★謎の息長氏の伝承地を訪れる | 神旅 仏旅 むすび旅

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人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。


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息長氏(おきながうじ)

▶息長氏の系統から後に、応神天皇・継体天皇を出した。

▶近江水系を支配した「息長氏は、応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、継体天皇の祖父である意富富杼王を祖とす。」
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。

▶684年(天武天皇13)の八色の姓では、同族の三国公、坂田公、酒人公らとともに筆頭の真人(まひと)の姓を賜った。継体天皇の即位にあたっては、その背後にあって重きをなし、天皇家ともしばしば姻戚関係を結んだ。奈良・平安時代には坂田郡司を歴任。ほかに京都府南部の綴喜(つづき)郡あたりにも居住していた。その祖先伝承には、神功皇后伝説をはじめ、天皇家との関係を語る説話が多い。

▶息長一族は製鉄 鍛冶に関する部族
坂田郡では古代に遡る模様のフイゴの羽口や大鍛冶滓などが出土している。
山津照神社の東北15キロには伊吹山がある。
谷川健一氏は「伊吹山の神は鍛冶神であった」といい、金糞岳の西麓側には鍛冶屋などの製鉄遺跡が多く在る。
古代近江の最大の特色はである。

息長一族は、坂田郷で水陸交通の要衡を押さえ、近江北部の鉄により巨富を得て、忍坂大中姫などの皇妃をだし、継体天皇登場の基盤を造った。鉄生産が継体天皇の即位の背景として考えられ、丸山竜平氏は「ホト」は、「鍛冶王を象徴する通称のようである」という。

允恭皇后の忍坂大中姫の宮地の跡(現、桜井市忍坂)からは、六世紀頃のフイゴの羽口などが出土し、付近に鍛冶工房があったと予想されている。


息長水依比売


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▶「息長」の語が史料に最初に見えるのは息長水依比売で、第9代開化天皇の第三皇子彦坐王の妃であり、四道将軍の1人の丹波道主命の母。

▶天之御影命は天津彦根命の御子であり、鍛冶の神である天目一箇神と同一神とされ、日本第二の忌火の神とされる。

▶息長水依比売は、天御影命(天目一箇命)の後裔の近江国野洲郡の三上(御上)祝一族から出ている。
三上祝は、滋賀県野洲市の近江富士とも呼ばれる聖なる三上山をご神体とする「御上神社(みかみじんじゃ)」の宮司家であり、系譜は天孫族の鍛冶部族・額田部連や凡河内国造、山背国造などと同族であり、祖神を天目一箇命(天御影神ともいい天照大神の孫)で物部連とも同族である。湖北の伊香連が発生した事情もこれらの通婚に起因したという。

▶開化記の日子坐王関係系譜では、日子坐王と息長水依比売との間の子として水之穂真若王があげられ、近淡海之安直之祖と記載される。淡海国造は安国造ともいい、近江国野洲郡一帯を中心領域とした。
古代近江の鉄系集団としては,湖西の和邇(わに)氏,湖北の息長(おきなが)氏が知られていますが,この湖南地方をまとめていたのは,青銅文化の安(やす)氏であったとの記述もあります。近江国野洲郡の名から想起されるこの地の氏族は「安直」。三上山近くの大岩山山麓から,明治14年と昭和37年に計24基もの銅鐸が発見されました。そのうちの1つは国内最大(高さ134.7cm)です。また種類の異なる2種類の銅鐸(西日本に分布する近畿式銅鐸と東海地方に分布する三遠式銅鐸)が一緒に埋められていたことから、三上山を望むこの地に伊勢遺跡は、東西を結ぶ重要地点であったと考えられています。

ブログ☞近江の銅鐸祭祀

「大岩山古墳群」のうち、6世紀前半の湖東の「円山古墳」と「甲山古墳」では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくり抜いた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩をもちいた組合式石棺で、「甲山古墳」の被葬者は、近淡海安国造=安直氏が有力。また、「円山古墳」からは、百済の第25代武寧王陵から出土した獣帯鏡と同笵とみられ、近江、北九州、百済とのつながりが見えてくる。この近くに鎮座するのが「三上神社(みかみじんじゃ)」

継体天皇陵とする今城塚古墳(6世紀前半)には、三基の石棺が復元されており石の種類から、大阪と奈良にまたがる二上山の白石、兵庫県西部の竜山石、熊本県阿蘇の馬門で採れるピンク石である。
熊本県阿蘇の馬門ピンク石を供給した勢力は、宇土半島の肥(火)君一族と考えられており、継体~欽明朝ころの6世紀前半に栄えていた。




彦坐王(日子坐王)


『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子。

『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた第三皇子とする。

『古事記』では、伊勢之品遅部君・伊勢之佐那造・比売陀君・当麻勾君・佐佐君・日下部連・葛野之別・近淡海蚊野之別・若狹之耳別・三川之穂別・近淡海之安直・長幡部連・吉備品遅君・針間阿宗君ら諸氏族の祖であると記されている。

【彦坐王(日子坐王)の妃と子】
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伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)岐阜県岐阜市(旧美濃国各務郡)
開化天皇の第3皇子で崇神天皇の異母弟、神功皇后の高祖父、丹波道主命の父、五十瓊敷入彦命(伊奈波神社祭神)の祖父である。美濃を領地として、子の八瓜入日子(神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。伊波乃西神社で亡くなり、この地に埋葬されたという。

佐波加刀神社(滋賀県長浜市木之本町川合1277)
山代の荏名津比売(苅幡戸弁)を娶って、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王の三柱を生んだ。三神とも祀られている。



◉治田連
彦坐王命(開化天皇皇子)第4世にあたる治田連(はるたのむらじ)は、淡海国造。
治田連は、「新撰姓氏録」では、彦坐王(ひこいますのみこ)四世の後に近江国の浅井郡に土地を賜り、またその六世の後に治田連の姓を賜ったといわれています。
7世紀ごろに、琵琶湖を隔てた瀬田の両岸あたりの栗太郡治田郷(現在の草津市の矢橋・南笠から大路・青地・山寺一帯)に居住していたようです。
石坐神社の社伝によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連が
その四代前の租・彦坐王命を茶臼山に葬り、
その背後の御霊殿山を神体山(神奈備)として祀ったのが創祀という。





▶「息長」の語が史料に次ぎに見えるのは、日子坐王の曾孫として息長宿禰王、その娘が息長帯日売(神功皇后)。




息長帯日売(神功皇后)

【彦坐王(日子坐王)から神功皇后系】
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◉山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)神功皇后の曽祖父
王の名は地名に由来しており、『和名類聚抄』に「山城国綴喜郡綴喜、豆々木」(現在の京田辺市普賢寺付近)と見える。

◉迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)
迦邇米雷王は丹波之遠津臣の女・高材比売(たかきひめ)を妃とし、息長宿禰王(気長宿禰王)を儲けた。息長宿禰王は神功皇后の父である他、2人の王子は近淡海国造・吉備品治国造・但馬国造の祖と伝えられる。なお、迦邇米雷王は京都府京田辺市・朱智神社の主祭神で、子孫は朱智姓を名乗ったという。

▶京田辺は古くから栄えた地域で、卑弥呼の時代には高地性集落が生まれ、渡来人がもたらしたとされる、養蚕・鉄製造技術が活かされたところ。

▶普賢寺や地祇神社付近は、息長氏の居住地といわれ息長氏一族に関連深い地である。普賢寺はこの地方最古の寺といい山号を「息長山」という。式内社の「朱智神社」は、祭神を迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)とし、社家に息長氏(後に下司氏)があったと伝える。
迦邇米雷王の「カニメ」は、木津川を挟んだ対岸の相楽郡蟹幡郷の「蟹満寺」に通じ、蟹満寺の向かいには「綺原座健伊那太比賣(かにはらにいます たけいなだひめ)神社」が鎮座する。迦邇米雷王の父は、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)といい、山城国相楽郡と綴喜郡あたりに本拠地をおいた豪族だと見られる。

▶継体天皇 511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷すとあり、継体天皇との繋がりもある。






◉息長宿禰王(神功皇后の父王)
息長宿禰王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。また、明治15年(1882年)に米原市・山津照神社境内から発見された前方後円墳(山津照神社古墳)は息長宿禰王の墓という。




◉息長帯日売(神功皇后)



6世紀 応神・仁徳朝以来、漢・韓人の渡来が増す。
湖東の愛智・神崎・蒲生郡に編貫された韓人たちは愛智(依知)秦氏を中心に独自の墓制を展開する。

◉秦人系の依知秦氏 伽耶系氏族
近江国と秦氏は切り離すことができない程に緊密な関係であった。特に湖東においては、濃密であった。蒲生郡安土町石寺に所在する竜王山(常楽寺山)古墳群は、伽耶・任那ち通ずる石室制である。

水野正好氏によると
秦氏の本宗は太秦公宿禰は「秦始皇十三世の孫、孝武王の後裔氏族とされ、一二七県の百姓人夫を領率して百済より渡来した」とされその間、新羅人の働きにより伽耶に滞留せざるを得なかったとされている。京都の太秦の地が太秦公の居地であり、大枝山古墳群がその古墳群と考えられている。この古墳群の石室構造は特別なものであるが、同族の依知秦氏の横穴式石室とは異なり、伽耶などの朝鮮南端の地の石室の系譜をうける構造であることは、新羅人の働きにより伽耶に滞留せざるを得なかったと言う記事のおそらく弓月君に同道した百済・伽耶の人々の編貫地の一つとして愛智・神崎・蒲生郡の地ではないかと述べている。

新羅系氏族で、新羅の王「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承


『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは菟道河(うぢがは)=宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。
菟道河は現在の宇治川で、その側道を遡っていけば、天ヶ瀬ダムに出る。そのダムに沿って北進すれば、宇治川が瀬田川という名称になり、下っていくと琵琶湖に出る。

この記事に見られる吾名邑は、蒲生郡の苗村(ナムラ)にある長寸(ナムラ)神社の付近だとする考えを『地名辞書』はとっている。苗村の西は鏡山に接している。その鏡山の東のふもとの鏡谷はヒボコの従者たちが住んでいたところとされている。鏡山の地はもと須恵村、つまり陶人の居住地を暗示する村の大字でもあった。

▶米原町や息長村だった近江町のここは坂田郡で、かつてはこれも多羅とおなじ古代南部朝鮮の小国、安羅からきた阿那郷のあったところだった。

▶息長氏と三尾氏は、ともに新羅系氏族で、新羅の王「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承が多く残る地でもある。
天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。

▶塚口義信氏によると
「開化天皇の系統」の山代之大筒木真若王と迦邇米雷王は、山代之大筒木真若王山背国綴喜(つづき)郡、迦邇米雷王山背国蟹幡(かむはた)郷などの山背南部の地名が多く登場する事からこの系譜の伝承荷担者集団を「山背南部の一族(集団)」であるとした。また、息長帯比売命(神功皇后)の母方は『古事記』によると新羅の王子「天之日矛」の末裔にあたる。
息長帯比売命(神功皇后)応神天皇を天之日矛系渡来人の後裔とする伝承はかなり古い時代から伝承されてきたものであったと推定している。応神天皇を「山背南部に移住していた和邇系のヤマト政権(畿内政権)を構成する有力な政治集団の男性」と「山背南部に移住していた朝鮮半島系渡来者集団出身の女性」が婚姻して生まれた子息であったと推測している。



草津市の蒲生郡竜王町の鏡山の北麓にある鏡神社は、天日槍を祭神とし、『日本書紀』の天日槍の「従人」の陶工達がすんだという鏡村付近に比定され、鏡山古墳群と称して、須恵器の窯跡が50カ所以上発見されている。この須恵器が信楽に移って信楽焼に発展したという。鏡山付近一帯には古社も多く、東側の綾戸集落には苗村神社が、北側の鏡集落には鏡神社が、そして北西麓に位置する大篠原集落の外れには、大笹原神社が鎮座している。

◉鏡神社
◉苗村神社(長寸神社)(なむらじんじゃ)
◉大笹原神社(おおささはらじんじゃ)






日本武尊系

▶息長氏族の起源は、「息長田別王」
日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、その流れから15応神天皇妃「息長真若中比売」がいる。この二人の間の子供が、上記息長氏祖と言われている大郎子の父若沼毛二俣王が産まれており、継体天皇の系列である。


【応神天皇から継体天皇】
第9代開化天皇と姥津媛(和珥氏系)との子が彦坐王

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(応神天皇の妃)息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)


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▶日本武尊と弟橘媛の子供に息長田別王がおり、その子供が杙俣長日子王くいまたながひこのみこ )。杙俣長日子王の子供が飯野真黒比売命(いいのまぐろひめのみこと)、次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)、次に弟比売(おとひめ)。息長真若中比売は、第15応神天皇妃となる。

▶第12代景行天皇皇子 日本武尊の子孫の諸氏系
ヤマトタケルの子と称する稲依別命の後裔とされる犬上・建部君一族は、息長氏と同系の伊賀国造の同族

▶滋賀県(近江国)犬上郡は、御上祝の一族の犬上県主が居住した。湖東の犬上郡中央部、豊郷町に鎮座する「 犬上(いぬがみ)神社 」は、天日槍(あめのひぼこ)とともに百済から渡来した豪族の犬上郡の県主(あがたぬし)の祖を祀っているという。





稚野毛二俣(わかぬけふたまた)王命


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『古事記』応神段では、第15代 応神天皇が「杙俣長日子王」の娘である「息長真若中比売」を娶って「若野毛二俣(わかぬけふたまた)王」を生んだとある。
妃:河派仲彦王の女・弟日売真若比売(おとひめまわかひめ、百師木伊呂弁とも)
子:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が允恭(いんぎょう)天皇の皇后

応神天皇は、新王統の始祖
応神天皇が、神武天皇以来の王統にかわた「王朝交代説」は江戸時代には提唱されていた。

▶宝賀寿男氏によると
大和朝廷の神武天皇による創設は、西暦二世紀後葉で、神武の母胎・故地は、筑後川中流域にあった邪馬台国の怡 土支部国で、これら国々の王族たる天孫族はた、太陽神崇拝・鳥トーテム・天降り伝承や鍛冶屋技術をもち、南伽耶の地から一世紀前半頃に日本列島に渡来してきた。
天孫族の我が国の初祖、五十猛神が八幡神・兵主神に通じ、韓地の安羅伽耶あたりからとらいしたことは神話・伝承をさまざまな角度から検討した結果、明確になってくる。天日矛や神功皇后の伝承や祭祀にもよくあらわれる。応神天皇の遠祖も伽耶から日本列島に渡来してきた天孫系の分派の息長氏族からでたもので、前王統と同じ出自であった。応神天皇は、針間国造の祖・稲背入彦命と垂仁天皇皇女の阿邪美都比売命との間に生まれた。と述べている。


ブログ☞宝賀寿男氏による「息長氏の系図」
応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推される。

「杙俣長日子王」は、稲背入彦命という名をもつ針間国造の祖であり、息長一族はまず播磨西部に拠点をおいた。稚野毛二俣王命は、兄の応神天皇とともに播磨方面から摂津・河内あたりに入ってきたと見られている。


☞稚野毛二俣王命の時代は摂津河内辺りにあったと言う説
継体天皇陵とされている太田茶臼山古墳が(継体天皇陵はその東にある今城古墳とされるのが有力)5世紀前半頃の築造時期で継体天皇の父祖関係者の墳墓と見られている。太田茶臼山古墳が応神陵古墳と設計企画が酷似し、埴輪も同時代とされる事情から被葬者には応神天皇との近い親族関係も示唆される。

☞稚野毛二俣王命の娘は、第19代允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)
日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。
忍坂大中姫は河内出身とされ、当時仁徳の難波高津宮あたりで、河俣ないし杙俣にあたる「杭全(くまた)郷(摂津国住吉郡、大阪市平野区、河内の境界近く)、河内の杭全郷の喜連村(平野区)の名家北村氏は息長氏と伝える。


◉杭全神社
◉楯原神社
◉如願寺(喜連寺)
◉鐸比古鐸比賣神社(ぬでひこ ぬでひめじんじゃ)





大郎子(またの名を意富富等王おおほどのおおきみ)


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▶息長氏は、『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、継体天皇の祖父である意富富杼王(おほほと)を祖とするとされている。意富富等王は近江国坂田郡にいた。長浜古墳群で四世紀中葉から後半に山ヶ鼻古墳が作り出された。この時代には珍しく、同一氏族が三世代に渡って築かれた。

ブログ☞近江国~意富富等王~謎の継体天皇


▶『古事記』応神天皇
継体天皇の祖父 意富富等王は次の八氏族の祖であると記されている。
息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏

◉三国君(のち、三国真人)(越前国坂井郡三国)
◉波多君(近江国蒲生郡羽田)
◉布勢君(近江国伊香郡布施)
◉坂田酒人君(近江国坂田郡)
◉南淵朝臣 坂田君
◉山道君(日撫神社 山津照神社)
◉息長丹生真人(坂田郡上丹郷)
◉筑紫之米多君(肥前国三根郡米多郷)



▶息長氏が近江国坂田郡に移遷したのは、大郎子(またの名を意富富等王)の時代と言う説。
息長という地名は、近江湖東のかなり北の坂田郡の地名で、息長氏は近江の坂田を中心とする南と北に勢威をもち美濃・尾張とも密接な関係をつねづね持つ雄族である。
近江の坂田郡には山津照神社古墳や、村居田古墳があり、ともに横穴式石室の前方後円墳がある。

山津照神社は、古くは「青木宮」とし近郷26ヶ村の総社で6世紀前半のもの。神功皇后の父、息長宿禰(おきながすくね)王の墓ではないかと言われ、社宝に「神功皇后の鉞(えつ・まさかり)」がある。
直ぐ左手の山津照神社の旧社殿があった場所に境内社の「青木神社」がある。この神社は、藤原鎌足から数えて十三代目の末裔青木武蔵守頼忠入道がこの地に来て別当寺となり、以来青木氏が別当を務めた。明治十四年、社名を『延喜式』にしたがって山津照神社とした。

村居田古墳は、息長真手王(おきながのまてのみこ)の娘で、第三十代敏達天皇の皇后であるヒロヒメの「息長陵」5世紀末ごろとされる。
どちらも年代があわないとされるが、たいていのものはそうだろう。

日撫神社には、少毘古名命(すくなひこなのみこと)・息長宿禰王(おきながすくねおう)を祭神とし、神功皇后三韓征伐凱陣の後当社を建創とする。




▶ 『新撰姓氏録』では応神天皇の皇子稚渟毛二俣王の後裔で、息長丹生真人
余呉町の上・下丹生にある丹生神社は、「延喜式」にもその名が記載される古社で、天武天皇の時代に丹生真人が丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の清水を供えて天津神を祭り、天平宝字(757~765)年間に社殿を現在地に創建したと伝わる。余呉町・米原町ともに、『新撰姓氏録』に応神天皇の皇子稚渟毛二俣王の後裔とある、息長丹生真人(おきながのにゅうまひと)氏の居住地である






乎非王(おいのおおきみ)


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妃:牟義都(むげつ)国造伊自牟良君の女 ・久留比売命(くるひめのみこと)
子:汙斯王(彦主人王)

牟義都国造は美濃国北中部を支配した国造。

息長真手王、坂田大俣王の親族
息長真手王の娘麻績郎女は継体天皇の妃 広姫は敏達天皇の皇后
広姫は舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子を産んでいるので、息長真手王の血縁は現在の皇室まで続いていることとなる。

坂田. 大俣 王の娘黒比売がいる。



彦主人王(ひこうしのおう)


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妃:垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ、布利比売命)
子:継体天皇(第26代)


ブログ☞継体天皇伝承地「近江」訪れる
▶継体天皇の父→【汙斯王(=彦主人王)】 三尾氏
三尾氏は、第11代垂仁天皇と、山背大国不遅(山代大国之淵)の娘・綺戸辺(かむはたとべ、弟苅羽田刀弁)との間に生まれた第十皇子である磐衝別命(いわつくわけのみこと)を祖とする。
湖西の三尾氏湖東の息長氏も繋がる地である。
山背大国不遅は、垂仁天皇が新装の河合の宮に幣を治めた際に、御饗した人物。


ブログ☞継体天皇伝承地「越国」訪れる
【継体天皇の母振媛の里】
越前から近江にかけての地域は、応神王朝成立の有力な基盤であった。『古事記』や「国造本記」では、羽咋君は継体天皇擁立の際、重要な役割を果たした近江の三尾(みお)君と同祖の氏族と記されている。

▶『日本書紀』によれば
オホト(継体天皇)の父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだ。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。継体天皇の母振媛は「三国の坂中井」の「高向」の出身であり、式内社には「高向神社」もみられる。

▶『紀』によれば磐衝別命三尾君の始祖、『記』の石衝別は羽咋君と三尾君の祖とされている。また「国造本紀」は加我国造も三尾氏と同祖とする。
磐衝別命を祀る神社として、能登の羽咋神社(石川県羽咋市)、越前の大湊神社(三国町)、近江の水尾神社(滋賀県高島町)などがある。磐衝別命は能登から近江にかけて勢力を張った豪族の始祖で、継体天皇の母系一族は、北陸一帯に勢威を張っていたとみることができる。





継体天皇


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▶天武天皇の八色姓
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の一つで、最高位の姓である真人は基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられ、天武朝において息長氏が継体天皇の親族として評価されていたと言われている。
しかし実際には、天武天皇にとって、真人姓は「天皇家に連なるもの」だけの意味ではなく、壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えた。
息長氏はその中でも、十三の真人姓の氏族のなかでも、六氏を占めている。

応神天皇系  息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系  三国真人・酒人真人
宣化天皇系  多治比真人・為名真人
敏達天皇系  大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系  当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系  三嶋真人
天智天皇系  淡海真人
天武天皇系  高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上真人


▶天武朝以前には
舒明天皇の 和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」
その意味は、「息長氏が養育した額の広い(聡明な)天皇」と読むことができる。

『日本書紀』皇極天皇元年十二月条
「息長山田公、日嗣をしのび奉る」
とあり、舒明天皇の殯(もがり)において、息長山田公が「日嗣」(皇位継承の次第)を 弔辞したという。

舒明天皇の父親は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
押坂彦人大兄皇子の母は息長真手王の娘・広姫の(息長氏の)実家である。


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ブログ☞継体天皇の伝承地をおとずれる


◉忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)
即位前の継体が大和の忍坂宮(現在の奈良県桜井市)にいたとされるその地は忍坂坐生根神社辺りで「忍坂宮」は息長氏の拠点であるという。
境内の説明板によると、継体天皇が磐余玉穂宮に即位される以前におられた処でもあるようです。
《古事記》《日本書紀》によると,允恭天皇のとき,皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ),つまり雄略天皇の母のために設けられたという。皇后の名は,大和忍坂宮という宮号に由来するもので,刑部(忍坂部)は,この宮の経営のための費用を貢進する部民をさしている。この宮は近江の豪族息長(おきなが)氏が,連続して宮廷にいれた后妃のために経営したもので,刑部もひきつづいて設定されたものと思われ,その分布も,畿内の山城・河内・摂津はもとより,東山・東海・山陰・山陽の各道,さらに越前・讃岐・豊前・肥後などにひろくみとめられる。


ブログ☞『日本書紀』の編纂~「息長氏」説~





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