姓の流離反逆が収束しないやばい状況」として描かれていますでしょう。
崇神天皇の時代は卑弥呼の時代。少なくともこれは理解できると思うのですが。これが収束したのが、おそらく霊帝の末年の西暦189年頃。
そして倭人(日本民族)に、少なくとも3つの起源があるとわかる。すなわち、
1日本列島に住む古くからの縄文人
2呉越地方から渡ってきて同化した者(倭国王・帥升という人はこちらなのやら)
3朝鮮半島の倭国経由で渡ってきた騎馬民族系の倭人(卑弥呼はこちらになる)。
まぁ、以上の内容は賛否両論出そうなのですけど、これは想像なので、参考までに。
以上の調査結果を、時代順に図解で表すと、以下のようになった。
といった具合に、天皇と日本民族の移動経路が実は朝鮮半島にあったという話なんですが、まぁ気に入らないとか、そういう話になりましょうが。ここに記紀の情報を入れると、はっきりするのですが。本日はここまで。
ともかく、電子書籍の下巻のほうに、この記事を加えます。
なんでこの内容を「日本の地名の~(下巻)」に挿入するかというと、
朝鮮半島の倭地には、九州・近畿と同様に、九州系地名があったから」なのですね。
下巻のほうでは、もう少し踏み込んだ内容にしておきますので。では。
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