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昭和天皇の戦争責任 - 増田都子の『昭和天皇は戦争を選んだ!』

c0315619_15162640.jpg昭和天皇の戦争責任の問題について、本を読み探して勉強をしている。昨年、岩波書店から山田朗の『昭和天皇の戦争―「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』が出版されていて、宮内庁の公式伝記である「実録」が、いかに公になっている不都合な事実を隠蔽し、昭和天皇を美化する目的で歪曲されたものであるかを明らかにしている。この作品が学界の権威の象徴である岩波から出されたことは一つの事件だろう。山田朗といえば、昭和天皇の戦争指導の具体的事実を暴き、一つ一つ証拠を示して提示したことで有名な歴史学者で、その著作は主に新日本出版社から刊行されている。その山田朗が、おそらくは保阪正康や半藤一利や御厨貴も編集に関わったであろう正史の「実録」の虚偽を暴露する本を、権威の卸問屋たる岩波が世に出したということは、この国の歴史認識の問題において刮目すべき一事であろうと思われる。果敢な挑戦であり、歓迎すべき慶事である。吉田裕の『昭和天皇の終戦史』、豊下楢彦の『安保条約の成立』に続く、山田朗の「昭和天皇の戦争責任」が岩波新書で登場する日も近いかもしれない。



c0315619_15163920.jpgそうなれば、昭和天皇の戦争責任をめぐって何らか新たな史料が発見され、報道され議論になるとき、朝日の記事解説は古川隆久ではなく山田朗が担当することになる。それは、この国の歴史認識の標準が根本的に変わるということを意味する。岩波はこの問題について着実に成果を積み上げてきて、吉田裕と豊下楢彦の所論をスタンダードにしてきた。吉田裕と豊下楢彦によって昭和天皇の実像が提供され、確かな説得力を築いているため、右翼が多い2chでも、昭和天皇の戦争責任の議論については過去と同じ様相にはならないのである。(1)姑息で臆病で醜悪な終戦工作、(2)敗戦直後の米国への命乞いと責任の頬被り、(3)新憲法制定後の政治介入と外交専断、等々については、右翼でも憤激を覚えるものだ。昭和天皇の戦争責任の論議に首を突っ込めば、否応なく(1)-(3)の不都合な事実と直面しなくてはならず、この史実を反駁し転覆するのは容易でない。嘗ては、(1)-(3)が歴史認識として所与ではなかったから、古川隆久的な「昭和天皇=平和主義者」の表象と観念が成立し、その言説で世間を納得させることが可能だった。明らかに、昭和天皇を擁護する主張は生命力を失っていて、政治言論としてドグマ化してしまっている。

c0315619_15165015.jpg山田朗の著作を詳読して紹介すること、古川隆久の『昭和天皇』(中公新書)を批判すること、そして、丸山真男の『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』を読み直して丸山真男の昭和天皇論を再構成することを試みたい。が、その前に、2015年に出た増田都子の『昭和天皇は戦争を選んだ』(社会批評社)の原文の一部がネット上にあるので、この便利なテキストを参照して、昭和天皇の戦争指導の中身を追跡してみよう。著者は東京都の中学校で社会科を教えていた元教師だが、石原都政下で苛烈な政治弾圧を受け、抵抗を続けて分限免職を食らった経歴の人である。まず、重要な日中戦争への関与について。志位和夫は「昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した」と言い切っているが、増田都子の書を見ると、昭和天皇の「独白録」から次のような証言が引用されている。「かかる危機に際して盧溝橋事件が起こったのである。これは支那の方から仕掛けたとは思わぬ。つまらぬ争いから起こったと思う。その中に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛火した以上、拡大防止は困難と思った。当時、上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ」。

c0315619_15170388.jpg「(中略)二ヵ師の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので、私は盛んに兵力の増加を催促したが、やはりソ連を恐れて満足な兵を送らぬ」。このように、堂々と自分が上海に兵を増派して戦線を拡大したことを認めている。37年7月7日に盧溝橋事件が起きた後、日本は8月15日に「暴支膺懲」の声明を発表、「南京政府の反省を促す」として上海派遣軍を編成、松井石根が指揮官となって出撃する。当初、第3師団と第8師団だけだった上海派遣軍は、昭和天皇が「独白録」で語った要求どおり増派され、9月9日には第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下った。このとき、8月18日の宮中大本営作戦会議での参謀総長・軍令部長への下問で、昭和天皇はこう言っている。「重点に兵を集め、大打撃を加えたる上にて(中略)和平に導き、速やかに収集するの方策なきや」。この下問を受け、8月21日に参謀総長・軍令部長が奏上、海軍航空部隊による上海爆撃が敢行され、日中戦争は全面戦争に突入して行く。同時に、昭和天皇の意向に歯向かった石原完爾は馘首の人事となった。松井石根の上海派遣軍は南京に進撃して南京事件を起こす。陸軍のトップは板垣征四郎のワンポイントリリーフを置いて、昭和天皇のお気に入りの東条英樹が座ることになる。

c0315619_15171820.jpg対英米戦の開戦となる南方作戦についても、41年9月9日に参謀総長の杉山元と次のような問答をしている記述がある。南方作戦構想とは、香港、英領マレー、ボルネオ、フィリピン、グアムを同時に占領し、次いで蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略するというという戦略である。「御上:作戦構想についてはよく分かった。南方をやって居るとき北方から重圧があったらどうするか。 総長:北方に事が起これば支那より兵力を転用することなども致しまして、中途でやめる様なことはいけません。 御上:それで安心した」。この翌日の10日、昭和天皇は陸軍の南方作戦動員を裁可する。この裁可を受け、海軍は11日から20日にかけて「ハワイ作戦特別図上演習」を実施、太平洋での日米戦争へと動いて行く。40年4月にドイツがヨーロッパ西部戦線での戦争を始め、各国を蹂躙制圧して以降、昭和天皇はすっかり強気になり、日独伊三国軍事同盟への確信を深め、北部仏印、南部仏印へと軍を進駐、英米との戦争へ進んで行く。外相を松岡洋右に変え、三国防共協定を三国軍事同盟に変えた40年9月の時点で、国際的には、日本は英米との戦争の意思を明確にしたと言っていい。

c0315619_15173298.jpg盧溝橋事件から真珠湾攻撃までの3年半、さらにそこから終戦までの3年半も、昭和天皇は常に強気で戦争指導を行っていて、外交も軍事も、国家の意思決定の中心にいて、自らの思惑で個々の指図をしていたことが分かる。統帥権者である天皇が軍を動かし、下問だ内奏だの言葉でカムフラージュしつつ、人事から作戦まで全てを仕切って指示していた。そのことは以前から察していたけれど、外交についても、どうやら戦前と戦後とは仕組みが異なっていて、外務大臣は首相の直属ではなくて天皇の配下として動いている。外相も外交官もそういう自覚を持っていただろうし、一閣僚だとか、官庁の一役人などという意識はなかったに違いない。いわば、軍と同じような別格の国家機関の位置にあり、政府の中にありながら、内閣の行政権力の一部として収斂するのではなく、天皇直属の独立した要員という身分感覚でいただろう。陸軍大臣や海軍大臣と同じように、外務大臣の人選も天皇が決めていたのに違いない。そう考えると、吉田裕の終戦史論や豊下楢彦の日米安保論もよく理解できる。つまるところ、どこから見ても、あの戦争は「昭和天皇の戦争」で、スターリンがソ連の戦争を指導し、ヒトラーがドイツの戦争を指導したように、大権を持った昭和天皇が日本の戦争を指導している。

一般には、司馬遼太郎が説いているように、昭和国家は異形の国であり、奇胎であり、何かの誤りで生じた病的な突然変異のように見られている。しかし、大日本帝国憲法の国家というのは、実のところ、伊藤と山県の二人の元勲が仕切って動かした明治国家ではなく、むしろ、昭和天皇が現人神として君臨し統治し、統帥と国務を総攬(独裁)する昭和国家の方が、条文に書かれたコンセプトに忠実な姿と言えるのではないか。革命家が執権を握った明治国家の方が、大日本帝国憲法の「理念」からすれば、暫定的で、過渡的で、建設途上の国家だったと言えるのかもしれない。


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by yoniumuhibi | 2018-08-29 23:30 | Comments(0)


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