こういう状況をみて、私は『芸人式 新聞の読み方』(2017年・幻冬舎)で次のように書いた。いわゆる「W吉田」について書いた項である。
W吉田とは、朝日の慰安婦報道での「吉田清治証言」を虚偽と認めた件、そして「吉田調書」スクープでの「福島第一の原発所員、命令違反し撤退」という内容が誤報であったという件(2014年)だ。
朝日が大バッシングにあい、廃刊せよという罵声も飛んでいた頃。その極論をみて思った。
《もしも本当に『朝日』が廃刊してしまったら、生き甲斐をなくして嘆き悲しむのは、当のアンチの側ではないかと私は思うのだ。アンチ朝日の論陣は、その「アンチ芸」で飯を食っている側面もあるということを認めたほうがいい。想像してほしい。あなたたちの“大好きな”朝日新聞がいなくなったときの喪失感を。それはまるで、ボケがいなくなったときのツッコミの寂しさだと思う。》
これは今も同じと実感する。
先日、自民党の杉田水脈議員が月刊誌『新潮45』に「『LGBT』支援の度が過ぎる」という寄稿をした。このあと杉田氏への批判が多く集まったが、まず知っておきたいのは『新潮45』の特集は「日本を不幸にする朝日新聞」というものだった。
そのなかの一つに杉田議員の「言説」があったのだ。あの号は朝日批判特集が売りで今もなお朝日叩きは有効という証拠であった。
しかし。
慰安婦報道で謝罪という大きな事件では朝日叩きには十分な需要があった。しかし毎度毎度、毎月ごとに朝日叩きをするとなるとネタ切れになる。そうなると「ネタをつくる、仕掛けていく」しかない。
するとどうなるか? 今回のように天下の新潮社に載るようなレベルではない言説が載ることになる。
(原本を読まないとわからないから)私も実際に『新潮45』を購入したのでステマという点では成功だったが、それって新潮社がやることですか?
言っておくと、朝日新聞叩きはやっていい。それは伝統芸だからだ。
でもそのメンツに杉田議員みたいなのを入れるとその伝統芸は終わってしまいますよ、と言いたいのだ。
それこそプロレスの名勝負のように「朝日」対「新潮」、「朝日」対「文春」という互いのプライドを持った技の応酬は見ごたえがある。実際に今まで幾多の名勝負があった。
でもそこに杉田氏のようなものを載せてしまうとそれは美しい言論プロレスではなくなってしまう。