しかし千差万別であっても、互いに共有しあうことはできます。
どこで感動するかというお互いの違いを認識しあうことで、お互いの違いを認識しあいながら、それでいてお互いの感動を高め合うことができます。
早い話、ひとつの感動する映画を観て、
「どこが良かった?」
「あたし、ここが良かった」
「そうか。俺はあそこが良かった」
「そうよね〜。感動だったよね〜」
要するに修身教育は、感動する心を養うためのものであったのです。
様々な物語を通じて、クラスのみんなで、ときに涙し、ときに笑う。
いわば前頭葉を鍛えるのが修身であり、その感動を、同じクラスの仲間達とともに共有し合うのが修身の授業であったのです。
そもそも戦後は、学制がいまと違います。
いまは、小学校の次は中学、次は高校という選択肢しかありませんが、終戦までは小学校の次は中学以外に、高等小学校、高等女学校、実業学校、実業補習学校など、実は選択の幅があったし、優秀な子なら飛び級もありました。
教育制度が画一的でなく、選択肢がたいへんに多かったのです。
なぜそのような学制になるかには理由があります。
教育の根本となる方針が「系統教育」だったのです。
これは、ものごとの成り立ちや起こったことについて、
「なぜそのようになるのか、
それによってどのような結果が起き、
将来にどのような影響をもたらしたのか」
を生徒たちに教え、考えさせるものでした。
たとえば鎌倉幕府の成立を例にあげるなら、なぜ何のために鎌倉幕府を頼朝が築いたのかを系統だてて学ぶことにより、そこからでは具体的に幕府を鎌倉に置くならば、何が必要なのか、みんなで考えていくといった教育が施されていたのです。
すると面白いことが起きます。
生徒ひとりひとりの個性が、雪崩のように出てくるのです。
たとえば、
幕府ができるなら鎌倉の町をどのように築いたら良いか。
区画整理をどのように設計したら良いか。
建物はどのような点に注意して築いたら良いか。
幕府の組織はどのような体制にすべきなのか。
人夫や職人さん達の手当をどうするか。
どのように財政を切り盛りするか。
帳簿はどのように取っていくのか。
彼らの食事はどのような献立にしたら良いのか。
鎌倉という新しい町における文化はどのように形成したら良いのか。
人々が幸せに生きるために、どのような法制度をつくるべきか
等々、生徒それぞれ個性や傾向性によって、物事の見方や捉えかた、方向性が異なるのです。
そしてその傾向性によって、建築に興味のある子なら、工専へ、
まかないに興味のある子なら調理の専門校へ、
人々の統率に興味のある子なら師範学校へ、
作業員としての技量を磨きたい子なら実業専門校へ、
組織や体制論をもっと深く学びたいなら、普通科へ
武士(もものふ)として国の護りに就きたいのなら陸海軍の学校へと、それぞれの進路が定まっていったのです。
これに対し現代教育は「問題解決教育」と呼ばれる教育です。
どのように違うかというと、鎌倉幕府がなぜできたのか。できた鎌倉幕府をどのような構造にしていくのかといったことは全部無視して、明らかな事実である、
「鎌倉幕府の成立は何年か」
「答え、1192年」
という点だけをひたすら教え込むという内容になっています。
この場合、「出来の良い子」というのは、あたかもクイズのような問題に、すばやく正確に答えることができる子ということになります。
その子の個性も価値観も関係ありません。
要するに集団就職して工場で働くことに適合した生徒を、すばやくたくさん作れば良いのであって、そのために学制がGHQによって変えられたわけです。
終戦時、日本は占領統治されましたが、普通なら敗戦国は巨額の戦費賠償を払わなければならないのに、日本は国土が焼け野原で、嘘みたいになんにもない。
食べ物すらない。
ただ幸いなことに日本人は勤勉で働き者だから、とにかく働かせて国力を付けさせて、戦費賠償とは別な名目で奉仕させる。
そのために必要な教育方法が採られたわけです。
したがって国民が自ら考える力を養成する、つまりそれぞれの判断の元になる価値観を育成するための教育は、戦後、全部修正されました。
もっともわかりやすい例が、修身教育とともにGHQが禁止した「地理」教育です。
「そんなことはない。地理はいまでも科目の中にあるよ?」という方は、何もわかっていない。
江戸時代から終戦まで、我が国における地理教育は、いわば教育の根本にあたる科目でした。
何を教えるかというと、たとえば小学校の低学年であれば、その学校の学区内にある町の名前の由来を教えます。
私は廣澤小学校でしたが、廣澤という名前は、なぜ廣澤なのか。
駅前にある連雀町は、どうして連雀という名前なのか。
高町はどうして高町という名前なのか等々です。
そして中学年になると、それが日本全体に広がります。
なぜ京都は京という名で、東京は東京という名前なのか。
秋田はどうして秋田という名前なのか。
さらに高学年になるとそれが世界に広がり、どうしてニューヨークはニューヨークと言う名前なのか。
ロンドンはどうしてロンドンで、パリはどうしてパリという名前なのか。
つまり地理は、単にイギリスの首都は何という名前ですかと問うのが「問題解決教育」ですが、「系統教育」では、どうしてそうなるのかが問題になるのです。
人は知れば知るほど、その対象のことを好きになります。
ですから地元のことを知れば地元が好きになるし、地名を通じて世界中のことを知れば世界が好きになる。
そして好きになる心は、愛する心を育むのです。
ところが「問題解決教育」では、ただのクイズ王が生まれるだけです。
知識そのものが目的であって、そこに感じる心が育成されません。
たまにテレビに、クイズ王の物知りさんが出てきて、次々と人名や地名を当てますが、なるほどよく知っているなあとは思いますが、彼らはそういう知識を持つことに計り知れないよろこびを持つ人達なのでしょうけれど、国民のみんなが、彼らと同じクイズ王の座を競ったとしても、国はひとつもよくはなりません。
餅は餅屋で、互いに自分の得意な分野で、大好きな人のために、大好きなクニのために、精一杯力を尽くしていくところに、人の幸せがあり、人生の充実があり、生きる意味があるのではないかと思います。
そしてその生きる意味をどういう形で達成するかは、まさに人それぞれなのです。
反論として、「系統教育」は、「単に系統的に配列された学習内容を順番に学習していくもの」であると述べる人たちもいます。
これに対し戦後の「問題解決教育」は、「生徒自らが学習問題や仮説を設定して自分の手足や頭を使ってその仮説が正しいかどうかを検証していく学習方法」です、などと説明されたりします。
しかし、肝心の「設問の系統の理解がない」のです。
それでは生徒たちは仮説の構築ができません。
いくら綺麗事を言っても、問題解決教育は、試問の答えが○か☓かという二者択一型の教育でしかなく、このことは、テストを採点する側からしてみれば、きわめて採点が容易というメリットがある反面、生徒の側からすれば、すべての教科が、ただの暗記科目になってしまうわけです。
そしてこうした「問題解決教育」をベースに学制を組み立てれば、出題者にはあらかじめわかっている答えを述べることだけが教育の目的となり、それなら制約のある学校よりも、そのことだけに特化した塾の方が、目的に徹している分、生徒たちにとっても楽しい教育の場になるわけです。
一方、戦前戦中の子供たちは、小学校に通うのに、片道6キロも7キロもある学校への道のりを、毎日歩いて通学し、田植えなどで親から学校を休めと言われると、泣いて学校に行けないこと、その分勉強が遅れてしまうことを悔しがりました。
そりゃそうです。
学校教育が系統教育であり、どうしてそうなるのか、なぜそうなるのか、その結果何が起きたのか、自分がその当事者ならどのように決断し行動するか、その場合どのような結果になるのか。
そうしたことを系統だてて学ぶことは、夢中になるほど楽しいものです。
しかも生徒たちは、互いの感動をクラスメイトとシェアし合うことができる。
そしてその感動する心そのものを育成することで、生徒それぞれが持つであろう価値観の源を提供したのが修身教育であったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com日本の志を育む学問の力 ~昌平坂学問所~
- 関連記事
-
スポンサーサイト