少し真面目な話をしようかと思う。
いわゆる『発達障害者』だ。
私は九州の片田舎で生まれた。
両親は、まぁ普通に愛情を持った『いい親』だったと思う。
思う、という表現になってしまう理由は、私が両親(特に母)のことが嫌いだからだ。
田舎ということもあり、私はこの発達障害からくるコミュニケーション力の欠如でさんざんな目に遭ったし、色々な人を散々な目に遭わせた。
友達はいなかった。
最初は良いと言っていたのに、クラスの権力者や先生がダメだと言った瞬間に手のひら返しをするクラスメイトたち。
最終的に、意見を変えなければ私1人が悪者になるようだった。
誰がどう言うかで物事の善悪を判断する人の考えが理解できなかったのだ。
例えば。
私は絵を描くのが好きで、クラスメイトを題材にした漫画を描いていた。
クラス内でも特に私を咎める人はいなかった。むしろ、見せてと言って来た人が複数いたほどだ。
その1つが題材となったクラスメイトを傷つけてしまい先生に叱られた。彼女にはそれについて謝罪した上で、そのページを破って捨てた。
しかし、途端に自分のことを描かれて笑っていた者や、描いてとせがんで来た者まで次々と「実は傷ついていました。謝ってください」と言ってきた。
例えば。
クラスに浮いてる女の子がいた。
私は彼女を好きではなかったのだが、クラスメイトも同じらしく、彼女はどんどん孤立を深めていって、学校に来なくなった。
彼女が登校をやめた翌日に、率先して彼女をはぶいていたはずのクラスの女子グループが、彼女への寄せ書きを提案した。
内容は謝罪ではなく、「一緒に遊ぼう」というものだった。
納得がいかなかったが、寄せ書きを送った翌日に彼女が学校に来ると、先生は女子グループを褒めそやした。クラスメイトは彼女の机を囲った。
私は彼女が好きではないし話しかけられることもなかったのでなにもしなかった。
次の日には、私が一人で彼女をいじめたことになっていた。
私は悪いことをした。
漫画であるクラスメイトを傷つけたし、いじめに加担した。
私は私がこうすべきだと子どもなりに考えたことに従った結果、誰かを喜ばせも傷つけもしていたのだ。
そして、その結果に関しては素直に反省点だと思ったし、次からはどうしようかと考えていた。
でも、自分の思ういい悪いが存在しないように見えるクラスメイトたちと仲良くしたいとはあまり思わなかった。
昨日まで面白がっていたことを今日は断罪する。意味がわからないし信用できなかったのだ。
ただ、みんなと合わせないと目立つし浮く。
そのうち、クラスから私は孤立していった。
母はその事態を重く見たようで、毎日のように泣きながら私がおかしいということを訴え続けた。
そして、クラスの女子グループに入れない私に「協調性を持ちなさい」と呪文のように言い聞かせた。
正直に言おう。
つらかった。
繰り返すが、私はクラスの友達と仲良くすることに意義を感じていなかった。
私にはそれよりたくさんやりたいことがあったし、インターネットをつなげばこの世界には色々な考え方の人がいることがわかった。
合う人と合わない人がいるんだと思っていた。
嫌っていたはずのクラスメイトを翌日には暖かく迎え入れる人たちとは考えが合わなかった。
合わないならいいや、と思っていた。
母はそういう私に、
「親はいつか死ぬ。そうしたら今のあなたを誰も大切にしない。そうならないために協調性を持ちなさい。」と涙ながらに言って聞かせた。
母は私がした悪いことより、
クラスメイトと同じことを行わないことで孤立を深めている状況について心配し、叱っているように感じた。
この姿勢は私が中学生になって、表立って悪いことをしなくなった後も続いた。
そして、アスペルガー症候群の疑いがあると、私をいろんな病院に連れて行った。
田舎なので、2つ違いの妹は『私のせいで』レッテルを貼られてたくさん嫌な思いをしたらしい。
それについて母に、あなたがおかしいから優しい妹にまで迷惑がかかるのよと言われた。
レッテル貼る方が悪くね?と言ったら引っ叩かれた。
母はいつも、私を『普通』にしようとしていた。
私は配慮の必要な子で、それは誰かに迷惑をかけることだからよくないと考えているらしかった。
母は親の愛を持って、私の考え方のズレを正そうと試みた。
私を、当時いた中学校とかのコミュニティに順応させようとしていた。
親は子どもを愛しているからこんなにも厳しいことを言うのだ、と。
他人はあなたがおかしいと思っても放っておくのだと。
私ははじめ、してはならないことは存在する(人を故意に傷つけることや、殺人など)が、それに関する倫理観や考え方まで他人と同じである必要はないと考えていた。
ASDの特徴の1つとして共感能力の欠如があるが、それにより他人を傷つけたりひどいことを言ってはいけないけど、だからと言って心から他人に共感できるように努力する必要もない、と考えていたのだ。
共感能力の欠如やなんやは、私の『特徴』でしかない、と。
でも母は違った。
共感能力の欠如を恥じない私に困惑し、それらの『欠点』を恥じるように教育を施した。
おかしいと言われ続け、外に出れば常に歩き方や立ち姿までも変だと狂ったように言われ続けた。服のセンスもオタクっぽいといわれ、アニメの絵を練習すれば性的なものに拒絶反応を示された。
私は配慮の必要な障害者なんだ、おかしいんだという自罰的な感情になっていった。
自罰的な感情は自虐と認知の歪みを生み、他人に嫌われていると思い込み、嫌われないように八方美人になり、ピエロになった。
そして、嘘で塗りたくった顔面で言い訳と自衛の台詞を並べ立て、自分で自分を追い込んだ。
高校や大学で私を理解し尊重してくれる友人に出会い、母に反抗し家を出て一人暮らしを始めたあとも、『私は障害者』という、この気持ちは揺らがなかった。
Yに出会ったのは一人暮らしを始めて2年目とかそのあたりだった。
Yはアホだった。
アホなのであらゆることが顔に出る。
アホなので、私が悩んでることに対して
「え?それめっちゃどうでもいいですね!」とケラケラ笑いながら言ってのけた。
ちなみにこの時Yは3つ下のサークルの後輩にあたる。アホは怖いもの知らずだ。
YもASD的な特徴を持っていて、他人のことを理解したり共感したりは私以上に苦手だ。
むしろ、勝手に人の気持ちを邪推したり察してもらうことを前提にしたコミュニケーションは相手を愚弄している、とすら思っている。
だから遠慮がない。
相手になにかして欲しい時、「実は俺いまちょっと○○なんだけど……」みたいな前置きを、状況説明に必要な時以外はしない。
率直に話す。
Yと出会ってはじめて、私は『配慮が必要で迷惑な障害者』から『私という人間』、『誰かの友達』そして『Yの彼女』になれた。
私には今、真っ当に語り合える大切な友人と、理解してくれて支えてくれる恋人がいる。
そして、社会集団のなかで、できることをやって一生懸命楽しく生きている。
もうすぐ私の23歳の誕生日だ。
かつて誕生日とは、唯一叱られたり、障害者だと説教を受けずにいられる日だった。
Yはバカなので、
「特に何というわけではないんだけど、最近ほしいものとかあったりするの?」という探りにもなんにもなってないことを1日1回聞くようになった。
ぼかすと多分Yは困惑してしまうので「名刺入れ」と超素直に答えた。
Yの誕生日は1月だ。
成人式と重なるので、今からどうしようかとわくわくしている。