糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月27日の「今日のダーリン」

・「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということばが、
 いつごろからあったのかは知らないですが、
 ま、おそらくは仏教伝来以降でしょうね。

 ほんとうは、「坊主は坊主、袈裟は袈裟」です。
 そんなことは、だれだって知っているのです。
 でも、「憎い坊主」がいたときには、
 その坊主がまとっている袈裟までが憎らしくなります。
 その話し方やら歩き方まで腹立たしく、むかむかします。

 先日も書いたことですが、これも、
 「人間という生きものがやっちまいがちな性質」です。
 太古の昔でも、猛獣に襲われたら困るから
 猛獣の息づかいを察知していたことでしょう。
 あるいは、猛獣のボディの柄を見たらさっと逃げていた。
 この場合の憎い坊主を猛獣とするならば、
 その袈裟は猛獣の柄みたいなものですもんね。
 大昔の先祖さまたちがあわてて身構えるように、
 いまを生きてる人間だって「ヤバイ!」となるわけです。

 豹柄の服を着たおばちゃんがやってきても、
 ぼくらは、「猛獣だ危険だ!」と逃げ出したりしません。
 「豹柄だからといっておばちゃんは豹じゃない」ことを、
 ちゃんとわかっているからです。
 つまり、ちゃんとわかっていればいいんだと思うんです。
 「坊主は坊主、袈裟は袈裟」ということは、
 「豹柄のおばちゃんは、豹じゃない」ということ。
 袈裟だとか、豹柄だとか、なにかのサインに対して
 急いで反応してしまうのは、どちらかというと、
 弱さの表れなのかもしれません。
 もっと強ければ、憎んだり逃げたりしなくても、
 おちついて対処できるでしょうから。

 そう考えていくと、「敵」ということばなんかは、
 「憎い坊主」に近いものがありますね。 
 敵だから、その敵のなにもかもが否定したい、
 なんなら一切の自由を奪ってしまってもかまわない。
 そういう考えって、いつの時代にも必ずあります。
 これも「人間という生きものがやっちまいがちな性質」で
 互いに「調整して薄くしていく」しかないんでしょうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やっぱり、多少なりとも「まし」なことを繰り返す、だな。