いま、ネットでの言説がピンキリにある時代だからこそ、人はますます「文藝春秋」だとか「新潮社」だとかの看板を信じる。少なくとも私はそう。
それは目利きに頼る気持ちと同じ。あそこが載せるのなら品質保証されてるだろうという。でも今回は伝統ある出版社が売らんがためにああいう言説を載せてしまった。
朝日批判をやるなら、朝日の記者が参りましたというようなきちんとしたものを書いてほしい。そのほうがよっぽど「生産的」ではないか。朝日叩きであれば何でもオーケーというのは野次馬としてもつまらない。
そして話は麻生氏に戻る。
特定の新聞を叩けば喜ぶという強固な支持層がある限り、事実ではなくとも叩いてみせるという手法は今後も続くだろう。しかもこれを大臣、権力者がやるのである。
私は冒頭で『ああ、またかと思った。呆れるがでもこれをスルーしてはマズい』と書いたが、これは「また麻生太郎か」とか「麻生節」などと言って常態化させてはダメなのである。
フェイクでも刺激があることを言ったほうが効果的という戦法を認めてはダメだ。
ビーンボール(故意死球・危険球)を投げても「観客」(自分の支持者)が大喜びなら有効と思わせてしまうのはダメだ。
わざわざビーンボールを投げる側はその効果を重々承知しているからこそ、「それはダメですよ」といちいち声をあげていかなくてはいけないのだ。
しかし、私が気になるのは麻生氏のあの放言を報じたのは産経ニュースだけだったということ。他紙は報道していないのである。当の朝日を含めて。いや、実は産経も紙面では報じていない。
つまり報道するに値しない出来事だと各紙は判断したのかもしれない。でも、それは間違いである。
なぜならSNSでは麻生氏の発言(『昭和のサマータイム廃止「朝日新聞の責任」、麻生氏「記者が飲みに行きにくくなるからだろ?」』)は結構な話題になっていたからだ。
私は思う。麻生氏に対し、なぜ朝日は反論しないのか?
そもそも麻生放言の場面をいくつか映像でみると周囲の記者は反論していない。沈黙している。調子づいた麻生氏がまた追い込みをかけるという風景をよく見る。それをネットニュースとして一部媒体が流して多くの人は眉をひそめるが、麻生氏の「メディア批判」に喜ぶ層も少なくない。毎度この繰り返しなのである。