ご訪問ありがとうございます。予定が多い週で更新がなかなかできませんでした。
この前は「とにかく息長氏って重要です!」ということを、みなさまに知っていただきたくて、「継体天皇=息長氏出自説」のお話をしました。
今回はちょっと地味に^^;
息長氏というのはどういう氏族だったのかを具体的にみていこうと思います。
まず氏族の性格や朝廷との関係を見るのに、大変便利なものがありまして、
それが「姓」(かばね)なのです。
たとえば蘇我入鹿なら蘇我「臣」(おみ)入鹿、中臣鎌足なら中臣「連」(むらじ)鎌足となります。こういう姓は近世でも続いていて、豊臣秀吉は豊臣「朝臣」(あそん)秀吉でした。
こういう制度は4世紀ごろから出てきたようで、「県主」(あがたぬし)や「別」(わけ)とといった古い姓が出現した後、
5世紀の後半になって急速に体系化したようで、同時に大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)といった政治の中枢を担う役職も成立します。
この時の大臣・大連は、それぞれ臣姓・連姓の豪族の代表いう事になるのですが
では天皇を示していた「大王」は「大君」という君姓の豪族の代表であると考えることもできるとは言えないでしょうか?
5世紀の伝承を見ると、前の入門編でも示したように、葛城氏をバックに持つ履中天皇系と、オホホド王家をバックに持つ允恭天皇系、さらには和珥氏の情勢に囲まれた存在である仁賢天皇と、さまざまな王統が混在しており
そういった大王になることのできる家柄が複数存在したように見えるからです。
さて、
息長氏はというと、その姓は「君」(きみ)と言います。
この「君」姓の氏族は
コトバンクから日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を引用すると
君
きみ
古代の姓(かばね)の一つ。公とも記す。君は、多く開化(かいか)天皇の皇裔(こうえい)に与えられたが、その出自には問題がある。君姓氏族は330余を数え、畿内(きない)とその周辺に多いが、大部分は中小豪族である。一方、関東の上毛野君(かみつけぬのきみ)や北九州の筑紫君(つくしのきみ)のように大和(やまと)朝廷に反抗的な大豪族もあった。蝦夷(えみし)、隼人(はやと)の首長(しゅちょう)にも君が与えられた。八色(やくさ)の姓(かばね)制定(684)に際し、一部は朝臣(あそん)を賜姓され、とくに継体(けいたい)天皇以後の皇裔は最高位の真人(まひと)の姓(かばね)を賜ったが、政治的地位は高くなかった。[前之園亮一]
『太田亮著『全訂日本上代社会組織の研究』(1955・邦光書房) ▽阿部武彦著『氏姓』(1966・至文堂)
とあり、朝廷からの独立性の強い辺境の大豪族や、開化天皇の子孫つまり「日子坐王系譜」の関連氏族、そして「八色の姓」制定時の「真人」(まひと)賜姓13氏族の姓であると言えます。
まったく社会の構造も異なるのは承知の上で、西欧的に言えば、わたしは「君」について、「公爵」(prince)的なイメージを持ちます。
つまりいわゆる諸侯に属さない「王」に近い「大公」的な存在と
フランスのオルレアン公のように皇位継承権を持つ王家の分家、
そしてここにはないのですが、鴨君、三輪君といった大和朝廷以前の王朝にかかわるような古い家柄の氏族です。
息長氏は「日本書紀」の天武天皇13年10月、
守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(ゐなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公・酒人公(さかひとのきみ)・山道公(やまじのきみ)、十三氏に、姓を賜ひて真人と曰ふ
というように、皇親政治(豪族を中心とせず、天皇家中心に政治を行う事)をすすめる天武天皇によって、「八色の姓」という新しい氏姓制度の最高位の「真人」を賜りましたが、まさに王家の分家としての「君」姓豪族であったと言えます。
この時の「真人」賜姓の氏族を見ますと
守山公・路公・・・敏達天皇皇子難波皇子後裔
高橋公・・・系譜未詳(他に見えず)
三國公・・・継体天皇皇子椀子(まろこ)皇子後裔
當麻公・・・用明天皇皇子麻呂子皇子後裔
茨城公・・・系譜未詳(他に見えず)
丹比公・猪名公・・・宣化天皇皇子上殖葉皇子後裔
坂田公・羽田公・息長公・山道公・・・応神天皇皇子ワカヌケフタマタ王(「記」はオホホド王)後裔
酒人公・・・継体天皇皇子菟(うさぎ)皇子後裔(「記」はオホホド王後裔)
というように、坂田、羽田、息長、山道氏以外はほぼ継体以降の新しい皇族の末裔ですが、彼らだけは「古事記」によるとすべてオホホド王の末裔で、継体天皇の親類縁者という事になるのです。
それとここに面白いことがあります。欽明23年3月と敏達14年3月に、ともに任那の問題の対応にあたる坂田耳子王は、「欽明紀」では坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつきみ)となっています。
つまり坂田君耳子郎子(さかたのきみみみこのいらつこ)であったと考えられるのです。
これを適用すると坂田大跨王は坂田君大胯であった可能性があり、
息長真手王は息長君真手であったとも考えられるのです。
奈良時代のことですが、淳仁天皇(大炊王)が即位したとき、本来「王」であった彼の兄弟が「親王宣下」を受けて「親王」に格上げされています。
同じように、継体天皇が天皇になった時、彼の親族は天皇家の分家として、「王」を名乗って大和入りしたのではないかと思います。
ですからこのグループの「真人」賜姓氏族は、皇族の後裔として「君」姓を賜ったというより、途中から継体天皇の親族として「君」姓を賜ったような不安定さがあるように思えるのです。
それではその後の息長氏の歩みを見てみましょう。
まず特筆するべき人物は息長山田公でしょう。
「日本書記」の記述では、舒明天皇の殯宮(もがりのみや)で「日嗣」(ひつぎ)を誅(しの)びしています。
「日嗣」というのは歴代の天皇の即位について述べることです。
息子の天武天皇の際は當麻真人が行っていますから、皇親氏族の役目だったかもしれませんし、
舒明天皇の和風諡号は「オキナガタラシヒヒロヌカ」(息長帯足日廣額)ですから、養育者や後見人のような存在だったかもしれません。
とりあえずこの人物が息長氏としては目立っている人物です。
この後は官人として「日本書紀」や奈良時代の「続日本紀」に
息長真人老・・・(持統6)遣新羅使
息長真人子老(息長真人老の子)・・・(大宝2) 従五位下
息長真人老・・・(和銅5) 従四位上兵部卿左京大夫
息長真人臣足・・・(和銅7) 従五位下
息長真人麻呂・・・(天平元) 従五位上
息長真人名代・・・(天平5 )従五位下
息長丹生真人国嶋・・・(天平宝字6) 従五位下
息長真人広庭・・・(天平神護元)外従五位下
息長真人道足・・・(天平神護2) 従五位下
息長真人清継・・・(天平神護2)外従五位下
息長丹生真人大国・・・(神護景雲3) 正五位下
等の今でいう知事さんや官庁の次官や局長級の貴族として存在しますが、平安時代になると急速に衰えて名が見えなくなってしまいます。
また天武朝の「真人」賜姓後も、息長真人老(おゆ)が遣新羅使に任ぜられるまでは名前が見えません。
壬申の乱で活躍するでなし、いったい彼らはなぜ「古事記」「日本書紀」にあのような足跡を残せたのでしょう?
それは彼らが本当の息長氏だったのではなく、もともとの「息長氏」が出た後に「息長」の地の経営を任された一族だったからではないでしょうか?
彼らは「息長氏」が大和に進出して継体天皇となり、近江を離れるにあたり新たに「息長氏」として息長の経営と名跡を受け継ぎ、継体の親族として「王」を名乗り、また皇親氏族として「君」姓を賜りました。
おそらく滋賀県米原市と長浜市の最南部に居住した坂田君、滋賀県八日市市の酒人君などもそういった継体天皇の一族と考えられ、やはり「王」を名乗ったと考えられます。それが「坂田耳子王」の表記の揺らぎになっているのです。
前回いきなりぶち上げたようになった「継体天皇=息長氏出自説」は、このようなことからも検証できます。つまりオホホド王家が「原息長氏」であり、継体天皇はそこの出身だった。と考えなければ、
◇息長氏が「古事記」「日本書紀」に与えた影響の強さ
◇大和朝廷での息長氏の影の薄さ
◇坂田耳子王と坂田耳子郎君の呼称の揺らぎ
は説明できないのです。
こうして今まで「息長氏」「息長氏」と言いながら、正体不明だった氏族の系譜が明らかになりました。
それは北近畿を中心にした日子坐王の信仰圏に、出雲や越前、美濃・尾張などが結びついた広域の豪族連合体の旗手だったのです。
そして、その祖先は以前検証したように、もともとホムツワケ王であったはずです。
また、そこには近江の古い氏族も吸収されていました。小碓命を奉じていた安氏や犬上氏もそこに加わっていたと想像するのは難しいことではないでしょう。
ヤマトタケルの最も古い形は、湖東の小碓命と大和の幼童神ヤマトヲグナの出会いから生まれました。
それは実にこの継体朝だった、という事がここから推察できます。
また、「一妻系譜」でヤマトタケルと継体朝が特殊な関係にあり、それに息長氏がかなり関与しているという理由も説明できます。
そしてフタジノイリビメの同母兄イハツクワケ王は、越前三尾君の祖であり、継体の母の家ですから、ヤマトタケルは原型こそ湖東に生まれながら、この北近畿の豪族連合体によって変貌を遂げたと考えられます。そしてこの地域は出雲、但馬、近江など新羅系氏族が多く分布し、製鉄などの先端技術がもたらされていたのも、ヤマトタケルと製鉄や、白鳥伝承における渡来人の影につながるということもできるのです。
さあ、次はいよいよ継体天皇以前のオホホド王家=息長氏にスポットを当てていきます。
そこから見える5世紀の王権の姿は、教科書とはまた異なったものになると思います。引き続きよろしくお願いいたします。
この前は「とにかく息長氏って重要です!」ということを、みなさまに知っていただきたくて、「継体天皇=息長氏出自説」のお話をしました。
今回はちょっと地味に^^;
息長氏というのはどういう氏族だったのかを具体的にみていこうと思います。
まず氏族の性格や朝廷との関係を見るのに、大変便利なものがありまして、
それが「姓」(かばね)なのです。
たとえば蘇我入鹿なら蘇我「臣」(おみ)入鹿、中臣鎌足なら中臣「連」(むらじ)鎌足となります。こういう姓は近世でも続いていて、豊臣秀吉は豊臣「朝臣」(あそん)秀吉でした。
こういう制度は4世紀ごろから出てきたようで、「県主」(あがたぬし)や「別」(わけ)とといった古い姓が出現した後、
5世紀の後半になって急速に体系化したようで、同時に大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)といった政治の中枢を担う役職も成立します。
この時の大臣・大連は、それぞれ臣姓・連姓の豪族の代表いう事になるのですが
では天皇を示していた「大王」は「大君」という君姓の豪族の代表であると考えることもできるとは言えないでしょうか?
5世紀の伝承を見ると、前の入門編でも示したように、葛城氏をバックに持つ履中天皇系と、オホホド王家をバックに持つ允恭天皇系、さらには和珥氏の情勢に囲まれた存在である仁賢天皇と、さまざまな王統が混在しており
そういった大王になることのできる家柄が複数存在したように見えるからです。
さて、
息長氏はというと、その姓は「君」(きみ)と言います。
この「君」姓の氏族は
コトバンクから日本大百科全書(ニッポニカ)の解説を引用すると
君
きみ
古代の姓(かばね)の一つ。公とも記す。君は、多く開化(かいか)天皇の皇裔(こうえい)に与えられたが、その出自には問題がある。君姓氏族は330余を数え、畿内(きない)とその周辺に多いが、大部分は中小豪族である。一方、関東の上毛野君(かみつけぬのきみ)や北九州の筑紫君(つくしのきみ)のように大和(やまと)朝廷に反抗的な大豪族もあった。蝦夷(えみし)、隼人(はやと)の首長(しゅちょう)にも君が与えられた。八色(やくさ)の姓(かばね)制定(684)に際し、一部は朝臣(あそん)を賜姓され、とくに継体(けいたい)天皇以後の皇裔は最高位の真人(まひと)の姓(かばね)を賜ったが、政治的地位は高くなかった。[前之園亮一]
『太田亮著『全訂日本上代社会組織の研究』(1955・邦光書房) ▽阿部武彦著『氏姓』(1966・至文堂)
とあり、朝廷からの独立性の強い辺境の大豪族や、開化天皇の子孫つまり「日子坐王系譜」の関連氏族、そして「八色の姓」制定時の「真人」(まひと)賜姓13氏族の姓であると言えます。
まったく社会の構造も異なるのは承知の上で、西欧的に言えば、わたしは「君」について、「公爵」(prince)的なイメージを持ちます。
つまりいわゆる諸侯に属さない「王」に近い「大公」的な存在と
フランスのオルレアン公のように皇位継承権を持つ王家の分家、
そしてここにはないのですが、鴨君、三輪君といった大和朝廷以前の王朝にかかわるような古い家柄の氏族です。
息長氏は「日本書紀」の天武天皇13年10月、
守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(ゐなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公・酒人公(さかひとのきみ)・山道公(やまじのきみ)、十三氏に、姓を賜ひて真人と曰ふ
というように、皇親政治(豪族を中心とせず、天皇家中心に政治を行う事)をすすめる天武天皇によって、「八色の姓」という新しい氏姓制度の最高位の「真人」を賜りましたが、まさに王家の分家としての「君」姓豪族であったと言えます。
この時の「真人」賜姓の氏族を見ますと
守山公・路公・・・敏達天皇皇子難波皇子後裔
高橋公・・・系譜未詳(他に見えず)
三國公・・・継体天皇皇子椀子(まろこ)皇子後裔
當麻公・・・用明天皇皇子麻呂子皇子後裔
茨城公・・・系譜未詳(他に見えず)
丹比公・猪名公・・・宣化天皇皇子上殖葉皇子後裔
坂田公・羽田公・息長公・山道公・・・応神天皇皇子ワカヌケフタマタ王(「記」はオホホド王)後裔
酒人公・・・継体天皇皇子菟(うさぎ)皇子後裔(「記」はオホホド王後裔)
というように、坂田、羽田、息長、山道氏以外はほぼ継体以降の新しい皇族の末裔ですが、彼らだけは「古事記」によるとすべてオホホド王の末裔で、継体天皇の親類縁者という事になるのです。
それとここに面白いことがあります。欽明23年3月と敏達14年3月に、ともに任那の問題の対応にあたる坂田耳子王は、「欽明紀」では坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつきみ)となっています。
つまり坂田君耳子郎子(さかたのきみみみこのいらつこ)であったと考えられるのです。
これを適用すると坂田大跨王は坂田君大胯であった可能性があり、
息長真手王は息長君真手であったとも考えられるのです。
奈良時代のことですが、淳仁天皇(大炊王)が即位したとき、本来「王」であった彼の兄弟が「親王宣下」を受けて「親王」に格上げされています。
同じように、継体天皇が天皇になった時、彼の親族は天皇家の分家として、「王」を名乗って大和入りしたのではないかと思います。
ですからこのグループの「真人」賜姓氏族は、皇族の後裔として「君」姓を賜ったというより、途中から継体天皇の親族として「君」姓を賜ったような不安定さがあるように思えるのです。
それではその後の息長氏の歩みを見てみましょう。
まず特筆するべき人物は息長山田公でしょう。
「日本書記」の記述では、舒明天皇の殯宮(もがりのみや)で「日嗣」(ひつぎ)を誅(しの)びしています。
「日嗣」というのは歴代の天皇の即位について述べることです。
息子の天武天皇の際は當麻真人が行っていますから、皇親氏族の役目だったかもしれませんし、
舒明天皇の和風諡号は「オキナガタラシヒヒロヌカ」(息長帯足日廣額)ですから、養育者や後見人のような存在だったかもしれません。
とりあえずこの人物が息長氏としては目立っている人物です。
この後は官人として「日本書紀」や奈良時代の「続日本紀」に
息長真人老・・・(持統6)遣新羅使
息長真人子老(息長真人老の子)・・・(大宝2) 従五位下
息長真人老・・・(和銅5) 従四位上兵部卿左京大夫
息長真人臣足・・・(和銅7) 従五位下
息長真人麻呂・・・(天平元) 従五位上
息長真人名代・・・(天平5 )従五位下
息長丹生真人国嶋・・・(天平宝字6) 従五位下
息長真人広庭・・・(天平神護元)外従五位下
息長真人道足・・・(天平神護2) 従五位下
息長真人清継・・・(天平神護2)外従五位下
息長丹生真人大国・・・(神護景雲3) 正五位下
等の今でいう知事さんや官庁の次官や局長級の貴族として存在しますが、平安時代になると急速に衰えて名が見えなくなってしまいます。
また天武朝の「真人」賜姓後も、息長真人老(おゆ)が遣新羅使に任ぜられるまでは名前が見えません。
壬申の乱で活躍するでなし、いったい彼らはなぜ「古事記」「日本書紀」にあのような足跡を残せたのでしょう?
それは彼らが本当の息長氏だったのではなく、もともとの「息長氏」が出た後に「息長」の地の経営を任された一族だったからではないでしょうか?
彼らは「息長氏」が大和に進出して継体天皇となり、近江を離れるにあたり新たに「息長氏」として息長の経営と名跡を受け継ぎ、継体の親族として「王」を名乗り、また皇親氏族として「君」姓を賜りました。
おそらく滋賀県米原市と長浜市の最南部に居住した坂田君、滋賀県八日市市の酒人君などもそういった継体天皇の一族と考えられ、やはり「王」を名乗ったと考えられます。それが「坂田耳子王」の表記の揺らぎになっているのです。
前回いきなりぶち上げたようになった「継体天皇=息長氏出自説」は、このようなことからも検証できます。つまりオホホド王家が「原息長氏」であり、継体天皇はそこの出身だった。と考えなければ、
◇息長氏が「古事記」「日本書紀」に与えた影響の強さ
◇大和朝廷での息長氏の影の薄さ
◇坂田耳子王と坂田耳子郎君の呼称の揺らぎ
は説明できないのです。
こうして今まで「息長氏」「息長氏」と言いながら、正体不明だった氏族の系譜が明らかになりました。
それは北近畿を中心にした日子坐王の信仰圏に、出雲や越前、美濃・尾張などが結びついた広域の豪族連合体の旗手だったのです。
そして、その祖先は以前検証したように、もともとホムツワケ王であったはずです。
また、そこには近江の古い氏族も吸収されていました。小碓命を奉じていた安氏や犬上氏もそこに加わっていたと想像するのは難しいことではないでしょう。
ヤマトタケルの最も古い形は、湖東の小碓命と大和の幼童神ヤマトヲグナの出会いから生まれました。
それは実にこの継体朝だった、という事がここから推察できます。
また、「一妻系譜」でヤマトタケルと継体朝が特殊な関係にあり、それに息長氏がかなり関与しているという理由も説明できます。
そしてフタジノイリビメの同母兄イハツクワケ王は、越前三尾君の祖であり、継体の母の家ですから、ヤマトタケルは原型こそ湖東に生まれながら、この北近畿の豪族連合体によって変貌を遂げたと考えられます。そしてこの地域は出雲、但馬、近江など新羅系氏族が多く分布し、製鉄などの先端技術がもたらされていたのも、ヤマトタケルと製鉄や、白鳥伝承における渡来人の影につながるということもできるのです。
さあ、次はいよいよ継体天皇以前のオホホド王家=息長氏にスポットを当てていきます。
そこから見える5世紀の王権の姿は、教科書とはまた異なったものになると思います。引き続きよろしくお願いいたします。