相対主義の青識亜論さんにお聞きしたいのですが、表現物を暴力だ性的消費だとぶっ叩いて自粛に追い込もうとする表現を暴力だと叩くのは暴力ではないんでしょうか。
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どちらの側も、それが暴力か否かは、法的根拠や法的手続きに則っているかどうかで区別すれば良いんですよ。 非倫理的であっても法に抵触していない表現を、数の力で自主規制に追い込むのは暴力であるし、その暴力を暴力だと指摘し、対抗言論で批判するだけなら暴力では無い。 https://twitter.com/PanMixi0/status/1034063720664584192?s=19 …
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じゃあ自粛を求めること自体は別に何の法律違反でもないので山本さんの基準では別に暴力ではないってことでファイナルアンサーですね。
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自粛を求めること自体は自由ですが、自粛を求める言説に正当性がなければぶっ叩かれますよというだけの話です。表現者は自らの責任と労力において表現し、それを享受する人は需要と必要性があるからそうしているのであって、外部からの自粛要請は当然、相応の正当性がどこかになければなりません。
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それって「正当性がなければ間違っている」という自明な話であって、表現物への批判とそれに起因して自粛がなされることを十把一絡げに暴力だと認定した青識亜論さんの当初のツイートからは話がかなりズレてますよね。
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いいえ。発端は京都での会です。批判それ自体は、仮にそれが誰かの何らかの行動や思想にとって抑圧的なものであるとしても、正当性があれば承認されますし、応答の責務さえ発生しうるものです。しかし、無根拠な批判をその抑圧の機能もわきまえずにぶつけること、これは暴力ではないんですか、と。
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なるほどなるほど。しかし、主張の正当性は言論同士の戦いで初めて決定されるべきというのが、青識さんの立場ではなかったでしょうか? 「私はこの主張に正当性がないと思うから暴力」というような一方的な決定は、リベラルの立場からは唾棄すべき主張なのではないですか?
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そうですよ。ですから、言論の戦いとして、なんら正当性なく他者の表現を抑圧する言論は不当だと言っているのです。なにか矛盾していますか。私は自由を否定しているわけではないのですよ。
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反論できなくなったら暴力呼ばわりは草 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
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? 「批判」しているのですが。
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批判じゃなく反論しろと言う話ですが
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批判されてる側が批判している側を批判してどうするの
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批判されてる側が「その批判は不当だ
」と認識したら、批判されてる側が批判している側を批判しても表現の自由の範疇じゃないの? 天皇陛下やローマ法王に批判されてるんじゃないんですよ(笑) RT
@HOPEL1GHT:批判されてる側が批判している側を批判してどうするの -
誰も表現の自由の話しはしてねぇんだよな 批判が不当だと思うなら不当であるという論拠を挙げるだけでいいわけだが
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批判とは意見に対して良い所と悪い所を見極め根拠に基づいて指摘や共感を得てもらうこと。だと私は思っていて、そこに根拠もなければ相手を思いやる気持ちもなかったらそれはただの罵声や暴言になってしまうとも思います。それは紛れも無い暴力で、批判とそれの区別ができていない方が多い気がします。
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補足で、意見を発信した側にも批判に対して受け止める責任もあると思います。間違えないでほしいのは暴言などではなく根拠を受け入れるということです。個人的意見なので捉え方は人それぞれですが。
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「批判」という『表現』が暴力的に機能しうる というとこまでは理解できたんですね ならばその「表現物自体」も同じで、暴力的に機能しうるんですよ 貴方は頑なにそこだけは無視してきましたがね とぼけ続けるのもたいがいにして下さいhttps://twitter.com/dokuninjin_blue/status/1034054377097420801?s=19 …
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そのウスラトンカチの言ってることって、「車でどんだけスピード出そうが誰を傷つけるわけでもないし自由に決まってるだろ、取り締まりのほうが暴力だわ」ってのと同じですなwhttps://twitter.com/kabutoyama_taro/status/1034116655624798208 …
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表現物自体が「暴力的」であることを、青識さんは否定してないでしょう。 表現物よりも批判の方が「暴力的」だとも言ってない。 「暴力的な批判」は規制されるべきとも言ってない。 問題とされてるのは、異見の「暴力性」を問題視しつつ、自身の意見(批判)の「暴力性」を等閑視するダブスタでしょう。
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批判する側は「批判も表現の自由だ」という理路なので、そこに暴力性の透明化が見られるとするならば、それは「表現の自由」論がそうした暴力性の透明化を内在するからではないか。
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「表現の自由」論が暴力性の透明化を内在化するからではなく、単に誤ってしまう(視野が狭い)人がいるというだけだと思います。表現規制に比較的反対する側にも、比較的賛成する側にも、いるでしょう。 青識さんが、表現規制反対に当たり、暴力性の透明化に加担するなら、それが批判対象になるかと。
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「批判それ自体が暴力的に機能することをあなたたちはわからないのか」という表明がまず、どこを見ているのかという。批判は絶対だ、批判は無垢だという立場の人がいますか。そうした藁人形をこしらえることが、これまでずっとインターネット表現の自由論の側からなされてきた。
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例えば従軍慰安婦問題で韓国軍の話ばかり持ち出すようなもの。従軍慰安婦問題を追及する側はそちらを無視しているというかのように。実際にはそちらもイシューとして取り上げられているわけで。https://twitter.com/sin_itami/status/1034257890834436096?s=19 …
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ピ氏的な愚行権の打ち出し方と、借氏的な商論理におけるメンヘラ芸の取り扱い、ガチガチに対立すると思うんですが、どう止揚するのか。議論をあまり詳しく追ってないので間違ってるかもしれませんが、借氏側はメンヘラ.jpを私的コミュニティとして、複氏側は公にやや開かれたものとして捉えていそう。
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