帰宅ラッシュの時間が迫る5月25日の夕方、東京駅の新幹線のホームに、帽子を目深に被った秋篠宮妃紀子さまの姿があった。その後ろに、紺のキャップにグレーのポロシャツ、黒いリュックを背負った悠仁さまが続かれていた。
「週末を利用して長野に遊びに行かれたそうです。紀子さまは、悠仁さまにできるだけさまざまな経験を積ませたいとお考え。都心だとどうしても一般の目があり、警備などを含めて制限が多いので、関東近県に足を運ばれることが多いそうです。今年2月にも、紀子さまと悠仁さまは長野までスキー旅行に出かけられました」(宮内庁関係者)
折しもその日、宮内庁は《眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について》という異例の声明を発表した。
《皇后さまは(中略)眞子さまや秋篠宮両殿下の周辺で、静かな熟考のために保たれるべき環境に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることを驚き、悲しんでおられ、陛下もまたそのことに深くお心を痛めておられます》
眞子さまと小室圭さんとの結婚延期が発表されてから、間もなく4か月が経つ。
「声明ではかつての失声症にまで触れるなど、美智子さまのショックが相当強いことを示唆しています。引き金は眞子さまの結婚トラブルだけに、紀子さまとしても沈痛の思いがあるでしょう」(皇室ジャーナリスト)
眞子さまの将来に結論が出るまでには、しばらく時間がかかりそうな中、紀子さまはまた別の不安の種を抱えられているという。それは悠仁さまの進学問題だ。
現在、悠仁さまはお茶の水女子大学附属小の6年生。附属高校は女子校のため、男子がエスカレーター式に内部進学できるのは中学までだ。半数は中学進学時に別の学校を選ぶという。当然、悠仁さまもお茶の水を出られる日がくることになるわけだ。
そんな状況にあって、昨年4月、お茶の水女子大学附属小と、筑波大学附属小の間で、『提携校進学制度』が設けられることが発表された。これは、中学進学のタイミングで両校の生徒を“交換”するというものだ。
120年以上の歴史を誇る筑波中は「偏差値75」。約8割の生徒が附属高校に進学し、毎年、東大・京大の合格者を多数輩出している。
「悠仁さまのために作られた制度だともっぱらの噂です。学力テストはなくて書類審査だけ。悠仁さまの1つ上の学年から試験的に導入して、数年後には廃止されるとも聞いています」(お茶の水小関係者)
紀子さまにとって、悠仁さまの東大進学は悲願だといわれてきた。しかし、無試験での名門校進学に暗雲が垂れ込めているという。
「実は、この4月に中学校にあがった学年では、提携校進学制度を使って、筑波小からお茶の水中に進学した生徒が1人もいなかったそうなんです」(前出・お茶の水小関係者)
別のお茶の水小関係者が続ける。
「双方から希望者を募って交換するわけですが、お茶の水の生徒にとってはメリットが大きいですが、その逆となると…。今年はお茶の水小の希望者が筑波中に進学したケースがあったようですが、もし来年も、筑波小に応募者がいないとなれば、そもそも双方の交流目的の“生徒の交換”が成立しない。そんないびつな制度が必要なのかという疑問の声が上がれば、悠仁さまの進学にも影響は必至です」
そうなれば、悠仁さまはそのまま進学するか、他の学校を受験されることになる。
「紀子さま自身、ここまで制度が知られている状況で筑波中に進学すれば、“特別扱いがすぎる”と批判に晒されるのではないかと不安に思っているそうで、そのままお茶の水中に進学させることも検討しているそうです。実は今から2年ほど前に、お茶の水中の副校長に、皇太子さまの1学年下の学習院OBが就任したんです。学生時代に、『皇族のいる学校』の雰囲気を肌で知っている人物ですから、お茶の水中としても、悠仁さまを受け入れる準備を進めているということなんでしょう」(別の宮内庁関係者)
最近、お茶の水小、筑波小の6年生には「提携校進学」の希望者に資料が配付されたという。その中に、悠仁さまは含まれているのだろうか。
※女性セブン2018年6月14日号
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“アパ不倫”をきっかけにバラエティー番組に引っ張りだこの袴田吉彦(44)。最近、本業の役者としてもいい味を出している。俳優・袴田吉彦の新たな魅力について、コラムニストのペリー荻野さんが解説する。
* * *
いやいや、まさかこういう形の「ブレイク」があるとは思ってもいなかった袴田吉彦。2017年、浮気相手に密会現場のホテルのポイントを貯めていたなどと週刊誌に詳細を語られるという大変な事態。しかし、そこからがすごかった。
大みそか恒例の『笑ってはいけない』に突如出演。原田龍二とともに例の「変態仮面」に扮し、自ら「浮気相手に売られてしまった最強のだらしなさ」「不倫仮面!!」などと叫んだのだった。その後も『ダウンタウンDX』に出て「(ポイントは)貯めといたほうがいいかなと思って」と本音を言えば、松本人志に「番組的にポイントを稼いだ」と返される。『サンデー・ジャポン』でも爆笑問題太田に「おいしいところを全部持ってった」と言われる。不倫騒動で消えるどころか、存在感がめきめきと増していったのだ。
先日はドラマ『Missデビル 人事の悪魔・椿眞子』に出演。超ロングまつげの奥から鋭い眼光で威嚇する眞子(菜々緒)が人事コンサルタントを務める保険会社の新部署リーダー甘露路役だった。仕事はできるがどこか感じが悪い甘露路は、こっそり「残業アジト」を設置し、「命をかけても!」と合言葉を言わせて部下に過激に仕事をさせていたのだ。その後、アジトに気づいた眞子と人事部長(木村佳乃)を縛り上げ、部下とともに鉄パイプで襲い掛かったものの、縄をほどいた眞子に、長い脚で思いっきり回し蹴りを食らい、「会社を辞めていただきます」と成敗される。袴田甘露路、撃沈。
保険会社内の話で毎回、菜々緒の回し蹴りが出るというのもすごいが、袴田はその悪役にぴったりおさまった感があった。そして、もうひとつ袴田のおさまった役が、BSプレミアム『鳴門秘帖』の関谷孫兵衛役。恋しい人を助けるため、「鳴門秘帖」という秘密文書を探す主人公法月弦之丞(山本耕史)の冒険を描くこの物語で、袴田孫兵衛は弦之丞に惚れて旅の供となった女スリの見返りお綱(野々すみ花)に横恋慕して何度も彼女を襲う。
お綱に跳ね返されても、鉄砲で撃たれても迫ってくる孫兵衛はほとんどストーカー。時には力で圧倒し、「もう逃げも隠れもしやしません」と連れ込み部屋で観念したかにみえたお綱とふたりっきりになったのに、彼女に眠り薬を飲まされてさっさと逃げられる。剣の達人のはずがとほほところは『ダウンタウンDX』で突っ込まれる袴田と被って面白いのだが、もっと面白いのは、この孫兵衛は「常にイカのような頭巾をかぶって絶対にはずさない男」ということだ。なにしろ、お綱といよいよベッドイン? というときにも頭巾は装着。てことは裸でも頭巾アリ? さすがにお綱も「なんで?」と思ったらしく、眠り薬で熟睡している 孫兵衛の頭巾にそっと手をかけるが、結局、めくれずじまい。いったい頭巾の下には何が…。
「変態仮面」から「変態頭巾」になった袴田。ほかの俳優には出せない味ともいえる。拍手していいのかよくわからないが、新境地開拓である。
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木村拓哉(45才)と工藤静香(48才)の次女であるKoki,(コウキ、15才)が5月28日発売の雑誌『エル・ジャポン』7月号の表紙を飾り、モデルデビューを果たした。
「今回モデルデビューと聞いて、正直どっちかなと思いました。長女もとにかく美人です。どちらかというと長女が木村さん、次女が静香さん似でしょうか。ファッションも長女が木村さん系で、Koki,ちゃんは静香さん風のロック調を着こなしているイメージがあります。これだけの美人すぎる姉妹なので、芸能界からは何度も声がかかっていたようですが、今までテレビや雑誌に出なかったのも、本人たちが自分で自分のことを決められる年齢になるまでは、と静香さんは一切受けなかったようです」(木村家の知人)
2人の姉妹は両親が芸能界という影響が極力及ばず、「世界で通用する人に育ってほしい」ということから、インターナショナルスクールに通ってきた。
「幼少期からインターナショナルスクールに通っていたのですが、そこは、イギリスのナショナル・カリキュラムに則った教育が行われています。生徒は英語を学ぶのではなく、英語でイギリス式の礼儀作法やマナー、芸術、教養を学びます。英語はもちろん、小学生の頃から簡単な会話をフランス語でも交わしていましたね」(芸能関係者)
フルート、ピアノ、バイオリンなど音楽を習う一方で、絵画に触れるなど芸術にもなじんできた。
「数年前にはフルートのあるコンクールで長女が最優秀賞、次女が優秀賞を受賞しました。旅行に行くときも楽器は必ず持っていきますし、やるとなったらお遊びではなくキチンとやる。まだ幼いのに意志がはっきりしていてすごいと思いましたね。長女はフルート奏者を目指して今、音楽系の学校へ通っていますが、それも本人が探してきて“どうしても行きたい”と静香さんを説得したそうですから」(前出・知人)
敷かれたレールを歩むのではなく着実にわが道を歩んでいく娘たち。木村家の子育てルールでまず大切なのは「礼儀」だったという。
◆木村家のルールが伝わった
「正直、なかなか子育てしづらい環境の中、静香さんがいちばん大切にしていたのは礼儀。とにかく人に対して感謝をすること。特別扱いされることに慣れてはいけないと、ものすごく気を使っていました。長女が夏休みなどにアパレルショップにインターンとして働いていたのもその一環でしょう。
いつも、口癖のように“人は人、自分は自分”“人まねではなく自分のやりたいことを見つけなさい”と2人に伝えていましたね。お年頃ですから、自分たちの両親の話をネットなどニュースで見ることもあるでしょうけど、ちゃんと自分の目で耳で見聞きしたものを信じる強さがあります。そういう意味では最近の日本の女子高校生からすると珍しいタイプかもしれません」(前出・芸能関係者)
年頃の姉妹だが、木村家は家族で出かけることが多い。今年の春先、静香が友人とランチをするときも長女は同行。犬の散歩も2人の娘はよく連れ添い、『エル・ジャポン』発売の数日前にも静香とKoki,はカフェでティータイムを楽しんでいた。父と娘で出かけることも多い。
「姉妹はもちろんけんかすることもありますが、学年が1つ違いで親友という感じです。中学生のときにKoki,ちゃんが背を追い越して以来、お姉ちゃんに間違われることもあるとか。お互いなりたいものは違いますが、いい刺激を受けているようです。Koki,ちゃんはモデル活動のほかに作曲家としても活躍していて、静香さんの30周年アルバムの『鋼の森』と『かすみ草』などのほかに、中島美嘉さん(35才)にも楽曲を提供していますが、音楽の話も姉妹でよくするようですよ」(音楽業界関係者)
モデル・Koki,は『エル・ジャポン』でこう語った。
《人は人、自分は自分。誰かと比べることなく自分を信じる強さと、長所と短所をしっかりと見つめて前に進むことの大切さ。それを教えてくれた両親が私の誇りです》
木村家のルールは、しっかり子供たちに伝わっている。
◆木村拓哉長女と次女Koki、ハワイ旅行での「美人姉妹」写真
2001年に長女(17才)、2003年にKoki,が生まれてから、木村家は日本一注目を集める家族だった。美人姉妹と噂される一方で、父と母は徹底して2人のプライベートを守ってきた。
そんななかでも、本誌・女性セブンは姉妹の動向に注目してきた。2012年8月、自転車に乗って出かける長女とKoki,は、まだあどけなさの残る表情だった。
2015年2月、一家でハワイ旅行に出かけた際にキャッチした長女は、ぱっちりした大きい目が印象的な美女に。Koki,はすでに長女よりも背が高く、モデルのようなスタイルが目立っていた。中学生のときに姉の身長を追い越してから、姉に間違われることも多いとか。
ビッグな両親を持つ姉妹として、ますます注目を集めそうだ。
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「まったく年齢を感じさせないパフォーマンスを、お送りしていきたい」。5月27日、全国ツアー初日を迎えた郷ひろみ(62才)は、覚悟を決めたようにそう宣言した。それはまるで、先に逝った盟友への“ヤングマン宣言”──。
その前日の5月26日、東京・青山葬儀所で、西城秀樹さん(享年63)の告別式がしめやかに執り行われた。
「ツアーのリハーサルが大詰めを迎えていた郷さんでしたが、予定を大幅に変更して前日の通夜、その日の告別式どちらにも足を運びました。弔辞を読んだのも、郷さんのたっての希望で実現したそうです」(芸能関係者)
西城さんと郷に、野口五郎(62才)を加えた3人は、舟木一夫(73才)、橋幸夫(75才)、西郷輝彦(71才)の「御三家」に次ぐ、「新御三家」として1970年代の音楽シーンを席巻した。
1万人以上のファンが詰めかけた告別式会場には、2年前に週刊誌で3人が揃い踏みしたときの写真が巨大パネルとなって飾られた。郷と野口は、西城さんとの永遠の別れを惜しんだ。
「西城さんの死後、野口さんは何度も西城さんの自宅に足を運び、亡骸に語りかけたそうです。真っ赤に泣きはらした目で、何度も言葉に詰まりながら弔辞を読んでいました。一方の郷さんは、野口さんとは違って手元に原稿はなく、西城さんの遺影にささやきかけるようにしていました。そこに、それぞれの送り方があるように思えました」(前出・芸能関係者)
今からおよそ45年前、全国の若い女性たちを「誰がいちばんか」で三分させるほどの爆発的な人気を誇った3人の出会いは、実に微笑ましいものだった。当時を知る芸能関係者が明かす。
◆「あの子、ひろみって名前らしいぜ!」
「秀樹と五郎、秀樹とひろみはそれぞれ面識がありましたが、五郎とひろみは直接顔を合わせたことがなかった。あるとき、五郎が秀樹の楽屋に駆け込んでいき“すごくかわいい女の子が撮影している”と興奮気味に言ったそうです。2人で見に行ったら、その“かわいい子”とは舞妓役を演じるため女装していたひろみ。“あの子、ひろみって名前らしいぜ!”と話す五郎に、“あんな太い眉の女の子いるわけがないよ”と、秀樹は冷静にツッコんだ。そのとき初めて3人が顔を合わせたそうです」
同学年で、デビューもわずか1年違い。でも3人には、新御三家という言葉ではくくれない豊かな個性があった。
「かわいらしいひろみ、セクシーな秀樹、品のよさが魅力の五郎。三者三様の魅力は今でいう『キャラ被り』をしていなかった。一方で、レコード大賞などの賞レースでは誰かが受賞すればあとの2人は受賞できず、ランキング形式の歌番組で誰かが1位なら他は2位以下。無意識に強烈なライバル意識を持ってしまうのもしょうがなかったのかもしれません」(前出・芸能関係者)
「よき仲間」という周囲の印象の一方で、当の本人たちは複雑な思いも抱えていた。
「秀樹と五郎は、2002年にそれぞれの第1子がわずか2日違いで生まれたこともあって、家族ぐるみのつきあいをしていました。それに対してひろみはストイックにわが道を行くタイプで、秀樹が“あまり周りと打ち解けない”とひろみのことを言っているのを聞いたこともあります。1980年代後半にひろみがニューヨークに拠点を移したこともあって、3人が常に等距離にあったというわけでもありません。それでも、アイドルという年齢を過ぎても顔を合わせれば通じる部分がある。深いところでつながった“戦友”のような関係でした」(別の芸能関係者)
3人だけが知る、3人だけの強い絆。秀樹を送った2人の姿と言葉には、それが滲み出ていた。
※女性セブン2018年6月14日号
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驚異の31期連続増収増益を記録し、飛ぶ鳥を落とす勢いの家具チェーン・ニトリ。5月18日付の日経新聞朝刊に掲載された『日経不動産マーケット情報』なる業界誌の広告には、その好調ぶりを示すような情報が躍っていた。
〈ニトリ 敷地6400平方メートルの旧東芝迎賓館を取得〉
記事では、ニトリが昨年9月29日、東芝が政財界要人を接待する目的で所有していた迎賓館「東芝会館」(東京都品川区西大井)を買い取っていたという内容を伝えている。
緑あふれる6422平方メートルの広大な敷地にたたずむ2階建ての和風邸宅は、1941年に日本コロムビアの三保幹太郎社長(当時)の私邸として建築され、1953年に東芝に譲渡されたもの。
ニトリの買収価格は不明だが、「有名企業の社長が多く住む超高級住宅地で、土地だけで35億円は下らない」(地元不動産業者)という。
「お、ねだん以上。」のキャッチコピーで低価格路線を邁進してきたニトリにしては“贅沢な買い物”のように思えるが、すでにこの豪邸は「志高荘」と名を改め、似鳥昭雄・会長が政財界の大物たちの接待の場として利用しているという。昨年末、志高荘での会食に招かれた上場企業幹部が明かす。
「私が招かれた日には、小泉純一郎・元首相をはじめ、富士フイルムの古森重隆・会長、三井住友フィナンシャルグループの國部毅・CEO、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄・社長など政財界の大物が出席していた。フレンチと和食が融合した創作料理がふるまわれ、その後はカラオケで盛り上がった。似鳥会長の人脈の幅広さと、ニトリの勢いを感じる豪華なパーティでしたね」
志高荘の購入額や利用頻度について問い合わせたところ、「(志高荘の)購入は事実ですが、それ以外については公表しておりません」(ニトリホールディングス広報部)と答えるのみ。
かつて経団連の中枢にいた東芝から、“デフレの寵児”ニトリへ渡った大豪邸。日本経済の「主役交代」を感じさせるが、前出の上場企業幹部によれば、「邸宅内の調度品はどれもゴージャスで、ニトリの家具らしきものは見当たらなかった」とのことだった。
※週刊ポスト2018年6月8日号
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政府は「新元号」の発表時期を、代替わり直前の2019年4月と定めた。平成との“二重権威”が生じるのを防ぐため、ぎりぎりまで遅らせることにしたという。改元は、歴史の転換点という位置づけなのである。
だが実は歴史を振り返ると、元号は今ほど大事にされておらず、“えっ、そんな理由で?”と思ってしまうような改元が繰り返された時代があった。著書『「日本の伝統」の正体』が話題を呼ぶ作家・藤井青銅氏が、元号にまつわる“ざんねんな歴史”を詳らかにする。
* * *
現代の日本人は、天皇の権威と元号を結びつけて考えているが、天皇の在位中は元号を変えない現在の「一世一元」の制度になったのは、明治22年(1889年)に旧皇室典範で定められて以降である。
それ以前も新しい天皇になったら改元する「代始改元」の原則はあったものの、日本の元号第一号である「大化」以降の天皇が90代であるのに対して、元号はおよそ2.7倍の247あり、代始改元以外の改元が頻繁に行なわれたことが分かる。
その改元の理由は何とも“いい加減”なのだ。奈良時代の715年には、甲羅に北斗七星の模様がある珍しい亀が、左京職という役人から天皇に献上されたという理由で「霊亀」と改元している。正倉院の宝物に、「青斑石鼈合子」という亀の形の容器が納められているが、これはこの亀に似せて作らせたものと伝わっている。
他にも、白い亀が献上されてめでたいから「神亀」、甲羅に「天王貴平知百年」という文字がある亀が献上されたから「天平」、肥後(熊本)からめでたい白い亀が献上されたから「宝亀」と元号を改めている。
奈良時代の55年間に、実に4回も「亀」を理由に改元したのだ。
「雲」が理由の改元も3回ある。西の空に縁起のいい雲を見たから「慶雲」、めでたい雲が現われたから「神護景雲」、伊勢に美しい雲が現われたから「天応」と変わった。
亀や雲をありがたがるのは、中国からの影響だ。これらは「瑞祥」とされ、珍しい順にランキング化されていた。
珍しいものが発見されると、天皇に献上。報告され、改元が行なわれたのだ。
●ふじい・せいどう/1955年生まれ。23歳で第1回「星新一ショートショート・コンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家として現在も活動中。
※週刊ポスト2018年6月8日
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三島由紀夫の長編小説『美徳のよろめき』がベストセラーになったのは今から約60年前のこと。「よろめき」は流行語にもなり、“妻であり、母であっても恋愛をすること”がセンセーショナルを巻き起こした。時代を超えた今、不倫は大きなニュースになり、「結婚しているのに、子供がいるのに」という声高な批判も聞こえるなか、恋愛漫画の名手・柴門ふみが世間に投げかけたのが、女性セブンで連載されている『恋する母たち』での「母が恋をしてはいけませんか?」という問いだった──。
3人のアラフォー女性が不倫について逡巡する様を描く『恋する母たち』の単行本1・2巻、2巻同時発売を記念して、作者である柴門ふみと、“恋愛小説の第一人者”である石田衣良とのスペシャル対談をお届けする。
石田衣良(以下、石田):つい先日の話ですが、朝ドラ(NHK連続テレビ小説『半分、青い。』)で“いつだって不倫は主婦の憧れ”といったナレーションが流れて炎上してましたね。あぁ、これが今の世の中だなと、改めて実感したな。40代以上の大人の女性の欲望は、いってみれば、世間で幽霊と同じような扱い。ほぼ“ない”ものとして、みんなごまかして生きている。
柴門ふみ(以下、柴門):結局、今までの時代では、男性の欲望は肯定するけれども、「女性というのは欲望がない性だ」みたいな決めつけをしてきてしまった。「男性は欲望を持っている性だから、セクハラをしてもしょうがないんだよ」みたいなことを男性自身が平然と語る、言い訳の文化がありますよね。
石田:でも、女性にも欲望はある。
柴門:そう。でも世間を騒がせている芸能界の不倫問題にしたって、男性はそんなに大きな痛手を負わないのに、高橋由美子さん(44才)でも、斉藤由貴さん(51才)でも、アラフォー以上の女性がいざ不倫をすると世間から袋叩きにされてしまいます。
石田:ある種の古い家庭観や道徳観みたいなものが、日本の社会に根強く残っているんですよね。
柴門:そうそう。女性の欲望の方が生理的な部分で好き嫌いがハッキリしていて、好きな男だったら触りたくて仕方ないけど、嫌いな男だったら指一本触れられてもイヤだという(笑い)。非常に敏感だし、ある意味“純”なんですよ。かたや男性は、女だったら誰でも平気で触れるんだから。
石田:そうなんですよね(苦笑)。セクハラにも根本的にそういう性差があると難しいかな、という気がします。女性は好き嫌いが敏感だといっても、飲み会なんかで、のべつまくなしにすごくボディータッチをしてくる女性もいるわけで。
柴門:あぁいます、います(苦笑)。
石田:別に好意がなくても、彼女たちは男性にボディータッチする。ああいう女性の行為もセクハラなんだけど、男の人はみんな大喜びしてしまうから、難しいよね(笑い)。
◆女性のピークは45才
石田:今、女性の欲望にスポットが当たり始めているというのは、僕自身、肌で感じます。2001年に書いた『娼年』が2016年に舞台化され、この春に映画化されて公開中ですが、あの作品は娼夫のリョウが女性と体を重ねながら、心の奥底に眠る女性たちの欲望や傷をやさしく癒していくという物語。女性側の欲望がクローズアップされてきているということの、ある意味で証なんじゃないかな。世の40代は“私なんかはおばさんだから”と思い込んでいる。でも柴門さんの世代からすると、40代の女性はまだ全然ピチピチですよね。
柴門:全然若者ですよ、本当に。石田さんもエッセイで、女性は45才くらいがピークだと。
石田:産婦人科で日本初の女性医師のかたと対談をした時、女性のピークは40代半ばから50代にかけてだとうかがったんです。日本は“お刺身文化”だから、素材感が生きるピチピチしたのが好きだけど、ステーキも煮込みも、熟成は素晴らしいよ。
柴門:40~50代女性の魅力は体だけではありません。ある程度の人生経験を重ねたことで許容範囲があることなど、精神面でも挙げられると思います。特に、出産などの経験をした女性は、我慢をして許す、相手を受け入れる、ということができるようになって許容範囲がとても広がる。人生経験が浅い若い子は、生真面目に相手を突き詰めてしまいますから。そうした人間的な成長は大人の女性ならではじゃないかと。
石田:10代、20代は女の子も男の子も、同世代とつきあうと負けたくなくて競うけれども、40代くらいになると、そういうのもなくなってラクで楽しければいいやって。恋愛の局面において包容力があるので、競わずにすむし、駄目なところを詰めずに受け入れてくれる。そういう部分はすごくいいと思いますね。
柴門:私の周りは肉食女子が多いのか、30代から50代前半くらいまでの友人はみんな欲望があって、話をすると恋愛を求めている。
石田:その欲望って、50代半ばくらいで落ち着いちゃうの?
柴門:そこはまだ取材中。でも、欲望や欲求がある友人たちは、エロス的な映画や小説が大好きで情報交換も活発で。あれはよかった、もっと読みたいとか、そこからいろいろと想像力を膨らませて楽しんでいる。中には「肉体的に満たされたい」とはっきり言う女性もいて、大人の女性の欲望はニーズがあるなとずっと感じていたんです。
石田:つくづく思うんだけど、女性の欲望はどうしてこんなに隠されちゃったんだろうね…。男性が求めた時だけ応じていればいいんだ、くらいの扱いでしたよね、ずっと。
柴門:私よりちょっと上くらいまでの世代は、それが当たり前だったんですよ。処女が嫁入り道具という、そんな時代だった。で、処女じゃない子は結婚初夜でいかに処女のふりをするか、みたいことが真剣に雑誌で特集されるような時代だったわけです。とはいえ、女性は妻になったら絶対に貞淑でいなければいけない、結婚するまで処女で、一生ダンナだけ、みたいな抑圧されていた世代もじっと我慢していたわけではなくて、フィクションですごい妄想を広げて欲望を満たしていたんですよね。
撮影/平林直己
※女性セブン2018年6月14日号
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女性パートナーと同棲を始めたことを告白した経済評論家の勝間和代さん(49才)。お相手は増原裕子さん(40才)。レズビアンであることを公表し、2013年3月には元タカラジェンヌの東小雪さん(33才)と東京ディズニーシーで同性結婚式を挙げた。2015年に東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める「パートナーシップ証明書」の交付を始めた際、その第1号となった女性である。
増原さんは昨年12月に「離婚」。勝間さんは今年1月に自分の気持を打ち明け、交際がスタートしたという。そんな勝間さんと増原さんのふたりに話を聞いた。
これまでに2度の離婚を経験し、大学生の時に出産した長女をはじめ3人の娘の母でもある勝間さん。歯に衣着せぬ言動から何も恐れるものがないように見えるかもしれないが、増原さんとの恋についてはなかなか世間に公表できなかった。公表後、勝間さんはツイッターに《人生で最大の勇気が必要でした》と綴った。そして勝間さんはこう語る。
「カミングアウトをして活動する増原さんと違って私は“慣れていない”ので、公にしたら何が起こるかわからないと不安でした。離婚後も男性と食事に行ったりしたらSNSに写真を上げるなど、自分の男女交際についてはオープンにしてきたつもりです。それでもやはり、LGBTのカミングアウトには勇気がいりました。私自身のことを考えても、自分の中に無意識的な規範意識があって、同性を好きになる気持ちにフタをしてきたと思います。偏見や差別は、残念ながら今もあるんです」
そんな勝間さんを優しく見つめながら増原さんが言う。
「やっぱり世代もあると思います。少しずつLGBTが認知されるようにはなっていますが、勝間さんは49才ですよね。40才の私でさえ相当苦しんだのに、それ以上に自分の気持ちにフタをしたり、周囲の目を気にしなければいけなかったんだと思います」
勝間さんは家族以外の人には交際についてほとんど口外しなかった。SNSにツーショットやお互いの写真をアップしないことはもちろん、自宅に勝間さんの知人が来る時は増原さんがそっと身を隠した。なぜカミングアウトを決意したのか。
「増原さんと一緒にちょっとした日帰り旅行に出かけても、旅先の人が増原さんのことを“勝間さんのマネジャーですか?”と聞くんです。家に人を呼べない、一緒に出かけられない、人に聞かれた時にもごもごと答えなければならない。そうした積み重ねです。実際に恋愛感情はあるので、それは正直に話した方がいいかなということです。単純な話、私は彼女を正当なパートナーとして見てほしいんです。
今年に入って正式におつきあいを始めてから、時期を見て公表することも考え、マスメディアに出ることも極力避けてきました。私がカミングアウトすることで、一緒に仕事をする人にもどんな影響があるのか想像もつかないので、仕事に影響が出ることは最小限にするつもりでした。公表のための“準備期間”ですね」(勝間さん)
博報堂DYグループの「LGBT総合研究所」の調査(2017年2月)では、カミングアウトしている割合は全体の10数%しかいない。多くの人が口に出せずにいる現実がある。
◆「恋心」なのか「友情」なのか
これまで2度の離婚を経験している勝間さんはこう話す。
「好きになるのは、女性に限ったことではないんです。結婚生活を2回送っているし子供が3人もいますからね。男性との夫婦生活も違和感を持ったことはありません。私は男性だから好き、女性だから好きというわけじゃない。今は増原さんが好きだし、以前は前の夫たちが好きだったから結婚したわけです。そこに男女の区別はないんです」(勝間さん)
自分では「パンセクシャル(全性愛)」というカテゴリーが近いのではないかと言う。ただ、高校生、大学生の頃から「女の子を好きになる感覚があったのに、フタをしてきた」と彼女は打ち明ける。
「男の子を好きになると、性的な意味で“手を繋ぎたいな”と感じると思います。私は、女の子に対してもそういう感情がありました。もちろん、それは親友の女の子にはない感情であって、はっきりと区別できます。でも、男性も好きになるし、女性に対してはダメなことだと思っていたし、行動に移すほどの気持ちではないと思っていたんです」(勝間さん)
男性との交際に違和感が募った増原さんは、大学院時代に留学したフランスで同性愛をオープンにしている人々と出会い、人生が変わった。
一方で学生結婚から21才で出産し、仕事と子育てに走り続けてきた勝間さんには、「女性への恋愛感情」で悩む時間もなかった。しかし今、50才を目前に仕事も子育てもひと段落し、ふと立ち止まった時に彼女と出会った。そして“好きな人に性別は関係ない”と改めて気づく。
50才を迎える年齢になって、ある日女性が恋愛対象になるということは、誰にでも起こり得ることなのかもしれない。結婚生活20年目の主婦・A子さん(46才)が語る。
「子供が高校を卒業してようやく子育てから解放されました。実は結婚以降、性生活が苦痛で、ずっと違和感があり、“もしかしたら自分は女性のパートナーを望んでいたんじゃないか”と思うことがあります。でもこの年になって誰にも相談できないし、女性と知り合うきっかけもわかりません。ただ、自分の心に嘘をついたままこれからの30年を過ごしていくのも嫌なんです。どうすればいいのか…」
夫がいる。子供もいる。でも、何かが違う。自分は本当は、女性が好きなのではないか――人知れずそんな悩みを抱える女性は少なくないという。勝間さんはこんなメッセージを送る。
「自分の中で悩んでぐるぐる回っていても何も変わりません。まずは勇気を出してLGBTの当事者たちと直接話をしてみることです。私も増原さんに会い、レインボーパレード(2016年5月のLGBT関連イベント「東京レインボープライド」)に参加したことで自分が変わりました」(勝間さん)
勝間さんは著書『恋愛経済学』(扶桑社刊、2011年)でこう書いている。
《私は「恋愛至上主義者」です。恋愛は人生の最高の喜びだと考えています。そればかりでなく、恋愛は自分を成長させる最高の「投資」であり、人生を立て直す必要のあるときには最高の「特効薬」だと信じています》
年齢を重ねてこそ、“恋愛”は必要なのかもしれない。勝間さんの言葉を私たちはどう受け止めるか。
※女性セブン2018年6月14日号
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和歌山県田辺市の実業家、野崎幸助氏(77)が自宅で急死し、遺体から大量の覚醒剤成分が検出された件では、和歌山県警が死亡に至る経緯について捜査を進めている。野崎氏は、2016年12月に著書『紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男』を出版したことで話題となり、多くの女性との交際を公言していた人物だ。
野崎氏は今年2月に55歳年下の自称モデル・Sさんと結婚したことをメディアで公表していたが、Sさんの故郷に記者が訪れると、意外な事実が判明した。
札幌市中心部の住宅街に住むSさんの父親は「なんだかよくわかんないから」と語るのみ。隣に住む祖母に聞くと、結婚した事実さえ知らなかったと明かしたのである。以下、一問一答だ。
──Sさんというお孫さんがいますよね?
「ええ。それがなんですか?」
──札幌では美容専門学校に通っていたそうですが。
「はい、そうです」
──今年結婚しましたよね。
「そうなんですか? 知りません」
──東京に出て、結婚して今は和歌山にいますよね。
「結婚? してないと思いますよ。和歌山もわかりません。私は何にもわかりません」
美容専門学校の同級生も、「明るくて、前向きな人ですね。美容師にならなかったのは、自分に合わないことが分かったからだと思います。自分にもっと合った道を見つけたからではないでしょうか。結婚? 知りません」と語った。
なぜ親族にさえ結婚を報告しなかったのかはわからない。警察は、野崎氏の死亡についてこの22歳の妻・Sさんからも事情を聞いている。
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人生が言葉をつくり、言葉が人を変える。諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、言葉によって人生が変わった体験について語る。
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元広島の“鉄人”衣笠祥雄さんが4月に亡くなった。現役時代、巨人の西本投手からデッドボールを受け、肩甲骨を骨折した。が、翌日、ピンチヒッターに出た衣笠は、フルスイングで三球三振した。そのときのコメントは往年の野球ファンの記憶に残っている。
「一球目はファンのため、二球目は自分のため、三球目は西本君のため」
前人未到の連続試合出場記録の更新中で、その記録をストップさせるという汚名を、西本投手に与えないようにしたのだ。言葉には、その人の信念や生き方が映し出される。自分の言葉を持っている人は、それだけで魅力的である。
ぼくが、「言葉によって人生が変わった」という体験をしたのは、高校3年のときだった。それは、父からの「勉強するな」という言葉だった。貧乏から脱出するために、医学部に行きたいと打ち明けると、父は、貧乏人は大学など行かなくていい、働け、と怒鳴った。
ぼくは、父の言葉に反発した。その日から、医学部に入るための勉強を始めた。あのとき、父が「もっと勉強しろ」と言っていたら、きっと意志を貫けなかっただろう。その後、いろいろな人と出会って、忘れられない言葉をもらった。
ぼくの母は重い心臓病だった。日本で心臓の手術が始まって間もないころ、東京女子医大の榊原仟教授(当時)に手術をしてもらった。日本の心臓外科をつくった人ともいわれている。山崎豊子原作のドラマ『白い巨塔』で主役を務めた田宮二郎は、役作りのために榊原教授の手術を何度も見学したという。
「勉強するな」と言った父はタクシーの運転手をしていた。母の手術をしてもらって約10年後、偶然、榊原教授を客として乗せた。
「妻は先生に命を助けていただきました」と言うと、教授は母のことをよく覚えていた。そのうえ、「小さな男の子がいましたね」と聞いたという。ぼくのことだ。
そのころ、ぼくは東京医科歯科大学の医学部に通っていた。父はそのことを伝えた。すると教授は名刺を出して、こう言った。
「息子さんが困ったら、いつでも来るように言ってください」
その名刺をぼくは父から渡された。結局、一度も榊原教授を訪ねたことはなかったが、しばらくの間、その名刺はぼくのお守りになっていた。困ったことがあったら、この人のところに行こう、そう思えるところがあるだけで、どんな障壁にも負けないで生きていけるような気がしたのだ。まったくもって、脱帽である。
人生が言葉をつくり、言葉は人を変える。そんな力をもった言葉との出会いを『曇り、ときどき輝く』(集英社)という本にまとめた。
人間がどのように言語を獲得したのかはわからない。言語学者のノーム・チョムスキーは非連続的な突然変異が起きたと考えている。心の震えが、声帯を震わせて言葉になったという説もあるし、言語の起源は祈りや歌だったとする説もある。
しかし、言葉を手に入れて人類の生き方が変わったことは間違いない。そして、それ以来、ぼくたちは言葉を羅針盤にして、人生を切り開いている。
●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『人間の値打ち』『忖度バカ』。
※週刊ポスト2018年6月8日号