次世代中国 一歩先の大市場を読む
中国のシェア自転車はなぜ失速したのか
~投資偏重「中国的経営」の限界
2018年08月30日
利益をあげる方法は後で考える
中国で一世を風靡し、日本をはじめ世界各国にも展開されている中国のシェア自転車が急速に輝きを失っている。事実上、どこからでも乗れ、乗り捨て自在の圧倒的な便利さで爆発的に普及したが、過当競争による過剰投資、街角の放置自転車の横行、デポジット(保証金)管理の不透明さといった問題が多発、新規投資資金の流入が細り、資金繰りの危うさが伝えられる。「中国のシェア自転車は終わった」と断言するメディアもある。
2016年12月、シェア自転車のサービス開始後まもない頃、シェア自転車大手、モバイク(MOBIKE、摩拝単車)の共同創業者、CEO、王暁峰(敬称略、以下同)は中国の経済誌「財経」のインタビューに応じた。「車両価格がこんなに高いのに、この料金でどうやって利益を出すのか」との記者の質問に、彼は以下のように答えている。
「もし我々が30%の利益率があるなら、どうして投資家を探さなければならないのか。なぜ投資家と利益を分け合う必要があるのか。我々がひたすら投資家を探し続けているのは、つまるところ明確な利益モデルがないからだ。誰かお金を出して、我々に生き残って発展するチャンスをください。とにかく誰よりも速く走って、利益をあげる方法はその後で一緒に考えましょう。創業の段階でいま利益の話をするのは早すぎる」(訳は筆者)。
やや冗談めかした口調も感じられるが、中国の事業家と投資家の関係について率直に心情を語ったものだろう。むしろ正直で気持ちがいいくらいである。
しかし残念ながら、モバイクは「一緒に利益を挙げる方法を考える」前に他の企業に「身売り」してしまった。王暁峰はすでに同社にはいない。
都市に発生したバッタの大群
17年2月、この連載の第2回で「中国を席巻するハイテクシェア自転車~仕組みで意識を変える試み」と題する文章を書いた。今読み返してみても、中国版シェア自転車のあまりの便利さに気分が高揚しているのがわかる。わずか1年半ほど前のことだが、現在の中国社会のシェア自転車を見る目は、まるで様変わりである。
もちろん今でも利用者はいる。私も使う。便利な移動の道具であることに間違いはない。しかし「移動の概念そのものを変える」「都市交通の構造を一変させる」「都市環境問題、慢性的な渋滞の解決策になる」といった、当時のキラキラした掛け声は聞かれない。「最先端のシェアバイク」が「町のレンタル自転車」になった感じである。中国のメディアは当時、このシェア自転車を中国四大発明(羅針盤、火薬、紙、印刷技術)に続く「新四大発明」の一つと称賛していたが、最近、ある記事は「都市に発生したバッタの大群」と呼んだ。要は害虫だというのである。
どうしてそんなことになってしまったのか。その根底には、ひたすら「投資(お金を増やすこと)」を追い求め、現場の着実な「仕事」を軽視する中国の経営風土が存在する。仕組み自体は非常に優れたもので、社会資源の有効活用にもなり、利用者にも圧倒的に便利な仕組みが、目先の利益追求にとらわれる投資判断のために真価を発揮せず、尻つぼみに終わりつつあるかに見える。あまりにもったいない。そんな思いが強い。
北京大学のキャンパスで誕生
中国版シェア自転車の原型が誕生したのは14年、北京大学構内のことである。中国の大学はキャンパスが広大で移動に時間がかかる。自分の自転車で移動する学生も多かったが、時に自転車が荷物になる場合もある。だったら皆で共有すればいいじゃないか──ということで、学生の中古自転車を集め、学内に配置して共同で使う仕組みができた。これが中国のシェア自転車の草分け、ofo(「小黄車」)の始まりである。
創業者は北京大学の学生だった戴威。彼は当時、貧困地域の教育問題に強い関心を持ち、自ら1年間、青海省の農村に子供たちを教えに行った経験を持つ。社会問題の解決を目指して自ら行動する姿勢がシェア自転車の発想につながった。いくつかの大学で同様の仕組みを構築した後、16年11月、校外に打って出て都市部への展開をスタートする。
一方、ofoと同様の発想を最初から広く街なかで展開したのが、15年1月に創業したモバイクである。創業者は雑誌記者をしていた胡瑋煒。Uber上海の総経理だった王暁峰が後に共同創業者CEOとして参加、16年4月、上海でサービスを開始した。この2社が牽引役となり、その他、全国で数百社が参入、激烈な競争を展開してきた。
「事実上、どこでも乗れて、気軽に乗り捨てられる」自転車の便利さに、シェア自転車は熱狂的なブームを巻き起こした。あっと言う間に街は色とりどりの自転車であふれ返った。18年5月現在、北京では190万台、上海でも150万台が投入され、全国では3000万台を超える。15年末の段階で250万人程度だった登録者は、翌16年末には2000万人に、17年末には2億人へと爆発的に増えた。