2018年01月02日

エマからエミリーと改名したフルベッキの娘

最終更新 2018/07/15 ver.1.08


今回のテーマは、フルベッキの次女、エマ Emma Verbeck / Emily Terry(1963-1943)なる女性。米国オランダ改革派教会宣教師フルベッキことヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830.01.23 - 1898.03.10)を父に日本で生まれ、米国聖公会の宣教師となった女性です。
彼女の改名と、正確な没年について明らかにします。
また、彼女の末弟となる七男バーナード Bernard Verbeck (1881-1932) の名前の変化と逝去日についても最後で触れます。
◆   ◆   ◆


フルベッキの次女とは、どんな人だったのだろうか?
その話の前に、まずは先に生まれた長女のお話から。

長女エマ・ジャポニカ
ヴァーベック夫妻にとってのはじめての子どもは、1860年1月26日(木)に長崎で誕生し、エマ・ジャポニカ Emma Japonica と名づけられた。
この女児は、日本が鎖国を解いてからはじめて生まれたクリスチャンとされている(潜伏キリシタンをカウントしなければ)。1月29日の主日に、ヴァーベックはこの子に洗礼を授けた(改革派教会では幼児洗礼を行う)。だが赤子は2月2日(木)に短い生涯を終えてしまう。エマはいま長崎国際墓地に眠っている。[ Find a Grave : Emma Japonica Verbeck ]
*グリフィスのヴァーベック伝には、2月9日逝去と書かれていので、この子の逝去日を9日とする資料も多い。その場合の受洗日は2月5日となる。本稿で逝去日を2月2日とするのは、墓石に刻印された日付けに従った結果である。
なお、夫妻の結婚日は1859年4月18日なので、長女エマはハネムーンベビーということになる。

エマを失っておよそ1年後、ヴァーベック夫妻には長男ウィリアム Charles Henry William が1861年1月18日に誕生。

次女もエマ・ジャポニカ
1863年2月4日には再び女児が誕生した。誕生日の日付けは村瀬寿代論文掲載のヴァーベック書簡に基づくが、『クララの明治日記』(以下の引用は講談社版)1877年1月31日の記述に従えば、2月7日生まれとなる。
この次女に、ヴァーベック夫妻は長女と同じ名前をつけた。Emma Japonica Verbeck である。

エマは米国聖公会の C. M. ウィリアムズ司祭から洗礼を受け、長じて同じウィリアムズ師から堅信礼を受けた(cf. The Spirit of Missions, Vol.63, August 1898, p.374)。そんなエマがその後、両親の属する米国オランダ改革派教会ではなく、米国聖公会の宣教師となったのもうなずける。
なお、1865年11月生まれ(1900年国勢調査)の次男がチャニング・ムーア(Channing Moore)という名前なのは、もちろんチャニング・ムーア・ウィリアムズ師に由来する。[*1 国勢調査記録]

フルベッキ群像写真

有名なフルベッキ群像写真

ここにフルベッキと写る子どもを「娘のエマ」とする説がある
(ただしヤギタニは、2歳年上の長男ウィリアムでないかと思います)
verbeck group photo detail.jpg

*ほかに、犬塚孝明、石黒敬章『明治の若き群像――森有礼旧蔵アルバム』平凡社 2006 にもエマを含むフルベッキ一家の写真あり。
*ネットでは「NPO法人 高峰譲吉博士研究会 寄稿(9)外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本 (その1)/石田三雄」ページ内に同じ写真あり(こちら


クララ日記に登場するエマ
エマはクララ・ホイットニー(Clara A. N. Whitney 1859-1936)の友人だった。エマより4歳年長だったクララの日記から、いくつか紹介しよう。
クララの明治日記 1878年2月22日(エマ15歳)
ヴァーベック氏一家が帰国されると聞いたので、授業が終わってから母と私は挨拶に行った。〔…〕私は先にエマのところへ行った。エマは大はしゃぎでおしゃべりをした。カリフォルニアのどこかに住む予定だそうで、一ヵ月以内に発つということだ。エマはとても面白い人なので行ってしまうのは寂しい。
――講談社版(上) p.245


しかし出発は遅れ、4月末になってもエマはクララの日記に登場する。
1878年の新聞を調べてみたところ、7月31日に San Francisco に向け出港したアメリカの蒸気船 China 号の船客リストに Dr. and Mrs. Verbeck and five children, C. W. Verbeck [sic], Miss Verbeck の名前があった [The Japan Weekly Mail, Aug 3, 1878, p.767]。このうち最後の Miss Verbeck がエマのことである。7月17日に精養軒で送別会が開かれ、岩倉具視ら政府高官も顔を出したという。[*2]

クララの明治日記 1878年9月24日(エマ15歳)
ジェニーとガシーはエマから手紙を貰った。エマはサンフランシスコが気に入っているが、女の人たちの太い腰や大きい胸に驚いている。〔…〕ヴァーベック夫人は日本が恋しくて、エマと自分自身のために日本から沢山の絹の服を注文された。新品の洋服の関税はとても高いのに、馬鹿なことだ。エマは私にも手紙をくれると約束したのに書いてくれない。
――講談社版(下) p.26


上記の日記からおよそ1年後の1879年9月13日、 Professor G. F. Verbeck はひとり San Francisco からGaelic 号で帰国した。[The Japan Mail, Sept 20, 1879, p.516]
残った家族は翌1880年の国勢調査に記録が残っている。ヴァーベック夫人と8人の子どもたち(William, Emma, Channing, Gustavus, Guide, Arthur, Nellie, Bernard)は Oakland, Alameda, California に住み、17歳の Emma は学生(at School)となっている。
*サインインすると原本画像が表示されます→ United States Census, 1880 (no.4) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LBD

この国勢調査からほどなく、エマを含む家族の一部は日本に戻った。1880年7月23日、横浜に到着した City of Tokio 号の旅客リストに Mrs. Verbeck and three children の記載がある [Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.968] 。この船旅の途中、7月13日に生後6カ月の弟 Bernard が亡くなった。亡きがらは水葬にはされず、横浜外人墓地に葬られた。


The American steamer City of Tokio reports :-Sailed from San Francisco July 3rd, at 12.30 p.m. Died, July 13th, at 2 p.m., Bernard, infant son of Maria Verbeck, aged six months, body embalmed.
[Japan Weekly Mail, July 24, 1880, p.969]


米国聖公会・女性宣教師エマ
その後の彼女は Miss Emma Verbeck として記録に出てくる。日本聖公会の教役者名簿・外人女子の部でも「Miss Verbeck, Emma T.」とある(イニシャルの「T」が謎だが)。1883年6月、20歳で米国聖公会の宣教師(築地の立教学校の英語教師)となった彼女の、宣教報告誌におけるもっとも古い言及はおそらくこれ。

Miss Emma Verbeck, the daughter of Dr. Verbeck, one of the oldest and most influential Missionaries in Japan, joined the Mission in the spring. She teaches English in St. Paul's School and singing in both boarding-schools.

- Annual Report of the Missionary Bishop of Yedo, For the year ending June 30th, 1883. / The Spirit of Missions, 1883, Vol. 48, p.585


クララにとっては、エマはまぶしい存在だっただろう。高名な父をもち、アメリカで教育を受け(大学には行っていないが)、キリスト教布教のために日本で働き出したのだから。
クララの明治日記 1883年12月11日(エマ20歳)
午後エマ・ヴァーベックが訪ねてくれて、くつろいでおしゃべりをした。とてもよい人で、私は彼女を尊敬している。
――講談社版(下) pp.236-37


1888年の Directory には American Episcopal Mission / Miss Emma Verbeck, 1, Irefunecho, Tsukiji(築地入船町一)とある。宣教師リストのトップは彼女に洗礼・堅信を授けたウィリアムズ師 Rev. C.M. Williams。1890、1894年の住所も築地居留地だった。

ここで、エマについての紹介文を3点引用しておく。記事により、細部が異なる。

★〔…〕フルベッキの盟友、聖公会のウィリアムズ、C.M.から受洗。彼女は長じて米国オークランドの高校を卒業、82(明治15)年に帰来。83年春から立教女学校で英語と音楽を教え、わずか3カ月で生徒らは長足の進歩を示し、ミス・ヴァーベックとして敬慕されたという。折から着任の林歌子に日本語を学び、教会の礼拝に奉仕。97年休暇を得て帰米したが、翌春、父の死により日本に引き返した。99年テリー、H.T.(Terry, Henry Taylor 1847-1936) と結婚、宣教師を辞した。〔…〕
――日本キリスト教歴史大事典 教文館 1988 / p.151〔筆者:海老沢有道〕


★次女のエマはその後カリフォルニア州オークランドで高校を卒業して,聖公会宣教師となり,立教女学院で音楽を教えた。1885年秋以来父と一緒に東京で住み,父の最期を看取った。彼女は1898年一度アメリカに戻るが,翌年東京大学お雇い教師のテリー教授と結婚して,長く日本に住む。長寿を全うし,1949年に亡くなった。
――村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」~桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003(CiNii


★夭折した長女と同じ名前を付けられた次女のエマは、22歳になった1885 (明治18)年4月に東京女子師範学校付属高等女学校専修科に英語、音楽の教員として採用されたことが、太政官作成の公文書「官吏雑件」(国立公文書館所蔵)に記録として残されている。おそらくアメリカで教育を受けてから日本の両親のもとに帰ってきて、社会人としての第一歩を踏み出したと推定される。その後、エマは父の死の翌年(1899)、お雇い外国人教師・東京帝国大学法科大学教授のヘンリー・テリー(Henry T. Terry,1847~1936)と結婚している。
――石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版


エマの結婚と改名
1899年7月、東京帝国大学で英米法を教えていたテリー教授が、故ヴァーベックの娘と結婚した。彼女の名は、エミリー Emily という。彼女はいったい誰だろうか?

1900年6月、W. E.グリフィスがヴァーベック伝を書いていたときに生存していた息子たちは William, Channing, Gustavus, Arthur, Bernard、娘は Emma と Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ) の2人のみ。Emily という名前の娘はいない。グリフィスは、Emma がテリー教授 Professor Terry (Henry Taylor Terry 1847-1936)と結婚したと記している。
(William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900, p.297

新聞に掲載された結婚告知はこちら。築地の聖公会・聖三一教会(築地三一会堂)で挙式している。
名前が Emma ではなく、Emily となっていることに注目されたい。
なお、新郎51歳、新婦36歳の高齢カップル。ふたりの間に子どもは生まれなかった。

1899 Emma Verbeck Terry marriage.jpg

Marriage.
On Wednesday, July 12, at Trinity Church, Tsukiji, Tokyo, Miss Emily Verbeck, daughter of the late Rev. Guido F. Verbeck, to Henry T. Terry, Esq., of the Imperial University.
[Japan Weekly Mail, July 15, 1899, p.1]


ここでちょこっと、御雇外国人=テリー教授の略歴。
1847年9月19日、コネティカット州 Hartford 生まれ。1869年エール大卒、1872年コネティカット州弁護士。1876年来日、翌年まで東京開成学校(東京帝大)で教える。1877から東京帝国大学法科大学教師。1884年帰国してニューヨークで弁護士を開業。1894年(明治27年)再来日し、1912年の引退まで再び東京帝大で英米法を教授。身長5フィート9インチ、目の色はブラウン。
余談だが、彼は1878年10月に東京でフリーメイソン(フリーメイスン)会員となり「日本ロッジ Nippon Lodge No. 1344」に所属した。再来日後は、1896年から会費を納めていたことが記録に残っている。
*こちらは1908年に描かれた彼の肖像画 [ National Portrait Gallery : Henry Taylor Terry ]

エール大学の卒業生物故録によると1899年7月12日、東京で「Emily, daughter of Rev. Guido F. Verbeck」と結婚とある。また、1909年の U.S., Consular Registration Certificates(在留届け)を見ても、「He is married to Emily Verbeck, who was born in Nagasaki, Japan」とある。彼の Passport の記録でも妻の名は一貫して Emily であり、Emma 表記となっているものはひとつもない。

◆   ◆   ◆


以上のことから、Emma エマ は宣教師辞任および結婚に合わせて、Emily エミリーと名乗るようになったとわたしは判断している。
どうして名前を変えたのか、その理由を示すものは(まだ)発見できていない。従って想像するしかないが、名前の出どころは、父の長姉エマ・マリア・エミリー Emma Maria Emily / Emma Marie Emilie ではないだろうか。1820年7月3日オランダ・ユトレヒト州の生まれ、1851年8月19日に31歳で亡くなっている(死亡記録)。ヴァーベック一家の子どもには父ギドーのきょうだいにちなんだ命名が多く、そもそも長女エマの名はこの伯母にちなんでつけられたという説がある。

わたしの見た範囲では、次女エマが自分で Japonica というミドルネームを使った形跡はない。名簿や書類において「J.」というイニシャルが書かれた例も発見できなかった。以下はまったくの推測だが、彼女は、亡き姉と同じ名前を気に入っていなかったのではなかろうか。名づけてくれた父が亡くなったこと、そして結婚を機に、伯母の名前 Emma Maria Emily から別の名前を選んだのだろう。Maria ではなく3番目の Emily なのは、母の名がマリアだったからだ。

米国のエマ/エミリー
テリー教授は上述の通り1912年に東京帝大を引退した。国勢調査で夫妻の記録があるのは、New York State Census の1915年から。
合衆国の1920年版によると、Emily Terry エミリー・テリーはニューヨークのマンハッタンで72歳の夫と二人暮らし。56歳(実際には57歳)
United States Census, 1920 (no.64)  https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MJB9-JQ8
1930年も同様である。67歳。
United States Census, 1930 (no.75) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:X42D-LZ2

夫のテリーが世を去ったのは1936年12月26日のことだった。気管支肺炎により89歳で死去。当時としてはかなりの長命である。コネチカット州 Hartford の Cedar Hill Cemetery に埋葬された。
Bulletin of Yale University, New Haven 1 December 1937, Obituary Record of Graduates of Yale University, Deceased during the Year 1936-1937
http://mssa.library.yale.edu/obituary_record/1925_1952/1936-37.pdf
墓石の画像 [ Find a Grave : Henry Taylor Terry ]


現在、父ギドー・ヴァーベックの墓は東京の青山霊園にある。その墓の手前に母マリア Maria Manion Verbeck の名が記されたプレートが置かれている。1911年4月2日、カリフォルニアの Alameda で亡くなったマリアの遺灰を日本に持って行ったのは、娘の Mrs Terry(エミリー)だったようだ。[San Francisco Call, 27 May 1911, p.14]

エマことエミリー Emily Verbeck Terry が亡くなったのは、第二次大戦中の1943年7月30日。場所は New York。
没年を1949年としている日本語文献があるが、夫と同じ墓地にある墓石がその逝去日を示している。

1943_Emily V Terry gravestone.JPG
墓石の画像→ [ Find a Grave : Emily Verbeck Terry ]


また、 Index to New York City Deaths 1862-1948 に、Emily Terry という80歳の女性が30 Jul 1943 に Bronx, New York, USA で亡くなったという記録がある。
*こちらは FamilySearch 版(原本画像がなく転写ミスが目立つが、明らかに Verbeck 夫妻の娘とわかる。ただし日本での出生日は「03 Jan 1863」になっている)→ New York, New York City Municipal Deaths, 1795-1949 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:2WPB-5R2 : 20 March 2015

すなわち、従来1949年没とされていたフルベッキの次女ミス・エマ・ヴァーベック(ミセス・エマ・テリー)は、1943年没のミセス・エミリー・テリーと同一人物であるとわたしは結論づける。

◆   ◆   ◆


末弟バーナードも名前変更
ここからは、ヴァーベック一家末子のお話。
上述したように、1880年にバーナード Bernard という名の赤子が船の上で亡くなった。その翌年、ヴァーベック夫妻最後の子どもが日本で誕生。同じく Bernard と命名される。

1900年のアメリカ国勢調査によると、未亡人となったヴァーベック夫人 Maria はカリフォルニアの Alameda で、この末子とふたりで暮らしていた。調査票にある記載によると、彼女は58歳、1841年1月アイルランド生まれ(墓石の生年は1840年。おそらくは41ではなく1840が正しい。ただし1月生まれであることがこれで判明した。なお、Philadelphia におけるギドーとの結婚時に彼女は19歳と3カ月だったことになる)。Bernard は19歳で、1881年8月、日本生まれ。ともに、移民年は1884年とある。マリアが出産した子どもは合計12名で、そのうち存命中の子は7名と記録されている。
1910年の国勢調査でも、Maria はやはり Bernard と二人暮らし。彼女は65歳となっており(女性の年齢さば読みの一例)、息子は25歳(これもさば読み。母40歳のときの子という計算なのであろう)。マリアの生んだ子どもの数は今度は11名、存命中7名となっている。
United States Census, 1900 (no.56) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:M9PM-Y9W
United States Census, 1910 (no.94) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MV2M-1X1

*米国改革派教会提供の詳細な Verbeck 経歴、結婚の日付け含む:A Manual of the Reformed Church in America pp.269-73
*出身神学校提供、簡潔な Verbeck 経歴:General Biographical Catalogue of Auburn Theological Seminary pp.129-30

さて、この末子バーナードの消息について。石田論文では、彼の没年は不明となっている。どうして不明なのか。その理由は、姉エマと同じく、彼もまた改名――別の名前を使用していたからだということがわかった。

わたしが最初に発見したのは、彼の第一次大戦兵役登録カードだった(もっとも、1918年9月という終戦間近のもので、実際には兵役には服していない。cf.1920年の国勢調査)
United States World War I Draft Registration Cards, 1917-1918 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:KZVP-FWK
ここでは名前が James Bernard Verbeck とあり、1881年8月8日生まれの37歳。6フィート1 1/2 インチ(約187センチ)のやせ形、目はブルー、髪はブラウン。Alameda 在住の独身で、近親者は兄の Channing M. Verbeck(上述のヴァーベック次男)。サインは James B. Verbeck となっている。この書き方だと、Bernard の名が消えてしまうので、消息がつかめなくなるのも当然だった。
*なお、Japan Weekly Mail 及び The Japan Gazette の1881年8月分をチェックしてみたが、あいにく彼の出生告知はなかった。

次に、カリフォルニア、Oakland の Directory にある記載を追ってみると、

1899 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Chas, Miss Eleanor, Guido F Mrs と同じ)*Jas とは James の略
1900 Verbeck Jas B, r 1818 Jay(Mrs Marieと同じ)
1903 Verbeck Bernard, draftsman r 1818 Jay(Mariaと同じ)
1904 記載なし
1906 記載なし
1908 Verbeck James B, b 1818 Joy [sic](Maria wid Guido F と同じ)
1909 記載なし
1910 Verbeck Jas B, b 1818 Jay(Maria wid Guido F と同じ)
1911 記載なし
1913 Verbeck Jas B lab r 1818 Jay 職業 Laborer
1927 Verbeck J B h2209 Telegraph av
1930 Verbeck Jas B auto mech r2209 Telegraph av 職業 Auto Mechanic

というわけで、1899年、つまり父逝去の翌年からすでに James の名を使い出していたことがわかる。国勢調査での最後の Bernard 表示は、上述のように1910年。
1920年の国勢調査の名前は James B. Verbeck、39歳、日本生まれの独身で、下宿屋に暮らしている。職業はアート系のセールスマン。1884に移民、帰化済み。
最後のものとなる1930年の国勢調査でも独身、職業は今度はオートバイのメカニック。出生地は日本の築地。話語は「英語と日本語」とある。移民年は1885年(1年ずれている)。
United States Census, 1920 (no.2) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH37-FTW
United States Census, 1930 (no.39) https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:XCXQ-BVW


*カリフォルニア州の選挙人登録名簿(State of California, United States. Great Register of Voters.)では1918年に「Verbeck, James B, 429 13th st, clerk.... Declines」という記載が見つかっている。

上記の資料で見る限り、「職を転々としていた」状態だったようだ。
亡くなったのは1932年12月9日、51歳。
*California Death Index, 1905-1939 https://familysearch.org/ark:/61903/1:1:QKS9-VV6F

すなわち、Bernard Verbeck として生まれた人物 = James Bernard Verbeck / James B. Verbeck 1881.08.08 - 1932.12.09 であることが明らかになった。結婚の記録は見つかっていないので、生涯独身と思われる。母 Maria と同じく死亡地は Alameda だった。

◆   ◆   ◆


*モルモンの FamilySearch で検索・閲覧できる国勢調査などの記録は、以前はリンクをクリックするだけで閲覧できたのですが、2017年後半から、サインインしていないと表示されないようになりました。いまのところ無料で利用できますので、原本画像を見たい人はサインインしてみてください。(2018/01/02)


注釈
[*1] Channing Moore Verbeck の記録
United States Census, 1880 (no.5) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M6G2-LB6
United States Census, 1900 (no.71) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:M31X-4CM
United States Census, 1910 (no.64) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MKL7-HGX
United States Census, 1920 (no.16) https://www.familysearch.org/ark:/61903/1:1:MH7P-21C
墓石 1928年10月25日没。[ Find a Grave : Channing C Verbeck ]

[*2] やはり米国聖公会宣教師となった妹 Eleanor(通称 Nellie、1874年9月23日生まれ)のパスポート申請記録によると、彼女は1878年春に日本を離れ、その年から1906年まで Alameda, California (San Franciscoのすぐ東)に居住したとある。次男 Channing の帰国も1878年となっている(1910国勢調査)。


【参考文献】
FamilySearch https://www.familysearch.org/
Ancestry.com https://www.ancestry.com/
Find A Grave https://www.findagrave.com/
An Historical Sketch of the Japan Mission of the Protestant Episcopal Church in the U.S.A., 1891, p.25
William Elliot Griffis, Verbeck of Japan, a Citizen of No Country : a Life Story of Foundation Work Inaugurated by Guido Fridolin Verbeck, Fleming H. Revell Co., 1900
『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988
村瀬寿代「フルベッキの背景―― オランダ,アメリカの調査を中心に――」~桃山学院大学キリスト教論集第39号 2003
石田三雄「明治の群像・断片[その9] ――外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」2012(PDF版
Lane R. Earns, A MINER IN THE DEEP AND DARK PLACES:'GUIDO VERBECK IN NAGASAKI, 1859-1869
Bios - Nagasaki Foreign Settlement : Higashiyamate Biographies / GUIDO F. VERBECK


ver1.0 2018/01/02

ブックマークボタン
posted by やぎたに at 18:09 | Comment(0) | 宣教師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。