大手商社を辞めて起業したユースフルの長内孝平社長 動画サイト「ユーチューブ」に自分の特技や芸の動画を投稿し、多くの視聴者を集めるユーチューバー。長内孝平氏(27)は表計算ソフト「エクセル」の使い方を解説する動画「おさとエクセル」で多くの視聴者を獲得するユーチューバーだ。勤めていた大手商社を7月末に退社し、ユーチューブを使った企業研修やビジネス系動画制作を手掛けるYouseful(ユースフル、青森県板柳町)を立ち上げた。「就職もユーチューバーも夢を実現する手段です」と言い切る元商社マンの自由な仕事スタイルに迫った。
■エクセルの達人、外国人にも頼られる
「明日の商談の資料でこんな感じのグラフを作りたいんだけど」
商社時代、長内さんは朝出社してエクセルに関する相談メールに応じるのが日課だった。マクロ(エクセル計算を自動化できるプログラム)の構築もできるエクセルの達人として社内で知れ渡っていた。
デスクには2つのモニター画面を置き、1つはマクロのコーディング(プログラミング言語でソースコードを作成すること)専用の画面としていた。経理部だったので社内から集まるグループ会社の決算情報を集計するのはもちろんのこと、営業からの依頼で市況情報を毎日自動で更新するプログラムを作成するなど、エクセルの高度な機能を駆使して業務の効率化に貢献していた。
そのスキルを生かし、長内さんには商社マンとは別にもう一つの顔があった。動画でエクセルの使い方を解説するユーチューバーだ。活動を始めたのは就職する前、まだ神戸大学経営学部の学生だった頃だ。
きっかけは米ワシントン大への留学時代。物流企業でインターンをしていたとき、会計部門に配属された。大学で企業財務を専攻していたためエクセルは得意だったが、実務ではより高度な作業をする必要があった。「せっかくだったらエクセルを究めよう」と、エクセル学習コンテンツを探して必死に勉強した。
「英語のエクセル教材が色々あったのですが、一番勉強しやすかったのが動画でした。色々と買いあさって10万円ぐらい使ってしまい……。留学生って貧乏なので、食事もサンドイッチ1個を3食に分けて食べるみたいな生活をしていました(笑)」
作業を効率化し、米国人の社員から「You were a big asset to the company(君は会社にとって大きな財産だった)」と感謝されたことは長内さんにとって大きな自信となった。「無料で学べる動画があったらより多くの人の役に立つかもしれない」。帰国後、就活や卒論が終わった2014年12月から動画づくりを開始。卒業までに30本制作してユーチューブに公開した。
制作にあたっては、教育系の人気動画を徹底的に研究。エクセルの解説という地味な動画でもズームイン機能などを付け、わかりやすさにこだわった。じわじわと人気を集め、今や「おさとエクセル」の登録者数は1万4千人に及ぶ。
就職後も早朝に動画を編集して朝7時に出社、昼食時にカフェで視聴動向などを分析、夜9時ごろから動画の撮影、といった忙しい日々を続けた。
■「役に立つ人間になれ」公務員の父親の教え
長内さんが作成した「おさとエクセル」の画面 著名ユーチューバーになったが、広告収入を得ていたわけではない。ではなぜここまでやったのか。長内さんは「人の役に立ちたいという強い気持ちが根底にある」という。この仕事観には、国家公務員である父親の存在が大きく影響している。
忘れられない思い出がある。小学校の少年野球チームの試合で長内さんは投手としてマウンドに立っていた。バッターが打った球はピッチャーゴロ。そして自ら一塁へ走ってアウトをとり、ホームに送球してダブルプレーをとった。観客席からは歓声が沸き起こった。
「やった!」と思っていた息子に父は予想外の一言を放った。「孝平、おまえ一人で野球やってるんじゃないぞ!」。当時の父の意図についてこう振り返る。「実はファーストの選手があまりキャッチの上手な選手ではなかったんです。僕がチームメートを信用できず、ワンマンプレーをしたことに対して父はたしなめたのだと思います」
そんな父から日々、「人や世の中の役に立て」とたたき込まれた長内さんは、中学校では学年委員長や野球部主将も務め、率先して人のために動いた。数学の授業についていけないという同級生がいたら、放課後、一緒に学校に残って教えたりしていた。「どんな人にもかみ砕いて伝える訓練になった」。この強みが動画のわかりやすさにつながっている。
キャリアの考え方も独特だ。入社前からずっと同じ企業で働くつもりはなかったという。「就職もユーチューバーの活動も『いい世の中をつくる』という最終目標を達成する手段です。一つの会社に縛られるのではなく、もっと大きな視点で役に立てる人間になりたい。社内でも社外でも価値を提供できるのが、自分にとってはエクセルだった」
17年にはネットニュースなどで取り上げられ、社内外で一気に認知が広まった。収入を得ていたわけではなく、ユーチューバー活動は社内規定に抵触しないと判断されたものの、「会社に迷惑をかけないように、関係部署と話し合い、一時的に投稿を停止した」。この間、自分が何をやりたいのか、もう一度考えて出した答えが「自分のミッションに背水の陣で臨む」。投稿を再開するにあたり、3年4カ月勤めた職場を離れる決意をする。
新会社ユースフルでは一般的なユーチューバーと同様に動画の広告枠も販売するが、それで稼ぐことだけを目的にはしていない。ミッションの一つは「ユーチューブで残業を減らす」こと。エクセルを使いこなすことができれば、仕事の生産性が上がることは自分でも実感していた。仕事を効率化して自己実現に時間を割きたいと考える人がターゲットだ。動画を使った期間集中型のエクセルトレーニングプログラムを企業研修として提供したり、エクセルの他にもクラウドサービスの使い方などテーマの幅を広げたりする予定だ。
■社会に役立ちたい「志」を応援したい
「社会に貢献したいと考える人を応援したい」と語る このターゲット設定の考え方には、時間に追われながらキャリアに悩む同世代を見てきたことが影響している。「例えば商社だと海外に何年か暮らして、10年後にはこういうポジションにいるといった未来が明確に見えてしまいます。それはとても恵まれた環境ですが、一方で我々の世代はSNS(交流サイト)などから色々な情報や選択肢が見える。何かしら社会貢献の志を持っているビジネスマンほど『このままでいいのか』と悩んでいる。でも時間に追われていてなかなか踏み出せないのが現実です」
仕事の効率性を上げる支援だけではない。サラリーマンが何か新しいことをやりたいと考えて一歩踏み出すにはネットでの発信が不可欠になってきている。そこで、現在作成中なのがウェブマーケティングを教える動画チャンネルだ。どうやってネットでファンを増やすか、アイデアを発信するか。長内さん自身が日々エクセルで動画の視聴データを分析し、視聴者が途中で離脱しないように検証を繰り返してきた経験を生かす。
まずはコンテンツを充実させて企業研修や動画の広告枠で収入を得る。次の段階としてはビジネスマンの活躍の場を増やすためのプロダクションを作り、何らかのビジネススキルを持つ個人をビジネス系ユーチューバーとして育成・支援する計画も温める。
米ユーチューブのスーザン・ウォジスキ最高経営責任者(CEO)はユーチューブについて「巨大な現代の動画版図書館」と表現している。それを引用し、長内さんはこう言う。「僕は本を見やすいように丁寧にラベリングする図書館のおじさんです。後世に残るクリエーター組織をつくりたい。質の高い『本』をたくさん生み出し、それを将来、自分の子供が見てくれたらうれしいです」
退職したのは7月に誕生した長女の影響も大きい。「社会の役に立つと言っておきながら、身近な家族を幸せにできないのはどうなんだろうと思った」。妻の妊娠が分かってから自分の働き方を見つめ直した。そして「自分がなし遂げたいことは親孝行や子育てをしながら、人の役に立つ仕事をすること」という結論に至った。ユースフルの拠点は青森県の実家に構える。
「ユーチューバーがいいのは、いつでもどこでも働けるということです」。事業が軌道に乗れば、「1年のうち青森に3カ月、米国シアトルに3カ月、残りは他の都市で過ごすという生活もしたいですね」。事業も働き方も、新しい境地を開こうとしている。
(安田亜紀代)
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