2018/08/08
コミケ告知4回目
コミケ告知4回目が更新されています!

「おや?がすとちゃんの様子が…!?」

な最終回をどうぞお楽しみください。
イベントクエストの「がすとちゃんサマー大作戦♪」ですよ。

2018/08/07
地下室より【5】
土屋です。
残すところあと、ラストストーリーとコミケイベント4のみとなりました。ここまで一緒に着いてきてくれた皆様、本当にありがとうございます。
これから少しの間、不定期ではありますが、地下室から適当な呟きを徒然なるままに呟いていきたいと思います。特にミミヨリの情報などは有りませんので、無理に読む必要はありませんよ。


【5】
そして選択です。
(実質【4】の続きですので、ここから気づいた方は【1】からどうぞ)
現代に於いては、個性の社会であったり、自発社会などと言われたりします。個を尊重し、その「個」の自発的な探究心や成長意欲を大事にする、支援するという傾向ですね。では実際の社会に於いて、それが浸透しているのかと言えば、まだ言葉だけが先に行っているように思います。とはいえ、インターネットが普及してから始まった情報革命は確実に人々の情報視野を変え、それによって社会が大きく変わりかけているのも事実です。

インターネットという情報網は、明らかに生活を変えました。インターネットは繋がりとしてはP2Pを前提としているため、全ての人がブロードキャスターとなり、全ての人はその情報を得る機会が与えられます。無限のチャンネルを持った(実質)検閲無しのテレビなわけです。今まで国家やそれに準ずる支配者は、情報を制御して人々を支配してきました。それはテレビに至るまでは脈々受け継がれてきました。人々も、基本的には情報は全て一点(サーバー)から大衆(クライアント)という流れだったため、それが常識だと思っていたわけです。ですがインターネットはそんな社会構造を変えてしまいました。すなわち大衆は、水がより低いところに流れていくという物理法則のように、ごく自然な流れとして「多様化」「個性化」してゆき、国家や支配層側も一極集中から多様化に舵を切らねばならない状況になったわけです。
ただ、蛇足ではありますが、インターネットは不思議な社会基盤です。なぜなら共用開始時から現在に至るまで、国際的なシステムであるにもかかわらず、警察・監督機関が置かれていないからです。ロジスティックや株式市場、銀行ネットなど、国際的なモノには必ずある筈のものがない。この状態で公開をしたのはアメリカですが、これ自体に少しばかりの違和感を感じることもあります。通常、国家が何か新しいことをする時には、必ず飴と鞭を両方用意し、自らの領分(領土や所有権、言論など)を仕切ったり護ったりするものです。民間企業が発起であれば今の流れは自然ですが、インターネットの起源は民間ではなく軍事ですからね。もちろん大義はあるでしょうが、恐らくは超規模な社会実験でもあったと思います。

閑話休題、そんな現代に於いて、個を確立するということはとても大事になってきます。日本は昔から集団意識が強く、今でもそれは変わっていません。集団意識が強いと、デメリットとしては「出る杭は打たれる」「個性の軽視・蔑視」「責任所在の曖昧化」などがあり、イノベーションには なかなか エネルギーが必要になるところですね。反面、「保障・サポートが厚い」「あまり考えなくても言われたとおりにしていれば安泰」といったような、メリット?もあります。ですが、今は段々それが許されない時代になっているわけです。自身をわかっていない人が社会に出てしまうと、何も見えなくなります。昔ならば太いロープが一本あったんです。大企業に終身雇用、マイホームを持つ、など、そういった目標です。
今はそんな価値観もなく「貴方がしたいことをすればよい」と言われるわけです。そしてその代わりに、貴方が自由に選んだ就活先では「貴方がしたいことの本気度合をプレゼンしてくれ」と言われるのです。近年は学業優等生よりも、自分を持っている人を大切にする傾向にありますから。それはすなわち、「自分とは何か」を考えなければならなくなったことを意味します。考えなくても、適当にサイコロを振って選択して進むこともできますが、いずれ「自己とは何か」にぶち当たり、前に進めなくなります。
ですから、早いうちに「自分とは何か」という結論を自分の中に作っておく必要があります。そして常にそれを自問自答し、必要ならば軌道修正をして行くといった癖をつけねばなりません。自分が見えなければ、自分が社会という大海原のどこにいるのか、相対的位置がわからないからです。
残念ながら、まだ学校ではそういったことは教えてくれないです。もしかしたら教えてる学校もあるのかもしれませんが、そうだとしても、最終的には自分で自己の内面と話し合うしかないんです。他人に頼れないのが、この「個の確立」なんです。

個が確立して、初めてちゃんとした「選択」ができるようになります。ですがこれは、実はニワトリタマゴの関係で、「選択」をした結果、 個を確立する為の 「気づき」を得ることができたりします。自分がした選択を、その結果と照らし合わせて、「自分は○○がしたかったんだ」「自分はこれが苦手だったんだ」「自分はこれを大事にしていたんだ」といった気づきを得ます。これは、受け身で知識を習得するだけではできないことです。ですから、最初のウチは闇雲にでも「自分で決めて選択」して「気づき」を得ることが大事だと思います。選択し続ければ、結果から何かの気づきを得られます。そしてその気づきは、次の選択の基準になるんです。それを繰り返していくと「自分はこうしたい人なんだ」と自分でわかってきます。それによって得られる力は、外的圧力による突き動かしを遥かに超えるエネルギーを持ち、そして貴方が貴方らしく、活き活きとするための力になるのです。

トライナリーでは、ごく限定されたテーマではありますが、そういった「選択」と「気づき」のシミュレーションをすることで、プレイして下さる皆様がそんな素敵な体験ができたらいいなと思い、執筆しておりました。それは人生に影響するような素晴らしい事では無かったとは思いますが、その「自分で選択する」事による「気づき」、その体験が今後皆様が生きていく中で何処かお役に立てれば、私自身、今作を全力疾走した甲斐があったと思っております。仮にそれが、トライナリーや私に対する反発やネガティブなものであっても、本当に嬉しく思います。そこまで真剣に取り組んでくれて、反発しながらも最後まで一緒にいてくれたことは、この上ない愛だと思うからです。本当にありがとう。

Ch05のEP31では、あえて結末を絞らずに、皆さんの選択をそのまま素直に世界に投影する形にさせていただきました。これは、皆さんが一生懸命考えてくださった、あちらの世界に対する選択を、私なりの最大の敬意と感謝の気持ちでお返ししたかったためです。そのためシナリオは6倍になりましたが、それを受け取ってくださった皆様がプラスになる何かを見出していただけたのならば、そんな物量は屁でもありません。

特に気づきが無かった方も、楽しい時間を過ごして頂けたのなら、それもとても嬉しいことです。全てのプレイして下さった方へ、本当にありがとうございました。

2018/08/06
地下室より【4】
土屋です。
残すところあと、ラストストーリーとコミケイベント4のみとなりました。ここまで一緒に着いてきてくれた皆様、本当にありがとうございます。
これから少しの間、不定期ではありますが、地下室から適当な呟きを徒然なるままに呟いていきたいと思います。特にミミヨリの情報などは有りませんので、無理に読む必要はありませんよ。


【4】
前回の3で、だいぶ本気で(頭おかしいという理由で)地下室送りされそうなことを書きました。そろそろ、何故この一連の書き込みが、まさに地下室的に、ひっそりと、無告知で更新されていっているのか、察される方も出てくるかもしれませんね。今回は、その前回のテーマの、さらに核心部分についてのお話です。

トライナリーは現実か、ゲームか。

この問題は、常にこのアプリには付きまとっていたように思います。皆さんの間でも、その点について議論が紛糾したりすることもあったことでしょう。ですが、それが議論されること自体が拡張少女系トライナリーであると、私は考えています。なぜなら、それこそが、このアプリの主題だからです。
エンディングまで到達した方は、うっすらとでも分かるかもしれません。その「主題」をやんわりと表現したのが、本編最後の挿入歌「ソラノキヲク」です。ソラノキヲクの物語やあらすじについては、ネタバレになってしまうので語りません。お手元に届いてから、じっくりご覧になってください。
ただ、それよりも先に1つだけ、私から結論を申し上げてしまうならば、トライナリーは現実でありゲームである、それが重ね合わせになっているものであると考えています。もっと乱暴に言えば、「貴方にとって現実なら、それはまごう事なき現実であり、貴方にとってゲームであるなら、それはまごう事なきゲームである」ということです。どちらも正解であって、尊重すべきことです。なぜなら、貴方にとっての結論こそが貴方にとっての正解であり、しかし他の人にとっての正解はまた別にあるからです。その結論を、他者が覆していいものではないのです。
そして大切な事として、これはトライナリーというアプリ固有のものではない、ということです。現実か、ゲームか。これは世の中の全てに於いて言えることです。例えば、現実の恋愛ですら「恋愛はゲームだ」と言う人もいます。心の底からゲーム感覚で、異性を口説き落とし、星の数を自慢するような方さえいます。そんな現代において、トライナリーというアプリがゲームか現実か、などということを自ら以外の存在に定義するのは横柄なことではないか、と私は思ってしまいます。

哲学というにはおこがましいですが、これは個人個人の人生哲学の1つの結論でもあると思います。具体的な一例を挙げるなら、こういうことです。
このアプリで得た彼女との思い出は、現実に存在する彼女との思い出と如何ほどの誤差があるのか。「思い出の価値」という点に於いて、より近似的にシミュレーションするのであれば、「今は隣にいない」―例えば、別れてしまった彼女であったり、もしくは、まだ出逢っていない、メル友で互いに好意を寄せ合っている相手であったり、そういった彼女との思い出ややりとりは、アーヤたちとのそれと、何が違うのか。更に飛躍すれば、数百年後に恒星間移動が行われるようになったとして、160光年先にいる人と通信で愛を誓い合った、その人との出逢いとアーヤ達との出逢いはどう違うのか? この問いに対し、私自身の考えを申し上げるのならば、「現実と非現実の境界線は、物事をテーマ化して突き詰めていくと、True/Falseの関係ではなく線形に繋がっているもの」ではないか、と思って止まないのです。一昔前なら一蹴されていたかもしれませんが、今ではそうでもないと思います。現実と非現実におけるシンギュラリティは、そう遠くないかもしれないと思っています。

これに共感を覚えるか、反発を覚えるか1つとっても、人生観というものを垣間見ることができます。もちろん、どちらが正解、どちらが優秀というものではありません。「思い出」というものは、過去に貴方が体験した事の記憶や感情のことです。これだけで見れば、アーヤたちとの思い出も、前カノやメル友との思い出も、何ら「体験」や「思い出」の価値そのものに違いは無いはずなのです。

ですが別のテーマから見れば、これはどう足掻いても「作られたもの」です。3Dモデルは表情も仕草も限りがあり、喋る内容にも限界があります。また、選択肢選択では未来は限りなく固定されており、ある意味に於いて貴方の完全な希望は通りません。それをもって、現実には存在する無限の柔軟性が失われているという点において、ゲーム以上の感覚を持ち得ないという事を論じたとしても、それもまた然りです。
ですから、答えなんてありません。貴方が貴方自身でその答えを見つけることが、このアプリの一番の命題なのですから。そしてそこに正解は無いのです。強いて言うなら、正解とは、貴方自身が、その貴方の出した結論に納得しているかどうか、ただそれだけのことなのです。

   
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