今回のトレバーの発言もそのようなアメリカでなされたということだ。
つまり、フランスにはフランスの、アメリカにはアメリカのそれぞれの事情があり、抱えてきた経緯がある。だから、最初に述べたように、どちらが正しい、というものではない。
移民国として、いわば先天的に「多民族からなる連邦」を「建国の父祖」たちが選択し、いわば運命づけてしまったアメリカ――それゆえ奴隷制、黒人差別という、憲法に記された内容に対する言行不一致に対する抵抗もまた、運命のように何度も再燃する――と、逆にかつての宗主国として旧フランス領からの移民を受け入れ、後天的に「多民族による国家」を作ろうとしているフランスとの違いといえる。
それだけでなく、フランスは、前回触れたマクロンの方針のように、EUがすでに存在する世界を前にして、フランス革命の意義をひとりフランス一国のものとしてではなく、西洋世界全般における「普遍」的な偉業の一つとして位置づけ、その普遍性に則って、多民族が共存する社会を生み出し、ヨーロッパを先導しようとしている。
もちろん、その動き自体は、必ずしもフランス人の総意というわけでもないのは、マクロンの政敵ル・ペンの存在から明らかだが。ともあれ、その普遍性を求める文脈から、そのような価値観を共有するものならば一律に「フランス人」である、という言い方を採用している。
だから、ここで教訓と言えるものがあるとすれば、2018年現在の世界では、私たちは、異なる時間や歴史を「今」生きている人たちとやり取りしなければならなくなったということなのだろう。
グローバル化されダイバーシファイされた世界では、人びとは互いに、異なる複数の「今」を生きる人たちの声に耳を傾けなければならなくなる。
それぞれが暗黙のうちに背負ってしまった、履歴、来歴、事情、経緯。それらが撚り合わさって作られた文脈ないしは背景を意識しないわけにはいかない。それらは一人の個人の中で一つの事実として統合されているのだから。
こうした時間に基づく差異は、何もアフリカのことだけではなく、80年代末から90年代初頭にかけて、大きな歴史的分断を経験した東欧・ロシア圏の人びともそうであるはずだ(たとえば、『セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと』)。
ウェブで繋がった結果、何もかもが即座に入手可能な時代になったかもしれないが、しかし、送り手と受け手がそれぞれ背景に抱えているものまで、一緒に届けてくれるわけではない。
あくまでも、背景情報が捨象された、一つのフレームの中に収まった情報なりコンテントに過ぎないというわけだ。
今回のトレバーvsアローのちょっとした論争を、そのように受け止めるのは、少しばかり優等生すぎる態度かもしれない。
けれども、相手には相手なりの事情があるということは、すべてのコミュニケーションの出発点だ。
そのような単純な事実を思い出させてくれた点で思いの外、今回の事件は教訓的な出来事であったことは間違いない。