伊勢は国司の娘であり、しかも中宮に仕えた、いまで言ったらご皇室に仕えた立派で優秀な女性です。
もちろん相当な美人で才媛であったことでしょう。
そもそも伊勢は、どのような女性なのでしょうか。
伊勢の生まれは西暦870年代です。
没年は938年(66歳)以降というところまではわかっているのですが、それ以上のことはわかりません。
もともと従五位上・藤原継蔭(つぐかげ)の娘で、父が伊勢守であったことから、「伊勢」と呼ばれるようになりました。
とても優秀な女性で、10代で宇多天皇の中宮・藤原温子のもとに出仕しています。
ちなみにこの藤原温子、中世の女性の名前は、漢字をなんと読んだらよいのかわからないからと、温子を「おんし」と音読みすることとされているのですが、温子なら、どうみても「あつこ」でしょう。
中宮・藤原温子は、藤原基経(ふじわらのもとつね)の長女です。
藤原基経は、藤原の一族の中でも、もともとそれほど高い身分ではなかった人ですが、努力して這い上がり、ついには清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって、朝廷の最高の実権を握った、平安時代前期の超大物の政治家です。
藤原基経で有名なのが阿衡事件(あこうじけん)です。
宇多天皇が即位されたとき、藤原基経は朝廷の要職の内示をいただくのですが、基経が断ったために宇多天皇がたいへんに困られた事件です。
そしてこの事件後に宇多天皇が基経のために特別に用意したポストが「関白(かんぱく)」です。
そういうわけで藤原基経は、我が国最初の「関白」となった人です。
要するに藤原基経は超大物で、かつNo.1の政治権力者であった人です。
その娘が藤原温子で、宇多天皇の中宮です。
伊勢は、その温子のもとに出仕した女性です。
ちなみに、温子の兄が藤原時平(ふじわらのときひら)で、この兄は、宮中で遣唐使を廃止した菅原道真と激しく対立し、道真を宮中から太宰府に追い払った人物です。
ところが道真の没後、その怨霊に祟られて、39歳という若さで没してしまう。
このことが原因で、菅原道真は天満様として祀られるようになりました。
時平の子が敦忠(あつただ)で、敦忠は右近との恋の物語に登場する貴公子です。
温子の弟が藤原仲平(ふじわらのなかひら)です。
温子と仲平は仲の良い姉弟で、仲平はよく温子のもとに出入りしていたようです。
そして温子のもとで働いている自分とほぼ同じ年頃の美しい女官の伊勢に恋をしてしまうのです。
宮中一の美人女官と、時の最高権力者の次男坊の貴公子です。
しかも十代の恋です。
二人は熱愛になります。
熱く燃え上がった仲平と伊勢ですが、仲平の父は宮中の最高権力者の基経です。
父の基経にしてみれば、息子の結婚は下級の女官などではなく、やはりそれなりの家柄の娘でなければならない。
仲平は父の薦めに従って、伊勢ではなく別な女性と結婚してしまいます。
伊勢は、心から仲平を愛していたし、仲平も伊勢を愛していましたし、ともに十代です。
お互いがお互いの愛に一寸の疑いも持っていなかったことでしょう。
にもかかわらず仲平は自分を捨てて別な女性と結婚してしまったのです。
伊勢にしてみれば、これはとてもショックだったことでしょう。
仲平は、やむを得ない事情があることなどを伊勢に告げます。
そのとき伊勢が詠んだ歌が、冒頭の歌です。
そしてこの歌には、伊勢集に、詞書(ことばがき)が付されています。
そこに次のように書かれています。
「秋の頃うたて人の物言ひけるに」
「うたて」というのは、嫌な奴とか、大嫌いな奴、気味の悪い奴、不愉快な奴といった意味の言葉です。
伊勢は、仲平のことを、嫌な奴だと言っているのです。
ところがその詞書に続く歌は、
難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
(あなたは私に、
ほんの一瞬たりとも
逢わずにこの世を
過ごせと
おっしゃるのですか?)
なのです。
嫌な奴だと言いながら、でも逢いたい。
否定しながら、それでも気がつけば、あの人のことを思っている。
伊勢の心の葛藤が目に浮かぶようです。
ひとつ注意が必要です。
この時代は通い婚社会であるし、一夫多妻が認められていた時代です。
しかも仲平は、基経という絶大な権力者の次男坊ですから、複数の女性を養うだけの財力もあります。
つまりたとえ仲平が別な女性と結婚したとしても、伊勢は別段、仲平と別れる必要などないし、そのまま側室に収まるということもできたのです。
そして見事、仲平の子を懐妊したということにでもなれば、仲平の実の姉は天皇の奥様なのですから、その子は天皇の縁続きということになりますし、なにせ時の最高権力者である基経の孫にもなるのです。
要するに政治的に考えれば、一地方長官の娘が、側室としてとんでもない出世コースに乗ることにもなる可能性があるのです。
けれど伊勢は、そんな政治的なことでははく、彼が自分ではなく別な女性と結婚したことが悲しかったし、だからこそ、仲平に逢いたいと思いながらも、仲平を「嫌な奴(うたて人)」と言っているのです。
傷心の伊勢は、その頃父が大和に国司として赴任していたので、都を捨てて父のいる大和へと去ります。
その大和で伊勢が詠んだ歌があります。
忘れなむ世にもこしぢの帰山
いつはた人に逢はむとすらむ
(もう忘れてしまおう。
この世の峠の
帰山を越えたのだから。
あの人は、
いつまた私に
逢ってくれるというの。)
出世なんかいらない。
政治なんかどうだっていい。
ただ愛を信じていたかった。
でも、もう忘れてしまおう。
あの人とのことは、もう峠を越えたんだ。
そんな伊勢の悲しい気持ちが伝わってくる歌です。
そんな伊勢のもとに、1年ほど経ったある日、中宮温子から、
「再び都に戻って出仕するように」
とお声がかかります。
温子は、ほんとうにやさしい、思いやりのある女性だったのだろうと思います。
弟と伊勢のことをちゃんと知っていて、それでも
「あんたは大和で
くすぶっていちゃ
いけないわ。
もう一度私のところに
出仕しなさい。
あんたは
もっとずっと
活躍できる女性なのだから」
と宮中に呼んでくださったのです。
中宮様からの直接のお声掛かりともなれば、伊勢に断ることはできません。
伊勢は、再び都に帰って温子のもとに出仕します。
もともと頭もいいし、美人だし、気立てもよいし、なにより才能豊かな女性です。
都にあって伊勢は、各種の歌会でもひっぱりだこです。
頼まれて屏風歌(びょうぶうた)を書いたりもしました。
要するに宮中にあって目立つ存在となっていくわけです。
その宮中に、元カレの仲平がいます。
ある日のこと宇多天皇が伊勢に、伊勢の家で見事に咲いていると評判の女郎花(をみなえし)の献上を命じたのです。
それを知った仲平が、伊勢に歌を贈りました。
その歌は、
「もう一度、逢わないか」
というものです。
このときの仲平は朝廷の中枢にいる左大臣です。
大権力者です。
その権力者に、伊勢が返した歌です。
をみなへし折りも折らずもいにしへを
さらにかくべきものならなくに
(女郎花は
折っても折らなくても、
昔のことを思い出させる
花ではありません。
私は今更あなたのことを
心にかけてなどいないし、
これを機会に
昔を懐かしむこともありませんわ。)
伊勢は、きっぱりと、もう会わないと左大臣仲平に伝えたのです。
だってもう逢わないって決めたのです。
別々の人生を歩くことにしたのです。
たとえ、あなたがどんなに出世したのだとしても、
私はあなたとはもう逢わない。
懐かしむこともない。
歌は、そのように詠まれています。
もちろんそれは伊勢の本心です。
けれど心の奥底では、いまも仲平を愛し続けています。
男性の私には、仲平の気持ちはわかる気がします。
男は想いを引きずるものです。
仲平は、きっといまでも伊勢のことが好きで好きなのです。
そして愛した伊勢を自分が権力者となったいまも、幸せにしてあげることができないでいるふがいなさを思っています。
だから変な欲望ではなくて、ただ会って、食事でもして、昔の笑顔を見せてもらえたら、それだけで、仲平は、安心できるし、幸せだし、伊勢の幸せのために、自分に、何でもいい、何かひとつでも、みっつでも、よっつでも、自分にできることを伊勢にしてあげたい。
男の愛は責任でもあるのです。
伊勢を愛したひとりの男として、伊勢への責任をまっとうしたい。
それは独りの女性を心から愛した「男の考え方」です。
一方伊勢の気持ちは、私は女性ではないので、女心がよくわかりません。
一般的によく言われることは、「女性の愛は上書き」という言葉です。
女性は、新しい恋が芽生えると、女性の心の日記帳には、新しい恋が上書きされ、昔の恋はきれいさっぱり忘れてしまう。
新しい彼ができたら、元カレなんて眼中にない。
赤の他人。
別な人。
異なる人生。
関係ない他人。
本当にそうなのでしょうか。
私には、この「をみなへし」と詠んだときの伊勢の気持ちの中に、仲平への愛はあったのではないかと思えるのです。
というわけで、百人一首塾で、ご参加の女性陣に伊勢の思いを聞いてみました。
様々な意見が飛び出しました。
「男だけじゃない。女だって引きずるわ」
「女としてというより、人としてのプライドの問題じゃないかしら」
「もしかすると伊勢は、仲平の気持ちを試したかったのかも」
「でも、別れたのにまた言いよってくる男って軽薄じゃなくて?」
「伊勢は人として成長したのだと思う。
別れはつらいけれど、
伊勢は心に区切りをつけたんじゃないかしら」
「それって、あんときの私じゃないわよ、ってこと?」
「そうそう(笑)」
「でもさあ、そこまで人を好きになれるって、うらやましいわね」
・・・すごい盛り上がりとなりました。
さて、その後の伊勢の人生です。
やがて伊勢は宇多天皇の寵を得て皇子の行明親王を産んで、伊勢の御息所と呼ばれるようになります。
ところが皇子は五歳(八歳とする説あり)で夭折してしまう。
宇多天皇は譲位され、落飾して出家されます。
伊勢がたいへんにお世話になった中宮温子も薨去(こうきょ)されます。
憂いに沈む伊勢は、この頃30歳を過ぎていたけれど、宇多院(もとの宇多天皇)の第四皇子である敦慶親王(25歳)から求婚され、結ばれて女児・中務(なかつかさ)を生んでいます。
そして中務は、立派な女流歌人として、生涯をまっとうしました。
その伊勢の歌は、古今集に23首、後撰集に72首、拾遺集に25首が入集し、勅撰入集歌は合計185首に及びます。
これは歴代女流歌人中、最多です。
そして伊勢の家集の『伊勢集』にある物語風の自伝は、後の『和泉式部日記』などに強い影響を与え、また伊勢の活躍とその歌は、後年の中世女流歌人たちに、ものすごく大きな影響を与えています。
百人一首で、伊勢の歌の前後を見ますと、
17番 在原業平(輝かしい王朝文化)ちはやぶる神代も聞かず竜田川
18番 藤原敏行(身分差と恋の葛藤)住の江の岸に寄る波よるさへや
19番
伊勢 (権力から祈りのへ)難波潟短き蘆のふしの間も
20番 元良親王(心と権力の葛藤) わびぬれば今はたおなじ難波なる
21番 素性法師(兵士に捧げる祈り)今来むといひしばかりに長月の
という流れの中に、伊勢の歌が配置されています。
天智天皇、持統天皇が目指した国内の統一と、そのためのシラス(知らす、Shirasu)統治、その統治が完成していく過程における人々の葛藤と魂の成長が描かれる歌の中に、伊勢の歌が配置されています。
伊勢は、関白藤原基経、左大臣仲平らといった政治権力の世界から、仲平との別れを経て、祈りの世界の住人である宇多天皇やその子の敦慶親王と結ばれて子をなしました。
このことは伊勢が、
「権力の世界」から「祈りの世界」へ
と、生きる世界を変化させていったことを示しています。
その伊勢の心の成長を、百人一首の選者の藤原定家は、国家統治が最高権力ではなく、神々との接点である天皇を頂点とするシラス(知らす、Shirasu)統治を目指して完成していく過程と重ねたのではないでしょうか。
伊勢の歌は、どの歌もやさしい言葉で詠まれています。
いっけん単純そうでいながら、ものすごく複雑な世界を凝縮させています。
そのひとつひとつの歌が、読む側の人に、様々な思いを感じさせてくれます。
元カレからのお誘いに、
「大嫌いな人からのお誘いに」
とタイトルを付けながら、
「ほんのわずかな時間も、
あなたと逢わないで
この世を過ごしなさいと
おっしゃたのはあなたですよ?」
と詠んだ伊勢。
その伊勢の歌のもつ凄みは、権力と祈りの世界までをも描き出しています。
権力ではなく、権力よりも上位に祈りの世界を置くという思想は、これは古事記の中に明確に表されている事柄です。
古事記は、イザナキとイザナミが、そもそも淤能碁呂島(おのころしま)を造った理由を、
「諸命以(もろもろのみこともちて)」
と書いています。
古事記は冒頭で、我々の住む時空間のすべてが創生の神々の胎内に幾重にも保護されていると説きます。
つまり我々の住む時空間は、神々の胎内にある。
創生の神々と、我々の住む時空間の関係は、いわば母体と胎児の関係に似たものとして描いているのです。
我々一人一人は、その胎児のいわば細胞のひとつひとつです。
胎児のすべての細胞が、健康で明るく幸せであれば、それは母体となる母(神々)のよろこびです。
一部の細胞だけが、自己の利益のために他の多くの細胞を犠牲にしたり死滅させて、自分だけの幸せや贅沢を求めたら、そのことを我々は癌細胞と呼びます。
癌は駆逐しなければ、胎児だけでなく、下手をすれば神々の健康にまで被害を及ぼします。
その神々とつながる接点となる働きをされるのが、権力ではなく、神々のもろもろの命(みこと)をうけたまわる国家最高の権威であり、それが我が国の天皇です。
そして我が国の天皇によって、すべての民衆が「おほみたから」とされているのが、我が国の形であり、これが古事記の基本となる冒頭の世界観です。
伊勢の歌は、権力の座にある男が、自分よりも弱い者を犠牲にして、なんでもかんでも好き放題に手に入れることを完全否定した歌といえます。
なぜなら伊勢は、一介の女官でありながら、時の権力者となった仲平を、堂々と拒否しているからです。
そして伊勢は、祈りの人、つまり神々に奉仕する人として魂を成長させていくのです。
このことを見事に詠み込んでいる歌が、百人一首に収蔵された、この歌です。
難波潟 短き蘆の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとやいやあ伊勢って、ほんとうにすごいです。
※この記事は2016年12月の記事を大幅リニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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