敢えて劇場アニメだけに限るが、去年今年と、何となーく牧歌的な世界観で、ちょっとアニメ映えするファンタジーや萌えを入れて、しかしちょっとだけ批判的なメッセージ性を付け足して、という作品群がズラリと並び、見事に成功していない。
これだけ並んだこと自体が異常だが。

何だかどれも、神輿を担ぎ上げられ、それに安穏としつつ、でもそれだけじゃあぬるま湯に浸かった自分の間抜けヅラがバレるから、それらしいこと言っておこうぜ、てな程度の創作だ、と言えなくもない。
クオリティはどれもベラボーに高いのだが、芯がない。
宇野さんの言う「表現の課題」がない。
結局、今の自分に甘んじているだけなのだ。だから表現に必死さがない。

そう考えると、ああ確かに、俺には「表現の課題」がありまくりだなぁ、と痛感する。


そもそも今の、特に日本人が、右も左もこれだけは共有しているだろうと思われるのが、「今現実は厳しい」という深刻な意識だ。
あとは、そこから思いっきり離れて現実逃避するか、現実に立ち向かうしか、生きる術がない。
「現実を全肯定する」という感覚は、ほとんどの人が持ってないと思う。

だから「ちょいファンタジー、ちょいメッセージ、でも結局現実肯定」なんていう物語は、今流行らないのだ。皆決定的に勘違いしている。
世界観に呑気さがあってはならないのだ。

そこが、2017年以降の凡百の作品群と、2016年の『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』の大ヒットラッシュの、大きな違いだ。
姿勢に違いはあれど、この三作は確かに「現実」と戦っていた。
それが評価の源であったことは、後の世が逆に証明してくれたのだ。


・・・と、ここまで言っておきながら、何度も言うが『薄暮』では「表現の課題」を、そこまでは追究しない。
今はしんどい。後回し。