糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月26日の「今日のダーリン」

・子どものころから、ちょっとずつ、
 家庭ででも学校ででもいいので、
 「決める側」になるという勉強をできたらいいよね。
 いろんな行動をとるときに、
 関係者だれもの意見が一致するはずもない。
 そういうときに、みんなが一致するまで
 延々と時間を費やしているわけにはいかないから、
 「こうしたらどうだろう?」という提案が必要になる。

 そこで、その提案に「おれはいやだ」という者もいる。
 「気乗りはしないが、それでもいい」という者も、
 「おれは賛成だ」という者もいるだろうが、
 「こうしたらどうだろう?」と提案するものには、
 ある程度のリスクがともなう。
 「おれは反対なのに、あいつのせいで…」という不満は、
 提案者にぶつけられるからだ。
 最悪のケースでは、憶測や邪推をもとにして、
 「あの提案は、あいつの得になるばかりなんだ」
 というような疑いをかけられることだってあるだろう。
  
 関わるすべての人の利害が一致することもなさそうだし、
 時間をかけたら、あるいは話し合いを深めたらうまくいく
 ということも、なかなかあるとはかぎらない。
 他人からみてのちょっとした意見のちがいが、
 当人にとっては絶対に譲れないことだったりもする。
 しかし、いつまでも結論を出せないままじゃ困る。
 永遠に話し合うというわけにはいかないのだ。
 なんらかのことをする必要があるから、提案があるのだ。
 めんどくさいことこの上ないが、決めなきゃならない。

 というようなことを考えるときに、
 メンバーがみんな「決める側」を経験していたとしたら、
 まるごとの賛成や反対はないということを、
 それぞれに理解しながら、やりとりできると思うんだ。
 「少しゆずりあう」だとか「別の選択肢を探る」だとか、
 多少でも前に進む方向が見えやすくなるんじゃないかな。
 最初の「提案」がいい方に引っくり返るのなら、
 それはみんなにいいことなんだと思うしね。
 学校の授業で、ディベートとかよりも、
 「決める側」になる練習をしたらいいのになぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんでも反対みたいなやり方は、無敵で不幸だものなぁ。