高知県高知市に店舗を構える創業91年の老舗印章店「吉本三星堂」がこの春に生み出したヒット商品は、全国に約30人しかいないとされている「降谷(ふるや)」姓のハンコ。注文は年に一度あるかないかというほど珍しい名字にもかかわらず、2018年5月から約3カ月間で、4,000個以上も売り上げたといいます。
ブームのきっかけは、2018年4月に公開された劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」にキーパーソンとして登場した人気キャラクター・安室透。彼の本名が「降谷零」であることから、ファンの間で「降谷」姓のハンコを購入する流れが生まれ、映画の快進撃をなぞるようにじわじわと注文数が伸びていったそうです。
しかし、そのヒットの背景には、SNSを中心に広がっていた「降谷ハンコ」の盛り上がりをしっかりと捉え、自社のTwitterを活用しながら商品を展開し続けていた、仕掛け人の存在がありました。曽祖父の代から受け継がれている吉本三星堂で、家族と共にお店を運営している吉本美奈さんに、ブームの裏側をお聞きします。
日本に約30人しかいないはずの「降谷」が売れている──珍しい名字だから気付けた盛り上がり
── 劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」の興行収入が86億円(2018年8月現在)を突破し、安室透(降谷零)の人気ぶりが話題になる中で、ファンが「降谷ハンコ」について盛り上がっている様子をTwitterなどでたびたび見掛けます。吉本三星堂さまの「降谷ハンコ」がブームになった背景には何があったのか、あらためてお伺いしたいです。
吉本美奈さん(以下、吉本) 発端は、やはり「名探偵コナン ゼロの執行人」です。降谷さんは映画が始まる前から『名探偵コナン』の原作に登場していたと思うのですが、今作が公開されるまで、弊社ではファンの方からと思われる「降谷ハンコ」の注文はなかったと記憶しています。
それが、映画が公開されて少したった2018年5月初旬ごろから、突然1日に5〜6本ほど注文をいただくようになったんですね。弊社が使用しているレーザー彫刻の機械は1回の操作で80個のハンコを彫ることができるんですが、いろいろな名字に混ざって「降谷」を目にすることが増えました。
もともと「降谷」という名字の方は、日本に約30人しかいないと言われています。弊社でも年に1本注文があるかないかというくらい、とても珍しい名字なんです。なので、急に注文が増えた当時は不思議だなと思っていました。
そんなときに、アニメ好きな友人が『名探偵コナン』に降谷零というキャラクターがいると話していたことをふと思い出したんです。これは、何か関係があるかもしれないと。
それから、Twitterでなんとなく「降谷 ハンコ」と検索して、ようやく注文が増えた理由を把握したという形です。映画で降谷さんが話題になっていた上に、ファンの方たちが「降谷ハンコ」を買って楽しまれていた様子がずらりと並んでいたんです。
── 作中に登場していないはずのハンコがファンの間で盛り上がっているのはとても興味深いです。ファンの方は、どのように使っているのでしょうか?
吉本 やらなければいけないタスクなどをToDoリストに記して、終わったものに「降谷ハンコ」を押すと、降谷さんからハンコをもらったように感じられるということで、主に済印として使用されているようです。降谷さんは部下を抱えている警察官なので、自分も部下になったような気分が味わえる、というものですね。
── キャラクターの存在をよりリアルに感じられるということなんですね。「降谷ハンコ」のように、以前から好きなキャラクター名でハンコを作るという方はいらっしゃったのでしょうか?
吉本 弊社の場合、少し特徴的なキャラクターの名前や架空と思われる団体名のハンコは、以前からオンラインストアで注文をいただいていました。ただ、キャラクターの中には一般的な名称の方もいらっしゃると思うので、こちら側が認識できていないだけで、実際にはもっと注文があったかもしれません。
なので、降谷さんがもしも「佐藤」さんや「鈴木」さんといった日本に多い名字だったら、いくら注文数が増えたとしても、ファンの間でハンコがブームになっているとは気付かなかったと思います。
── 珍しい名字で目立っていたからこそ、ブームを把握できたんですね。そもそも、ハンコ屋さんは普段からいろいろな名字のハンコをそろえているものなのでしょうか?
吉本 弊社の場合、朱肉を必要としないシヤチハタ印の既製品については各1本ずつそろえています。朱肉を付けて押す印章も、ある程度の名字は在庫を用意しています。「降谷」のように、珍しい名字やお客様が名前を指定できるハンコは、注文を受けてから作成しています。この際、書体や印章の素材も選べるようになっています。
約10年前にオープンしたオンラインストアからの注文でも、作成の流れは基本的に店舗と同じです。ネットではシヤチハタ印をメインに販売しています。
店舗とオンラインストアでは、若干ながら売れ筋の商品が異なるんです。店舗の場合、近くに役所があることも影響し、普段は主に朱肉をつけて押すハンコや印章がよく売れています。週末には、実印や銀行印、認印など、一生モノのハンコをご家族で選びにいらっしゃるお客様が多いんです。購買層は、全体的に30〜40代の方が多いですね。
ヒットにつながったのは「ファンの人に喜んでもらいたい」という気持ち
── 先ほど、Twitterで検索して初めて「降谷ハンコ」がブームになっていることに気付いたというお話がありましたが、その後、吉本さんはどのようなアクションをとったのでしょうか?
吉本 私は主に商品企画やWebページ制作を担当しているのですが、「降谷ハンコ」の注文が増えだした5月の連休明けはいろいろなハンコの注文がたまっていたので、ヘルプで製造ラインに入っていました。なので、実際にファンの方が欲しいと思って注文してくださった「降谷ハンコ」が作られていく様子を何度も見ていたんです。
そうした「降谷ハンコ」を見ていくうちに、だんだんと「ファンの人にもっと喜んでもらいたいな」「『降谷』の書体が選べたらなおさらいいかな?」「色も選べたら楽しいかな?」と考えるようになりまして。そこで考えついたのが“降谷専用フォーム”でした。
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── ついに専用が! それはどういったものですか?
吉本 普段からお客様に書体やインクの色を選んでいただけるようになっているのですが、降谷専用フォームでは、サンプルを最初から「降谷」で表示しているんです。こうした方がいろいろな「降谷」を確認できるかなと思いまして。たまっていた注文がようやく片付いた日に、店番をしていた午前の時間を使って、1時間くらいでページを作成しました。
そのままオンラインストアで公開し、お昼休憩の前にTwitterで告知をした後、ランチを食べながら何気なくTwitterをリロードしたのですが……告知したツイートが、いきなり700もリツイートされていました。注文もすでに数十件ほど入っていましたね。
退勤時間になってもその勢いは止まらず、公開からわずか5時間で400個、最終的にはその日だけで800個以上もの注文をいただくことになりました。2018年8月現在までに、4,000個以上のご注文をいただいています。
降谷専用フォームの公開後、初日に注文された「降谷ハンコ」
── これまで1年に1個あるかないかという注文数が、いきなり4,000個……単純計算で、通常の4,000倍ということになりますよね。ものすごい勢いです。
吉本 あまりにも数が多かったので、ピーク時には急きょ「降谷ハンコ」専用の受注・製造・発送のラインを作って、家族総出で夜通し「降谷ハンコ」を作っていたほどです。
「降谷ハンコ」の注文は特徴があって、ほとんどのお客様が降谷零の「零(れい)」にちなんだ「れい書体」を選ばれます。また、降谷さんがRX-7という白い車に乗っていることから、本体色には白を選ぶ方が多いんです。
降谷専用フォームで選べる書体とインクの色。降谷さんの名前にちなんで、一番人気は「れい書体」
このほか、ハンコ本体の色も選ぶことができる
一般的に、ハンコの書体は楷書体や行書体、本体色は黒を選ばれる方が多いので、こういった違いも驚きでした。ファンの皆さんは、ハンコの書体や色を選ぶ時もキャラクターに思いを馳せていらっしゃるんですね。
ちなみに、「降谷ハンコ」を買われる方の多くは、「赤井」姓や「風見」姓のハンコもセットで購入されています。本体色は、「赤井ハンコ」は赤色、「風見ハンコ」は緑色がよく選ばれていますね。こうした組み合わせも、ファンの皆さんならではのこだわりなんだろうなと思いました。
── 降谷さんと関係性の深い他のキャラクターのハンコも一緒に買われているのは、面白い傾向ですね。
吉本 そうですね。ToDoリストのチェック代わりにしたり、スケジュール帳に書いた予定に押したりといった「降谷ハンコ」の使われ方は、印章業界に長年いる私たちには想像もつかなかったことなんです。
今は手帳もブームが続いていて、文房具店で気軽に購入できるスタンプの人気は非常に根強いのですが、ハンコもスタンプと同じように楽しんで使ってくださる方がいるなんて思いもしませんでした。
なので、楽しいハンコの使い方を教えてくださったお客様たちに、何かお礼をしたいな……と。何かないかと考えていたときに、ご意見として「降谷さんは金髪なので、金色のハンコが欲しい」という要望をいくつかいただいていたことを思い出しました。
そして、黒い小箱に入った「黄金の降谷ハンコ」が生まれました。こちらは当初、Twitterで応募していただいた方の中から抽選で7名にプレゼントする目的で製造したものです。7名というのは、降谷さんの愛車であるRX-7にちなんでいます。
ありがたいことに「黄金の降谷ハンコ」にも大反響があり、プレゼントと並行して販売も行うことになりました。通常の「降谷ハンコ」とは違って5,000円以上しますし、ハンコとしては高価格ではありますが、現在までに300個ほど売れています。
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── ファンの皆さんの熱量から、新たな商品が生まれたんですね。吉本さんとファン皆さんのコミュニケーションも印象的です。
吉本 そうですね。この件がきっかけで「名探偵コナン ゼロの執行人」に興味を持って、劇場に足を運ぶ社員さんも現れたほどです。
私も「こんなにもファンを夢中にさせる降谷零ってどんな人なんだろう?」と興味が湧いて、主人と映画を見に行ったんです。事前に「これから映画を見ます」とTwitterに投稿したんですが、それだけでファンの方から温かいメッセージを送っていただいて。この映画を盛り上げようと頑張っている皆さんの熱量が伝わってきました。
なので、これは生半可な気持ちで見てはいけないな、と。映画を鑑賞した翌日は、何時間もかけて書いた感想文をTwitterに投稿しました。そこまで語りたくなるくらい、本当に素敵な作品だったんです! ファンの皆さんの気持ちがとてもよく分かりました。
大切なのは、何が求められているかを「受信」すること
── ファンの熱量はたしかに感じますね。映画はもちろん、「降谷ハンコ」もファンの方が一緒になって盛り上げている印象があります。このブームを受けてか、「降谷ハンコ」をイメージさせるものが「週刊少年サンデー」にもたびたび登場するようになりましたね。
吉本 最初にスピンオフ作品『名探偵コナン 犯人の犯沢さん』で「降谷ハンコ」が登場しているのを見たときは、本当に驚いてしまいました(笑)*1。
実は「降谷ハンコ」がブームになった頃、「降谷ハンコ」を販売することで法律に触れる点はないか、小学館さんの法務・企画室にもご相談していたんです。その時に「問題ないので、引き続き販売してください」というお返事をいただきまして。温かいお言葉をいただいただけでなく、作品と関連する形で紹介もしてくださって、本当にありがたいことです。
それ以外にも、原作者の青山剛昌さんが「降谷ハンコ」を手にした降谷さんのイラストを描き下ろしていたり、応募者全員サービスとして公式で「降谷ハンコ」が採用されていたり……。これをきっかけに、ハンコに興味を持つ人が増えたらいいなと思っています。昔ながらのハンコ屋さんは全国各地にありますので、お近くのハンコ屋さんを一度のぞいてみてもらえるとうれしいです。
── この「降谷ハンコ」ブームは、印章業界にとってもうれしい出来事なんですね。
吉本 割と古くさいイメージのあるハンコが、明るく愉快な話題で注目してもらえて、とても感謝しています。
世の中はどんどんサインレス化、ペーパレス化の方向に進んでいるので、印章業界の見通しは決して明るくはないんです。ですが、この「降谷ハンコ」がきっかけとなって、ハンコに親しみや興味を持ってくれる方が増えたとしたら、業界全体でありがたいことですね。
── SNSを活用すれば小さなお店でも大きなヒットを出すことができる、というのは多くの方々の励みになると思います。
吉本 商売を行う以上、今の時代はどんなに小さなお店でもSNSは絶対に必要だと思いました。企業やお店のSNSは「発信すること」に目が行きがちですが、それだけではなく、「声を拾うツール」としても大切だと思っています。
「降谷 ハンコ」と検索して見えた世界は、田舎のお店で接客しているだけだと、気付くことができないものばかりでした。今でも何度か検索をしていますが、その度に「降谷ハンコ」に対するいろいろな考え方や捉え方を知ることができました。
── 吉本三星堂さんは、Twitterだけでなく、FacebookやInstagramも活用されていますね。
吉本 SNSごとに特徴があるので、発信する内容も投稿先によって変えています。
Twitterは「降谷ハンコ」をきっかけにフォローしていただいた方に楽しんでもらえる内容を、Facebookはビジネスマン向けにハンコの使い方や吉本三星堂の紹介を、Instagramは主に新商品の紹介を、というような分け方ですね。
特にInstagramは、気になる商品の画像をタップするとショッピングページにそのまま移動するショッピング機能が付いたので、今後の動きに注目しています。
── SNSのユーザー層に合わせた展開をされているんですね。「降谷ハンコ」も、吉本さんがSNSを熟知していたからこそヒットにつながったように思います。
吉本 ただ、先ほどもお話したように、やはり「発信すること」だけでなく「受信すること」が重要だと思います。自身の商売に関連するキーワードを定期的に検索するだけで、商品開発のヒントに出会えることもたくさんあります。なので、普段からいろいろなところにアンテナを張っておくことが大切ですね。
今回「降谷ハンコ」がヒットしたことで、私自身も『名探偵コナン』という素晴らしい作品や、暖かいファンの皆さまにも出会うことができました。これからも、お客様の声を大切にしながら、柔軟に、楽しく商品展開をしていけたらと思います。
取材・文/浦島茂世
お話を聞いた企業:吉本三星堂
昭和2年に高知市本町で創業した個人経営の印章店。2018年8月現在、店主は3代目の吉本真さん。吉本さん家族4人と従業員が、実店舗とオンラインストアを通じてハンコを販売している。「降谷ハンコ」ブームで話題になり、それまで3人ほどだったTwitterのフォロワー数が、今では3,000人を突破。吉本三星堂:心を込めて幸せを彫刻する 創業90余年 はんの吉本三星堂
Twitter : @y_sanseido
Facebook:はんの吉本三星堂 | Facebook
Instagram:@y_sanseido
*1:「週刊少年サンデー」2018年6月13日号