歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」 見つかった幻の記述。見えてくる信玄の知られざる一面… New!
- CATEGORY歴史秘話ヒストリア
『歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」』の番組情報(EPGから引用)
2018/08/29(水)
歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」[解][字]
武田信玄の逸話を豊富に記しながら、後世の創作と軽視されていた書物「甲陽軍鑑」。しかし不明だった巻の確認や、新たなアプローチの研究で評価は一変!信玄の真実とは!?
詳細情報
番組内容
「戦国大名」といえば、まず名前があがる甲斐(山梨県)の武田信玄。織田信長も恐れた名将・信玄を知る手がかりこそ、史料「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」だ。しかし甲陽軍鑑は、明治時代から「偽書」とみなされてきた。この汚名に挑んだ昭和の国語学者。見つかった幻の記述。見えてくる信玄の知られざる一面。信玄の言行を懸命に伝えようとした軍鑑の「作者」。甲陽軍鑑最新研究を通じて、武田信玄と戦国の人々の心に迫る。
出演者
【出演】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,【キャスター】井上あさひ
『歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)
- 信玄
- 甲陽軍鑑
- 高坂
- 酒井
- 言葉
- 事
- 家臣
- 武田家
- 末書
- 武田信玄
『歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像がなければ味わえませんので、以下各社のVOD(ビデオオンデマンド)サービス利用をオススメします。
☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!
☆無料トライアルあり!NHKオンデマンドも見れるU-NEXT(ユーネクスト)!
☆無料トライアルあり!海外ドラマに強いHulu(フールー)!
☆無料お試しあり!VODも宅配レンタルもTSUTAYA TV(ツタヤTV)!
(鳴き声)
強~い トラ。
トラのようだと言われた
戦国大名が…
信玄といえば 川中島の戦い。
名場面は
ライバル・上杉謙信との
一騎打ち!
うおおおお!
軍配で刀を受け止めた姿は
まさに…
更に 「風林火山」の旗の下 束ねた
無敵の大軍。
…と たたえられました。
こうしたエピソードは全て
ある書物に記されたもの。
「甲陽軍鑑」。
ところが!
いわゆる…
かつては 研究者に
見向きもされない
書物だったのです。
ね。 で これほら。
近年 見つかった
史料から
真実の書である可能性が
高まっているのです。
更に これまで
知られてこなかった
信玄の国家構想も
浮かび上がってきました。
「甲陽軍鑑」の最新研究から迫る
武田信玄の真実です。
♬~
「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も
どうぞ おつきあい下さい。
今日の主人公は
戦国大名の武田信玄。
そして 信玄について
詳しく書かれた「書物」です。
それは 「甲陽軍鑑」。
「甲陽」は 信玄の故郷 甲斐国。
信玄のエピソードを
豊富に記した史料です。
実は この「甲陽軍鑑」に
「末書」と
呼ばれる部分があります。
今まで ごく一部の内容しか
知られてこなかったのですが
近年 全てが明らかになりました。
そこには 武田信玄の
知られざる一面が
記されていたのです。
そこの辺に…
東京都内の民家で
古い史料の捜索が行われました。
見つかったのは
長らく
存在が不明だった
「甲陽軍鑑末書」。
「甲陽軍鑑」には
既に知られた本編に加えて
「末書」という
続きがあったのです。
そこには こんな記述が…。
まずは
この「末書」から
知られざる信玄の姿を
見ていきましょう。
歴史学者の黒田日出男さん。
武田家が あれだけ強く
団結できた訳を
「末書」に見つけました。
(黒田)「小宰相と申す女房
信玄公御前にて出頭仕り候」。
なんと信玄が
お家の団結を託したのは
小宰相という 一人の女性。
側近中の側近として
信玄に 直接 ある意見を述べたと
記されています。
小宰相 首尾はいかに?
はい これに。
「意見」とは 家臣の家同士の
「縁組み」についてでした。
相木様のご嫡男と
山県様の姫なれば
まずは よろしきご縁組と
心得まする。
(家臣たち)おお!
祝着にござる。
めでたいのう。
領地が広がるにつれ
武田家には 新たな家臣が
次々と加わりました。
信玄は 新しい家臣と
元からの家臣を縁続きにして
結束を固めようとしたのです。
よかろう。 さよう取り計らえ。
承知いたしました。
恐らく…
更に黒田さんは 「末書」から
信玄の「秘められた野望」を
読み解きます。
信玄は よその国の地形を
その地の住民から聞き出し
絵図を描かせていました。
集めた絵図は
東北から中国地方まで
なんと
37か国に及びます。
その理由が
「末書」に記されています。
いわゆる…
実は これまで
信玄が天下取りを考えていたか
研究者の間でも
意見が分かれていました。
「末書」によれば
信玄は 天下を治める
新たな拠点を
探していたといいます。
その場所の条件は…。
何より 商いの多き場所がよい。
商い…。
それに
北に高く 南に低く
北南に長い地である事。
西東には 川があり
南にも 川や海があれば
なおよい。
信玄は 地形にも
抜かりなく気を配っていました。
申すまでもなく 堅固で
守るにやすい
土地でなければならぬ。
これらの条件に かなっていると
信玄が選び抜いた土地。
信玄がほれ込んだ「ほしのや」は
一体 どこなのか。
信玄ゆかりの神社に
手がかりがありました。
こちらは…
江戸時代に描かれた絵図。
「甲陽軍鑑」に出てくる地名が
書き込まれています。
「ほしのや」は
こちらになります。
星の谷と書いて「ほしのや」。
現代の地図と
照らし合わせてみると…。
神奈川県 座間。
鎌倉と秩父を結ぶ
街道沿いにあり
大勢の人が行き交う
「繁盛」の地でした。
地名の由来となった 星谷寺。
信玄が拠点を置こうとした場所と
考えられます。
信玄は
「ほしのや」の近くまで訪れ
そう褒めたといいます。
そんな 「ほしのや」の守りの固さ。
この方に
分析してもらいましょう。
「末書」によれば
信玄は 川を挟んだ
金田の地から
「ほしのや」を
眺めました。
「河岸段丘」とは
川の流れによって土地が削られ
崖や丘がつくられた
地形の事です。
相模川の河岸段丘上にあった
「ほしのや」。
信玄は
この地形に注目したと
千田さんは言います。
更に 信玄が城を築こうとしたと
見られる場所は
地形の有利さが際立っています。
実は一つ 信玄が
知りたかった事が
ありました。
飲み水の有無です。
ところが
当時 「ほしのや」は
敵対する北条氏の
勢力圏。
そこまで調べる事が
できませんでした。
まさに ちょうど この場所から
いや~ 水が
ほんとに湧いてきています。
「ほしのや」を拠点に
天下を治めようとした…
それは 織田信長が
天下取りのため
とった行動に通じる。
千田さんは そう考えています。
「末書」の研究が
明らかにしたのは
武田信玄の
知られざる天下統一構想でした。
もしも信玄が
天下を取っていたら
徳川幕府は「武田幕府」に。
江戸時代は
「星谷時代」に
なっていたかもしれません。
武田信玄について
余すところなく記した
「甲陽軍鑑」。
実は つい最近まで
後の時代に作られた「偽書」
「ウソの史料」と
言われていました。
一体 なぜなのでしょう。
第1の理由 「日付に誤りが多い」。
なんと 信玄の初陣の日も
間違っているほど…。
第2は 「歴史的事実を
記しているにしては
あまりにもドラマチックで
物語のようである」という事。
そのため 明治の頃から
研究者たちは
「戦国の記録のように見せかけた
江戸時代のフィクション」と
見なすように
なっていました。
ところが 「甲陽軍鑑」の評価は
全く 別の視点からの
分析によって
ガラッと変わる事になります。
名峰・富士を望む
山梨県 甲府。
武田信玄ゆかりの街です。
50年ほど前
ここで 「甲陽軍鑑」の評価を
一変させる研究が始まりました。
担い手は 意外にも
歴史学者ではありませんでした。
長年 「国語辞典」の編さんに
関わった国語学者です。
「おい あくまちゃん」っていう
言葉も教えてもらいました。
…っていう。
地域に貢献したい。
酒井さんが
「甲陽軍鑑」を
研究し始めたのは
38歳の時です。
「『甲陽軍鑑』は…」。
山梨に 酒井さんが
当時 調べた「甲陽軍鑑」が
残されています。
江戸時代に
大量に刷られた版本。
出版の年によって
大きさや刷り方が異なります。
国語学者の酒井さんが
目を向けたのは
使われている言葉の微妙な変化。
例えば 僅か3年の違いで
用いられる漢字や
その読み方が異なっています。
という事は…。
[ 心の声 ]
版本の時期を遡れば遡るほど
古い言葉づかいが
見つかるはずだ。
そこで酒井さんは
全国の図書館を訪ね
「甲陽軍鑑」を
探す事にしました。
(酒井)「甲陽軍鑑」について
問い合わせさせて頂いた
酒井ですが…。
ああ お待ちしておりました。
言葉はもちろん
印刷の鮮明さや
紙の材質などから年代を推定し
より古い「甲陽軍鑑」を探します。
時には 悲しい現実も…。
空襲で 図書館も
焼けてしまいまして…。
焼けた…。
ええ。 その時に
お探しの本も多分…。
それでも酒井さんは
探し続けました。
そして12年目。
今まで見た版本とは
異なる特徴を持つ
「甲陽軍鑑」に出会ったのです。
酒井さんが手にした実物です。
その特徴とは…。
印刷ではなく 一字一字
手で忠実に書き写された
「写本」である事。
つまり 言葉づかいや内容が
原本に最も近い
可能性があります。
酒井さんが この写本を
徹底的に調べた時のメモです。
単語と その意味を
一つ一つ 追っていく中で
古い日本語が
たくさん見つかりました。
その一つが「ばしなる」。
あの織田信長の
「性格」を表した
言葉ですが
意味は 後ほど。
こうした言葉は
いつの時代のものか。
酒井さんは 言葉の
年代推定に挑みます。
その時 用いたのが…
戦国時代末に来日した
宣教師が作った
日本語とポルトガル語の
辞書です。
調べてみると
写本にある単語の7割近くが
「日ポ辞書」にあったのです。
ちなみに 先ほどの「ばしなる」。
「日ポ辞書」には
「せかせかしている」とあります。
信長は当時
そう 見られていたんですね。
酒井さんの
年代絞り込みは続きます。
次に注目したのは 「侮る」。
「日ポ辞書」は
「あなどる」と「あなづる」
2種類の発音があるとし
その中でも
「あなどる」が
多く使われるとします。
辞書が作られた当時
発音が「あなどる」に
統一されつつあったのです。
しかし写本では
逆に 「あなづる」の方が
多く使われていました。
つまり…。
これらの分析から 酒井さんは
「『甲陽軍鑑』は
江戸時代の成立」という定説に
反論しました。
(酒井)「この写本の言葉は…」。
(酒井)「…と見なければならない」。
ここが 父の書斎です。
酒井さんの書斎が
今も残されています。
息子の英夫さんは 当時
父親が よく話していた事を
覚えています。
…みたいな事は
言ってましたけどね。
間もなく 酒井さんは
「『甲陽軍鑑』偽書説」を覆す
決定的な記述を
写本の中に見つけます。
これは…。
文章を書き写した人物自身の
注意書きでした。
小幡勘兵衛景憲は
江戸時代の軍学者。
「甲陽軍鑑」を創作した
張本人と見なされた人物です。
しかし 注意書きによれば…
小幡は 偽書の創作者ではない。
そもそも 江戸時代の言葉で
書かれていない。
酒井さんは これらの事実から
「甲陽軍鑑」は
武田信玄が生きた
室町時代末
つまり 戦国時代に
書かれたものだと
結論づけました。
この研究成果は
それまで 偽書説を信じてきた
歴史学者たちにも
驚きをもって迎えられました。
酒井さんの研究は
「甲陽軍鑑」が
100年近く被ってきた
汚名を晴らしました。
けれども 先ほど申し上げた
日付の間違いや
あまりにもドラマチックという
問題は 解決していません。
これらの疑問を解くカギ。
実は 「甲陽軍鑑」に人生をささげた
一人の武将にありました。
武田家のあるじが暮らした…
武田信玄ゆかりの絵が
伝えられています。
信玄と家臣たちの姿を描いた
「武田二十四将図」。
実は この中に 「甲陽軍鑑」の
真の作者とされる人物がいます。
手がかりは やはり
「末書」にありました。
(黒田)「きくほどの儀を書付よと
弾正 申しつけられ候」。
弾正とは
信玄の側近 高坂弾正の事。
「甲陽軍鑑」は
高坂が語った話を
2人の部下が
記録したものだと
いうのです。
それを裏付けるように
「甲陽軍鑑」は 読む者に語りかける
ような表現で あふれています。
偉大な主君 信玄について
誇らしげに語る 高坂の姿が
目に浮かぶようです。
更に 特徴的なのは 一文の長さ。
例えば 織田信長が
今川義元を破った「桶狭間の戦い」。
高坂は 合戦の初めから
終わりまで 一文で語りきります。
およそ2ページ分を 切れ目なく
一気に語り続けています。
高坂の語りを
そのまま記録したため
「甲陽軍鑑」は
ドラマチックになりました。
そして 日付の間違いも
記憶違いや 言い間違いのためと
考えられています。
でも どうして高坂は 誤りが
起きかねない方法を用いたのか。
その理由も 高坂が
「甲陽軍鑑」で語っています。
高坂弾正は
信玄の側近でありながら
なんと 農民出身でした。
しかし 実力があれば取り立てる
信玄の目に留まり
16歳で 家臣となります。
身分の低さから
侮られる事もありました。
≪(笑い声)
(家臣1)あの百姓あがりに
何が できようぞ。
(家臣2)いかにも。
戦では ものの役にも立つまい。
≪(笑い声)
[ 心の声 ]
御屋形様のご期待に
たがわぬよう
ご奉公に励むのみじゃ。
押し出せ~!
気を緩めず
一心に働いたため
読み書きを
学ぶ暇がなかった 高坂。
かわりに 人知れず
取り組んだ事がありました。
それは 相手の話をよく聞き
よく覚える事。
して その後は
どうなされたのですか?
ああ さようでございましたか。
それは 大変でございましたな。
高坂は 信玄からも多くの言葉を
引き出し 吸収していきます。
似たような家臣ばかり
重用するなど
大名たる者
ゆめあってはならぬ事じゃ。
それは 何故に
ございましょうか?
信玄の答えは
少しロマンチックなものでした。
例えて申すなら 庭には四つの木を
植えねばならぬという事かのう。
「四つの木」に ござりますか?
春には 色めく桜。
夏は 目にも すがすがしい柳。
秋には 紅き楓。
して 冬には松。
松…。
常に 緑を保つ松は
冬にこそ映える。
四つの木をそなえてこそ
いかなる時も
庭を美しゅう見る事ができる。
[ 心の声 ]
それゆえ 家臣も異なる者を…。
信玄との対話は続きます。
まあ 日々の心得にも
さまざまあるが
何より大事なるは
己より 優れたる者から
日々 話を聞く事じゃな。
話とは いかなる事を?
話なればよい。
日に一つも聞けば
ひと月で30 一年で360は
器量の者から
話を聞いた事になる。
さすれば
前の年の己より知恵がつき
器も大きゅうなれるという
ものじゃ。
(一同)おお…。
かように努めし者は たとえ
文字も知らぬ百姓であろうと
知者と申すべし。
そばにいた高坂だからこそ
知り得た 信玄の言葉。
「甲陽軍鑑」は 農民出身の高坂が
武田家で見聞きした
記憶の集まりでした。
そして 信玄と共に目指した…
そのさなか 別れが訪れます。
「信玄公は
『かく』と申す病にかかり
歯が抜け 吐く事もあった。
じき亡くなられた」。
♬~
長野県南部 長岳寺。
ここで 高坂は
信玄を看取りました。
寺には 信玄の遺品として
かぶとの飾りが伝えられています。
信玄を失った武田家。
その2年後
試練の時が やって来ます。
(銃声)
信玄の跡を継いだ 武田勝頼が
織田・徳川連合軍に完敗。
武田家を支えてきた
重臣たちの多くが戦死します。
高坂は 国元で
留守を守っていました。
勝頼様! よくぞ ご無事で。
弾正。 わしは 多くの者を
死なせてしもうた。
勝頼様。
[ 心の声 ] 今こそ わしが
武田家を守らねばならぬ。
あるじの家を救うために
高坂が考えた事。
それこそ 信玄の行いを
語り残す事でした。
(高坂)
信玄公は こう仰せになった。
「庭には 四本の木を植えるべし」。
信玄から学んだ事を
次の世代へ伝える。
それは 自分がすべき事だ。
[ 心の声 ] 御屋形様…。
こうして 「甲陽軍鑑」は
生まれたのです。
語り始めて3年
高坂は 「甲陽軍鑑」の完成を
見る事なく 亡くなります。
享年52。
高坂の遺志は 記録を手伝った
部下の一人に引き継がれます。
春日惣次郎。
高坂弾正のおいです。
若くして高坂に仕え 読み書きを
学ぶ事ができた惣次郎。
高坂への恩返しにと
こう決意しました。
この4年後 武田家は滅亡。
かろうじて生き延びた惣次郎に
思いがけない手紙が届きます。
送り主は
武田家を滅ぼした徳川家康。
惣次郎を召し抱えたいと
書かれていました。
日々の暮らしにも困っていた
惣次郎にとって 願ってもない話。
ところが…。
これだけは
書き上げねばならぬ。
♬~
惣次郎は 病気を理由に断った。
そう伝えられています。
その後 佐渡へ移った
惣次郎。
自分が見聞きした
武田家の滅亡を記し
「甲陽軍鑑」を
完成させました。
そして…
「甲陽軍鑑」は 惣次郎から
武田家家臣の子
小幡景憲に伝えられます。
景憲は これを本にし
世に広めました。
信玄の活躍は 版画にも刷られ
人々に親しまれていきます。
こうして 武田信玄は
語り継がれていったのです。
似たような家臣ばかり
重用するなど
ゆめあってはならぬ事じゃ。
何より大事なるは
己より 優れたる者から
日々 話を聞く事じゃな。
そして 今
400年前の
日本人が生きた証しは
私たちの心を捉えて離しません。
時代を生き生きと描写した
「甲陽軍鑑」。
次の世代に語り残したいという
志が生んだ 戦国の記録です。
♬~
NHK「プロフェッショナル」制作班 NHK出版 2011-10-06    
- 関連記事
- 
		- 
					
													歴史秘話ヒストリア「武田信玄“甲陽軍鑑”が語る真実」 見つかった幻の記述。見えてくる信玄の知られざる一面… 
- 
						
							
																	歴史秘話ヒストリア「8月15日のプレーボール 高校野球 戦火の中の青春」 …戦後第一回大会のドラマに迫る 
- 
						
							
																	歴史秘話ヒストリア「縄文1万年の美と祈り」 …縄文の土器土偶に秘められたメッセージに迫る。 井上あさひ 
- 
						
							
																	歴史秘話ヒストリア「戦国ラストサムライ 絶対曲げない水野勝成」 徳川家康のいとこ…剛情だが、しなやかな生き方… 
- 
						
							
																	歴史秘話ヒストリア「三菱をつくった男 岩崎彌太郎 海の明治維新」 世界貿易という壮大な夢にかけた熱い男… 
 
-