昨今では誰もが当たり前のように活用している地図や旅の情報などが存在しなかった古代、人々はどのようにして未知の地へと旅をしたのでしょうか。乗り物と言えば木造の船しかなく、航空写真はおろか、自分の居場所さえも科学的な根拠に基づいて特定することができなかった時代、日本列島の島々を旅することは困難を極めたに違いありません。ところが、日本の古代民が残してきた歴史の軌跡には、卓越した地理感に基づく人々の志向性と行動パターンを垣間見ることができます。
古代の知者が携えていた天文学や地勢学の知識は、今日の常識では計り知れないほど、優れたレベルに達していた可能性があります。例えば、エジプトのピラミッドや、イギリスのストーンヘンジにある環状列石とも呼ばれるストーンサークルは、遠い昔、優れた天文学や方位学、地勢に関する様々な知識を持つ高度な文明が存在していたことの証として知られています。つまり、太陽や星を観測しながら、地域同士の位置付けや方角、距離までも識別することができただけでなく、暦の考察も行われていたのです。古代社会は英知の宝庫であり、経験則に基づく無数の検証が行われながら文明の礎が築かれてきたからこそ、人類は進化し続け、近代文明が開化するまでに至りました。
とてつもない天文学の知識と経験を持つ識者が存在したと想定される古代では、天体を観測しながら情報を取集し、それらを分析した上で地理感を極めていくということは常套手段だったようです。未知の地を旅する際には天体観測のデータをベースに、旅する方向や、距離まで見極めていたのは言うまでもありません。太陽の動き、日射の影、日の出、日の入りの方角をはじめとし、月や星、昼夜の時間の相違などの天体事象に目が留められ、古代の民は地球の在り方そのものを学び取っていました。そして長年にわたる言い伝えにも耳を傾け、時には簡単な地図までも描いたことでしょう。こうして天体観測を極めることにより、古代の人々は信じられないほどの地理感を養っていくことになります。
古代の旅において、必ずと言っていいほど重要視された情報が、同緯度線上における拠点や指標の確認です。太陽の動きを注視しながら、真東、真西の方角を見極めることは長旅の基本情報であり、方角を定める基準線ともなったのです。それ故、同緯度線上に複数の目印や要所を定め、そこに拠点を設けること自体は決して難しいことではなく、むしろ古代では、当然の成り行きでした。例えば、山や岬のような大自然の地勢を指標として、その場所と同緯度に神社のような要所を造営することにより、その位置付けと相互の関連性を明確にすることができました。
単に同緯度線上だけでなく、同一の方角に並ぶ位置関係も、古代では重要視されました。例えば夏至や冬至の日の出、日の入りの角度が東西の緯度線よりおよそ30度離れていることに古代の民は着眼し、その角度に連なる地の指標を重要視するようになりました。何故なら、夏至の日の出を拝することは、同じ方角に位置する指標も一緒に拝することになるからです。こうして太陽や星、月を観測することにより、夏至や冬至の太陽の動きに関わる方角だけでなく、あらゆる事象を通じて地理感が培われていくことになります。その結果、複数の指標や人工の造営物が単に同緯度線上だけでなく、あらゆる方向へ直線上に並ぶように工夫されることも珍しくありませんでした。
これら自然の指標や人工の社などの拠点を一直線上に並べることに、どのような意味があるのでしょうか。答えは簡単です。まず、現地点から、他の拠点を探しやすいという利点があります。真東、真西に進み続ければ、目的地に到達することができるという旅の安心感が大切にされた時代でした。また、同緯度線上でなくても、同じ方角に向かって一直線上に旅すれば、同様に目的地に到達することもできたのです。そのため、標高の高い山々が指標にされることも少なくありませんでした。遠くに聳え立つ山の頂方向に向かっていけば、目的地に到達できるからです。
同一線上に指標や拠点を並べるもう一つの理由は、それらの指標を意図的にまとめ、相互を地の力という見えない力で結び付けることが重要視されたと考えられます。例えば神を祀る聖なる場所を建立するプランがあったとします。願わくは、その場所が霊峰などの聖地と結び付き、地の力を受け継ぎたいものです。そのため、聖地同士を結び付けた線を複数見出し、それらが交差する地点に地の力を集中させた新しい拠点が見出されることになりました。例え人気のない、探すのにも難しい未開の山奥のような場所であったとしても、人々は既存の指標を確認しながら、聖地を見出すことができたのです。大事なことは、その聖地に相応しい霊峰や、自然を極めた拠点同士を結ぶ直線上に存在することでした。それ故、著名な神社を通るレイライン上には霊峰や、周囲を海で囲まれた岬などが名を連ねることが多く、それらが頻繁にレイラインの指標として用いられ、旅の目印としても活用されるようになったのです。
古代の日本社会では、主に大陸からの渡来者によって、国家の礎となる文明が築かれていきました。彼らこそ、これらレイラインの構築を多用して、古代より日本列島随所に次々と拠点を見出した主人公です。大陸の優れた天文学と地勢学を携えてきたからこそ、西アジア方面から渡来した旅人は、短期間で日本列島の地勢を網羅し、その中に多くの霊峰や岬、地の指標を見出し、随所に神を祀る社を構築することができました。そのためには同緯度線上だけでなく、様々な角度においても指標が一直線に並ぶようにきめ細かく工夫されました。拠点を定めるための基準であり、時には旅の指標となり、また、地の力を結び付ける仮想の線引きが、レイラインの正体です。日本列島では古代、こうしてレイラインの構想が随所で用いられ、新しい拠点がピンポイントで見出され、そこに神の社や港、集落が形成され、国家の礎が築かれていきました。
レイラインの重要性を理解するために、今一度、古代社会の有様を想定し、如何にして当時、人々は未知の世界を旅していたかを考えてみましょう。ある日、未開の大きな島に船が漂流し、そこで暮らすことになったと想定してみましょう。どこに港の場所を定めて船を停泊させ、どこに住まいを構え、どこで神を拝するのでしょうか。どのようにして新たに造成する拠点を定め、それらの位置をそれぞれがわかるようにするでしょうか。
まず、島をくまなく散策し、山や川、岬、滝など、目立つ自然の地勢に注目するのではないでしょうか。海岸線を歩き回り、時には船から見る陸地の在り方も確認しながら、岬のような突出した地形や、大きな岩場などは、大切な目印としてすぐに覚えられたことでしょう。さらに平野部と山間部、随所に流れる川にも目を留めるはずです。海や川の近くに住むことは、魚を食するだけでなく、生活のための水を確保するためにも重要です。これらの周辺地域に関する下調べを終えた後、船や徒歩でのアクセスが良く、地域の安全が確保され、水はけがよく、日当たりの良い地勢を有する場所を見出して、そこを自らの居住地と定めるのではないでしょうか。こうして海へのゲートウェイとなる港に適した地勢を有する場所が特定され、漁労に出航するにも最適な地が厳選されました。つまり、十分に周辺の地勢を検証したうえで、人間が住むにもっとも相応しく、安全でわかりやすい場所、エリアが厳選されたに違いないということです。
しかしながら大きな島では、港に適した場所が随所に存在するため、場所の特定には困惑することもあったはずです。そこで、誰もがわかりやすく港を見つけることができるように、その場所を例えば、島の最高峰と同緯度に設けたり、島の岬同士を結んだ線上に見出したりするような工夫が凝らされたのではないでしょうか。島の最高峰と同緯度線上に港を造成すれば、たとえ地図がなくても太陽の動きを見ながら、まっすぐに進むだけでその場所を見つけることができます。
次に、島の最高峰となる位置も確認したことでしょう。そこからは360度、島の周囲を一望できるだけでなく、島の中心的な存在として、誰でも簡単に見出すことができるからです。海から距離を置いて山間にも集落を造成することも、時には重要でした。山の中では狩猟を行うことができるだけでなく、住居の建造に必要な木材を確保することができるからです。また、山には神が宿るというような山岳信仰も古代では根強く普及していたことから、山々の要所には神を祀る祭祀場が設けられ、季節に応じてお祭りをすることもありました。実際、多くの神社は当初、道も無い山奥に建立されました。しかしながら、霊峰や岬、巨石などの自然の指標を結ぶ線上や、既存の神社と同緯度線上、または夏至の日の出を拝む方向にそれらの聖地が定められたことから、たとえ人気の無い山の中でも、神社の場所を見出すことができたのです。
現代のような地理情報や先端技術が存在しなかった古代、未知の島に到達し、様々な目的に応じた拠点の地を見出すことは、極めて困難であったと考えられます。そのために、時には太陽と天地を見据え、ある時は島内の地勢に目を留めて、その中から特異な地勢の情報を見出しながら、指標となる場所が並ぶ直線上に、新しい拠点を見出していく方法が模索されたのでしょう。レイラインとは人間の英知の結果として、ごく自然に生まれた拠点や聖地を見定めるための考察ツールだったのです。そしてレイラインの視点から古代史を見直すと、単なる神話と考えられていたような場所でさえも、思いもよらず実在していた可能性が見えてくるのです。
先日、知人にレイラインに関する文献を読んでいただいたところ、「偶然!」「妄想!」と一蹴されてしまいました。本稿においては歴史的な背景も含め、誰が読んでもその根拠が理解できるように、様々な角度からコメントを書き加えて執筆しているだけでなく、レイライン上で結ばれている場所の関連性までも、わかりやすく解説することに努めています。これほどまでに、聖地や霊峰、神社、重要拠点が同一線上に名を連ねることが、果たして偶然の一致と言えるのでしょうか。
レイラインに纏わる興味深い体験談を一つ紹介します。2014年に、筆者が経営に関わる会社の本社を、千葉県成田市から徳島県小松島市に移転することになりました。徳島で本社移転の場所を探している最中、たまたま安価に取得できる物件が、願ってもない海沿いに見つかったのです。そして本社移転の手続きが完了したある時、ふと気になり、小松島市の新社屋がレイライン上でどこに結び付いているか、地図で確認することにしました。すると驚いたことに、小松島の本社と富士山の山頂を結ぶ延長線上に、成田の下総松崎にある「大和の湯」という天然温泉の存在が確認できたのです。「大和の湯」と言えば、筆者が関与する事業の中でも、成田で最初に立ち上げた温浴施設であり、今日でも自社の重要な位置を占めています。その「大和の湯」が小松島の本社と富士山の山頂を介して一直線に連なっているということは、単なる偶然として片づけるべきでしょうか。それとも運命のいたずらというべきものなのでしょうか。
本件の場合、意図的に拠点を一直線上に並べた訳ではないことから、レイラインの主旨とは大きくずれていることは明らかです。しかしながら、ぴたりと一直線上に並んでいることから偶然とも思えず、不思議な思いに浸ることがあります。少なくとも、自らが関わる会社の拠点同士が、富士山を介して一直線上に結ばれている、ということを知ること自体に何らかの意味があるようにも感じられ、いずれにしても、単なる偶然にしては、あまりにでき過ぎているレイラインとの遭遇に心が弾むこの頃です。
現代では多くの地理情報が地図上に散在していることから、複数の拠点が一直線に並ぶという現象を目にすることは珍しくありません。中には、偶然に並んでいるようなものも、多々存在します。だからと言って、全部が偶然の一致と言い切れないのも事実です。実際、古代に建立された神社の位置付けを精査していくと、何もない森林の真ん中に場所が特定された聖地も少なくはなく、偶然、その場所を見つけたとは信じがたいのです。そのような辺鄙な場所に建立された多くの神社や聖地がレイライン上に一直線に並ぶことも、レイラインの構想が実は妄想ではなく、極めて現実的なものであったことの証ではないでしょうか。そして日本列島に潜む多くのレイラインの実態を調べていくと、そこは古代史に関するとてつもない情報の宝庫であることに気が付きます。
人類の歴史において船を用いた航海の歴史は長く、日本列島の周辺でも弥生時代以前、遥か昔から人々は船で大陸と島々を行き来していたようです。古代では様々な言い伝えや経験則に基づいて安全な海路を定め、天候を十分に確認しながら船旅をしたことでしょう。目的地が海を越えて遥か彼方に見える場合、課題は潮の流れと天候の変化に限られてきます。しかしながら、行き先が全く見えない遠距離の場合は、天体を観測しながら潮の流れや風向きを検証しつつ、船が進む方角を見極めることになります。
古代、大陸から日本列島を目指して渡来してきた民にとって、台湾、与那国島、石垣島や宮古島などの八重山諸島を行き来する際には、次の目的地を遥か彼方に視認することができたため、およそ安心して航海することができました。しかしながら宮古島から先は、別次元の話となります。宮古島から沖縄本島までは黒潮の流れをうまく利用できるにしても270㎞ほどの距離があり、久米島までも220㎞という長い距離となるため、目的地が目に入らないのです。よって、旅立つ際には方角、潮の流れ、風、その他、天候要因が綿密に検証されたことでしょう。
では、古代の識者らは未知の世界への船旅に備えるために、どのような準備をしたのでしょうか。文明がまだ、さほど開化してない当時の状況を踏まえると、八重山諸島においても地理的に参照となる旅の基点がまず、特定されたと推定されます。古代の航海術においては天体観測が不可欠であり、山や岬など誰もが一見してわかりやすい地の指標を基点として定め、その情報をベースに旅の方角や距離感を見定めることが重要でした。ところが、八重山諸島界隈には地域の中心となるような際立つ指標がほとんどありません。何故なら琉球石灰岩が風化した土地が広がる島々が多く、宮古島や竹富島のようにおよそ隆起が少なく、平坦な地表の島々が並んでいるからです。
嵐の中に立つ御神崎の雄姿唯一の例外が石垣島です。その北西部には、誰もが目を引きつけられる巨石が海岸沿いに聳え立っています。それが御神崎の磐座です。一見、自然に浸食した巨石が海中から立ち上がっているように見えますが、背後から見るその容姿は孔雀が羽を広げているようにも見えます。また、北東を向く正面部分は岩が切り落とされたような絶壁の様相となっており、もしかしたら人為的に岩が切り落とされたのかもしれません。御神崎という名称は、ヘブライ語でアンカー、碇、支えを意味する(ogen、オゲン)と、見張り、ガードの(zakif、ザキ)を合わせた言葉が語源となった可能性があります。すると、「オゲンザキ」または「ウガンザキ」は、「見張りのアンカー」、つまり旅の基点のような役割を意味する言葉になります。それは聖なる場所をも意味することから「御神崎」の漢字が当てられ、いつしか旅人の基点となる聖地として、古代の民から崇められるようになったと考えられます。
久高島から上る夏至の日の出御神崎から夏至の日の出が見える方角は、およそ63度です。実際に、そこから62度52分の方角へ向かって真っすぐに旅をすると、沖縄本島の最南端、糸満市の海岸近くを通り、斎場遺跡から5㎞少々東方に位置する久高島に辿り着きます。「神の島」とも呼ばれる久高島は、島全体が聖域化された神聖な島です。つまり、夏至の日に石垣島の御神崎から日の出の太陽を拝することは、同時に「神の島」も拝することを意味したのです。こうして八重山諸島の御神崎と「神の島」久高島は、夏至の太陽によって地理的に結び付けられ、聖地化されることになります。また、御神崎は旅の基点として久高島とだけでなく、他に少なくとも4本の重要なレイラインを構成しています。その線上には富士山、三輪山、伊吹山、六甲山など、古代から崇拝されてきた霊峰や、室戸岬、足摺岬などの地勢際立つ岬が並び、その中に日峰山がある小松島も含まれています。国生みの時代では、これら御神崎に結び付く地の指標が、列島内の拠点を定めていく上で用いられることになりました。
斎場御嶽から見た久高島八重山諸島から北方へ向かう船旅は、行き先が見えないことから危険を伴いました。しかしながら、ひとたび黒潮の流れに乗って「神の島」、久高島に到達すると、その西方には思いもよらず、沖縄本島が隣接していたのです。巨大な沖縄本島の自然は豊かであり、渡来してきた旅人を癒す憩いの島として重宝されました。また、島の南西部には人が住みやすい平野が広がり、農作物の栽培に適した土地にも恵まれていたことから、そこが島の中心となりました。そして旅の噂を聞きつけた多くの仲間が八重山諸島から沖縄へと渡航してくるにつれ、沖縄本島は徐々に栄え始めました。それ故、平野部一帯はいつしかヘブライ語で、人が群れを成すことを意味する(nahar,なは)という名前で呼ばれるようになります。
この沖縄界隈に古代、高天原と呼ばれる場所が存在していた可能性があります。夏至の日に太陽が天空、すなわち、空の頂点近くを通る地域だからこそ、古代イスラエルの民にとって沖縄は、正に高天原と呼ぶに相応しい場所だったのです(詳細は「高天原のレイライン」参照)。大陸より渡来したイスラエル系の人々は、当初、台湾を経由して八重山諸島に渡り、石垣島や宮古島などの島々を開拓しました。その後、黒潮の流れに乗って豊かな自然の恵みに溢れる琉球方面へと旅立ち、石垣島の御神崎に紐付けることができる久高島と、巨大な沖縄本島を見出したのです。その話を聞きつけた大勢のリーダー達は、満を持して宮古島や石垣島より沖縄本島へと北方に向けて船で移動を開始しました。そして大陸から旅を続けてきた長老格のリーダーを含む大勢の渡来者が沖縄本島に到達し、そこに多くの集落が形成され、一大拠点としての様相を帯びてきました。それが高天原の原点であり、古代、沖縄周辺に存在したと考えられます。
日本書紀や古事記によると、古代、高天原の神々が一堂に会した際、列島の有様を調査し、国土を整備するために、伊耶那岐命と伊耶那美命をリーダーとする調査団が派遣されました。それが国生みの始まりです。渡来者の一大拠点となった高天原は今日の沖縄界隈に存在したと考えられます。しかしながら、神々を代表するイスラエルからの渡来者は沖縄周辺に拠点を設けた後も、船に乗ってひたすら東方へと航海を続けることを目指しました。何故なら、神が預言書を通じてイザヤに語られた約束の地、「東の島々」の存在を信じていたからです。また、夏至の日に太陽が天空近くを通る常夏の琉球地方は気温が高すぎることもあり、最終目的地とはなり得ない場所でした。イスラエルの民は、祖国イスラエルの国家がある場所とほぼ同緯度に存在し、季節の変化がある新天地を探し求めていくことになります。
そこで沖縄から北方に向けて見える近郊の島々を調査すると、北東およそ35度の方角に向けて、多くの島々がほぼ一直線に連なっていることが確認できたのです。直後、島々が連なる「東の島々」の場所を最終地点まで確認することが伊耶那岐命に命じられ、一行は沖永良部島から徳之島、奄美大島へと向かい、そこから更に北東方向へと進み、屋久島と種子島近郊を航海して、九州の南岸へと到達します。その西方にはエルサレムと同緯度に中甑島が存在します。よって祖国イスラエルの首都を記念すべく、同緯度の地点にある山は、ヘブライ人を意味するヘブライ山と呼ぶようになり、それが多少訛ってヒラバイ山となったのでしょう。後述するとおり、このヒラバイ山から夏至の日の出が見える、およそ60度の方向にある淡路島近郊の島が、国生みの原点となるオノゴロ島です。
その後、黒潮の流れに乗って一気に進むと四国の高知沿岸が目に入り、室戸岬の東岸から更に北上を続けると、遠くに淡路島が見えてきます。琉球地方から天下り、船で長旅をしてきた先陣隊の一行は、巨大な淡路島とその向こうに立ちはだかる瀬戸内の沿岸を見据え、「東の島々」の最終地点にまで辿り着いたことを知りました。大阪湾を中心とする広大な陸地に突き当たり、それ以上、北方に向けて航海出来ないことが目視で確認できたからです。そして淡路島から列島の調査を開始するにあたり、まず、周辺の島々の位置付けを確認する必要性が生じ、そのために調査団の一行が上陸した拠点がオノゴロ島です。見晴らしの良い島の頂上からは、これまでの船旅の軌跡や淡路島周辺の島々の位置付けを確認することができたことでしょう。その基点となったオノゴロ島は、地理的にも重要な位置付けを占めていました。
オノゴロ島が実在したかどうかについては賛否両論があります。しかしながら、古代の渡来者による船旅のルートを振り返り、順を追って行き先を想定し、時にはレイラインの考察の助けを借りて地理的諸条件を検討してみると、意外にも国生み神話に登場するオノゴロ島の比定地が浮かび上がり、実在した可能性が高いことがわかります。
伊耶那岐命に導かれた国生みの調査団は、沖縄界隈の南方から南西諸島に沿って航海を続け、淡路島周辺に辿り着いた時点で、「東の島々」への船旅が終焉を迎えたことを悟った伊耶那岐命らは、淡路島から島々の調査を始めることになります。その前段階として、淡路島周辺に見える島々の位置付けを理解するために、それらを一望できる場所として淡路島の手前に浮かぶオノゴロ島が基点となる島として選別されたのです。後述するとおり、古事記の記述によるとオノゴロ島は淡路島から見えるほどの距離にあったことから、その場所は古代、広大な湿地帯が広がっていたと推定される今日の徳島市から阿南市に存在したと考えられます。
オノゴロ島が国生みの基点として選別された理由のひとつに、淡路島を囲む地域一体を一目で把握することができる景色を、その山の頂上から眺望することができたことが考えられます。国生みの調査を開始するにあたり、周辺一帯の地理感を得ることは極めて重要でした。また、重要なレイラインの存在もオノゴロ島が特定された背景に絡んでいるようです。古代知識人の志向性や地勢感から察するに、列島の重要な指標同士を結ぶレイラインの活用は、未開の地における地勢感を培う上で不可欠だったと考えられます。もし、オノゴロ島が並ぶレイライン上に、複数の著名な山々や岬が存在するならば、単にオノゴロ島の場所が見つけやすくなるだけでなく、それら地の力を共有する貴重な場所として認識されることになります。
驚くことに、著名な山々や岬などが一直線上に結び付くレイラインが複数存在し、それらが交差する場所が淡路島のそばに存在することを、今日でも地図上で確認することができます。それが徳島県小松島の日峰山です。今日、日峰山の東には海が広がり、北側は勝浦川の河口にあたるものの、西側と南側には平地が広がり、市街化が進んでいます。しかしながら古代では、これらの平地は湿地帯であり、それ故、日峰山は小松島というおよそ湿地帯に囲まれた海の中に浮かぶ島の中心だったのです。日峰山は古代から旅の指標として重要視され、
日峰山から和田島と遠くに伊島を見る頂上周辺では神が祀られました。標高は191mとさほど高くはありませんが、その頂上からの景色は実に素晴らしく、真北には吉野川の広大なデルタが広がり、北東方向には淡路島を一望することができます。そして東方には紀伊水道を越えて和歌山とその背後に聳え立つ吉野や熊野の山々を目にすることができ、東南方向には和田島と伊島を眺めることができます。そして西側には阿波の山々が見渡せ、その背後に四国の霊峰、剣山が聳え立っています。国生みの原点となる指標の島としては、正に絶好の場所に位置していたのです。
オノゴロ島が小松島の日峰山であることを確認できるもう一つの手掛かりが、古事記で用いられているオノゴロ島の漢字表記です。オノゴロ島は天の沼矛(ぬぼこ)を用いて大地をかき混ぜ、矛から滴り落ちたものから出来上がった島として、「淤能碁呂島」と書かれています。これらの文字からも、日峰山との関連性を見出すことができます。オノゴロ島の名前の所以には定説がありません。漢字で自凝島と表記されることもあることから、一説では自然と凝り固まって形成された島、とも考えられています。これらの当て字に使われる漢字を選別するにあたっては、伝えたい意味を含む文字が厳選された可能性があることから、オノゴロ島の意味を理解する手掛かりを、淤能碁呂という漢字の意味から考えてみました。
「淤」は泥、沼を意味することから、湿地帯の中にオノゴロ島が存在するイメージが浮かび上がってきます。そして「能」は、何か実現することができることを意味します。次の碁の「其」は、縦横組み合わせた四角形を指し、それに石へんを合わせると、穀物を振るうために用いる竹で組まれた農具を指すことがあります。また、2人が対局して交互に打ち合う「碁」の字でもあり、その盤上にも四角の升目が組まれています。最後の「呂」は、中国語で陰の音律を示し、並んで続くことを意味する象形文字です。
「呂」のような形をしている日峰山すると「淤能碁呂」とは漢字の意味からして、湿地帯の中から出来上がった島であり、その形状は、四角形に似た形をした2つの島が地続きに並ぶような「呂」の形を成している可能性が見えてきます。小松島の日峰山は、正にそれに該当する場所です。日峰山の裾から隆起している部分だけを、古代では湿地帯の中に浮かび上がっていた小松島に近い形状と想定すると、南北2つの隆起した島が地続きになって一体化した島であり、「呂」という漢字の形をしているようにも見えます。それ故、象形文字のような意味あいで、「呂」という漢字が当てられたのかもしれません。
更に日峰山がオノゴロ島であることを裏付ける資料として、注目すべきデータが古事記の記述です。下巻の仁徳天皇の章には、天皇の切ない恋心について詳細が記載されており、その歌の中に、オノゴロ島についての記述が含まれています。ある日、天皇は恋する黒日売(くろひめ)にどうしてもお会いされたく、姫が住まわれる吉備国へ向かおうとされました。しかしながら、直接吉備国へ向かっては、嫉妬深いお妃様の不信感を取り除くことはできません。よって、淡路島の北方には旅することができませんでした。その先に黒日売の住む吉備国があることから、お妃の怒りをかうことは明らかであったからです。そこで仁徳天皇は、「淡道島を見むと欲ふ」と語った後、難波(大阪)から淡路島の南端へと向かい、そこで歌をお詠みになられました。淡路島でのアリバイを確固たるものとした後、南端を回って吉備の国に向かおうとされたのです。
仁徳天皇が淡道島の高台に行幸された際、そこで詠まれた歌の内容に注目してみましょう。古事記には、「坐 淡道島 遙望 歌曰」と記載されています。仁徳天皇は淡路島の高台に来られた際、「遙望」というお言葉をもって遥か遠くに見える島々の景色をお詠みになられました。島々を遠くに眺めることができるのは、淡道島では南端しか考えられないことから、この記録は仁徳天皇が淡路島の南端にいることの証でもあります。その歌の中に淤能碁呂島が含まれています。原文では、「和賀久美礼婆 阿波志麻 淤能碁呂志摩 阿遅麻佐能 志麻母美由 佐気都志麻美由」と記載され、
4つの島その読みを現代の書き方に直すと、「我が国見れば 淡島 オノゴロ島、檳榔(アジマサ)島も見ゆ 離つ(さけつ)島見ゆ」、となります。難波の岬から旅立ち、淡路島の高台から国土を展望した仁徳天皇が目にしたのは、淡島とオノゴロ島、檳榔の島、そして佐気都島という4つの島でした。淡路島から見ることのできる島々は、紀伊水道の伊島より北方に限られることから、どの島も淡路島からの距離はさほど遠くはなかったと考えられます。
仁徳天皇が最初に目を留められたのが、淡路島から南方に向かってまず右側の一番手前にみえる阿波志麻(淡島)でした。諸説はあるものの、阿波志麻とは阿波の国の中心地近くに浮かぶ島であり、今日の徳島近郊に存在したと考えられます。古代、吉野川のデルタ周辺一帯は広大な湿地帯に囲まれ、その一角に淡島が存在したに違いないことから、淡島とは徳島市の眉山ではないかと考えられます。眉山の周辺は古代、湿地帯に囲まれ、島の様相を呈していたと想定されます。ところが眉山の背後に連なる阿波の山々と眉山の裾野の区切りは明確ではなく、背後の山々が眉山に隣接していたことから、淡島をひとつのれっきとした島として認知するには不十分だったようです。それ故、オノゴロ島の後に見出された淡島は、「島たりえなかった不完全な島」として、あわあわとして頼りないことを意味する「淡」という文字が用いられて古事記に記されたのでしょう。
小松島の日峰山仁徳天皇が淡路島からご覧になられた島々の中で、2番目として、お目につけられた島が、淤能碁呂島でした。淡島の比定地を徳島市の眉山とするならば、仁徳天皇が淡島の次に目を留められた島であるオノゴロ島は、眉山、淡島からさほど遠くない場所にあったはずです。前述したとおり、その場所は小松島の日峰山であったと考えられます。今日の眉山から東南方向に7.5㎞ほどにある日峰山は、古代、湿地帯の中に浮かぶ島の中心であり、淤能碁呂島の比定地として最も理に適っています。
次に仁徳天皇が目を留められたのが檳榔島(あじまさ)です。日峰山からおよそ南方向へ15㎞ほど進むと、標高228mの鍛冶ヶ峰がありますが、これが檳榔島の正体ではないでしょうか。小松島と伊島の間に見える島は、今日、古代でも鍛冶ヶ峰しかないからです。鍛冶ヶ峰には檳榔(ビロウ)と呼ばれる亜熱帯性植物が生えていた可能性も否定できず、その島は、いつしかアジマサ島と呼ばれるようになったのでしょう。
淡島、淤能碁呂島、更には阿遲摩佐能志(あじまさのしま)を見渡した後、仁徳天皇は最後に佐気都志摩美由(さけつしま)を遠くに見届けられました。古代の海岸線を前提に考えると、淡路島の南方から遠くに見ることのできる島とは、向かって西の端から淡島の眉山、淤能碁呂島の小松島日峰山、檳榔島の鍛冶ヶ峰、と続きます。そして歌の中で最後に詠まれた「さけつしま」が離れ島であるとするならば、それは淡路島から遥か遠くに見える島の中では最南端にあたり、四国の沿岸から距離を置いて浮かぶ伊島に他なりません。
オノゴロ島が小松島の日峰山であったという見解はこれまでに例がなく、簡単に受け入れられるものではないでしょう。しかしながら、日峰山を通り抜けるレイラインが多数存在し、それらのレイライン上に古代の重要な指標が並び、しかもその位置が仁徳天皇の詠まれた歌の内容とまったく矛盾しないことに着目すると、オノゴロ島が小松島の日峰山であるという提言が、にわかに信憑性を帯びてきます。小松島の日峰山を通るレイラインが列島に存在する多くの地の指標を取り込んで直線を形成しているのは、単なる偶然としては片付けられない理由を今一度、探ってみましょう。
伊耶那岐命ら一行が日本列島の調査を開始するにあたり、まず、淡路島周辺の島々や山の頂を眺めながら、周辺一帯の地理感を得ることは必要不可欠なステップでした。そのため、国生みの基点となるべく特定されたのがオノゴロ島だったのでしょう。その場所は、日本列島内でも標高の高い山々や、船旅の途中で目にした岬などの地の指標を一直上に結び付ける原点となっただけでなく、それら複数の直線がオノゴロ島で交差するという特別な場所であったが故に、正に基点としての役割を果たすことができたのです。するとオノゴロ島と結び付いている山々や岬の途中や延長線上に他の指標を見出すことができるだけでなく、それらの指標を中心とした新たなるレイラインも描くことができるようになります。こうして古代では、無作為に列島内を巡るのではなく、あくまで拠点同士を結び付けた線上に、新たなる指標や拠点を見出したと考えられます。
実際に地図を詳細に検証すると、小松島の日峰山を通るレイラインは確かに複数存在します。しかもそれらの線上には今日、霊峰として知られ、聖山の地位を不動のものとする著名な山々が名を連ねています。また、大陸より訪れた古代の民が到来した際の南方の出発点とされる八重山諸島や琉球の聖地と日峰山を結び付けるレイラインも存在します。国生み時代の渡来者は、八重山諸島を経由して沖縄から船で北上してきたことから、琉球諸島に絡むレイラインが存在しても不思議ではありません。
伊平屋島 クマヤ洞窟早速、日峰山を通るレイラインを検証してみましょう。前述したとおり、古代、イスラエルより渡来した民は、大陸から八重山諸島、沖縄を経由して、南西諸島を北上し、日本列島に移住してきました。沖縄では長期間、滞在したことから地域周辺には集落の形成が進み、高天原とも呼ばれるようになりました。その沖縄本島から北西方向に32㎞ほど離れた伊平屋島にはクマヤ洞窟があり、古代から聖地化されていたようです。
ヤヘー岩「クマヤ」という名前は「神よ、立ち上がって来てください!」という祈りの思いが込められた「クンバヤー」というヘブライ語が多少訛ったものと考えられます。クマヤ洞窟のすぐそばには伊江島の城山に似たヤヘ―岩があり、この岩の名称もヘブライ語で「神の岩」と解釈できます。城山とヤヘ―岩は双方とも同様の形になるように人の手で削られているように見受けられることから、意図的に指標となるべく形造られた可能性があります。
那覇のレイライン那覇からおよそ35度の北東方向へ直線を描くと、その線上には南西諸島が並んでいるだけなく、その先には淡路島の中心地にある古代聖地の神籬石が、そして更に先の青森の沿岸には、後に北方の拠点となる港が造成された八戸が並びます。神籬石が存在する北緯34度26分の緯度線をアジア大陸の方に伸ばすと、その線上には古代、世界の中心となる「地中」として定められた陽城があることも注目に値します。また、伊平屋島のクマヤ洞窟そばのヤヘ―岩から北東方向に進むと、淡路島最高峰の諭鶴羽山頂に当たります。その直線上の途中、徳島沿岸にあたる箇所に小松島の日峰山が存在するのです。
日峰山は、八重山諸島、石垣島にある御神崎ともレイライン上で結び付いています。数多く存在する日本列島のレイラインの中でも、最も古い歴史を持つ基点の一つである石垣島の御神崎を通るレイラインは4本存在し、それぞれが富士山や剣山、伊吹山など、古代から知られる霊峰の頂上を通り抜けています。中でも重要なのは、御神崎から北東方向へ41度18分の方角に真っすぐ進み、宮崎の都井岬から足摺岬を通り抜け、琵琶湖そばの霊峰、伊吹山の頂上に当たるレイラインです。何故なら、この線上に小松島の日峰山が存在するからです。
御神崎のレイラインつまり、石垣島の御神崎から九州と四国の岬を指標として、そこを一直線に通り過ぎるだけで、日峰山に当たることになります。しかも南西諸島を北上した後、九州の熊本に到達し、その西方に見出した祖国のエルサレムと同緯度にあるヒラバイ山から見て、夏至の日の出の方角に向かって進んでも、59度24分の線上に日峰山が存在します。つまり日峰山は、沖縄本島に隣接する伊平屋島のヤヘ―岩からだけでなく、石垣島の御神崎や、鹿児島の中甑島にあるヒラバイ山からも、レイラインを用いてアクセスできる場所にあるのです。
更に小松島の日峰山を通るレイラインの中には、富士山の存在も浮かび上がってきます。日本列島最高峰の富士山と四国の霊峰として著名な剣山を結ぶと、その線は小松島日峰山と重なります。日峰山は、富士山と剣山という2つの著名な霊峰の地の力を引き継ぐ場所に存在していたのです。そのレイラインを東方に伸ばした千葉の地では、後世において香取神宮が建立されることになりました。また、西日本最高峰、四国石鎚山と日峰山を結ぶ線をそのまま東方に伸ばすと、古代聖地のひとつである伊雑宮に当たります。国生みの働きの中でも、初期に見出された古い港のひとつが志摩にある伊雑宮の場所です。古代の重要拠点であり、伊勢神宮元伊勢の中でも最も由緒ある伊雑宮にも、日峰山が結び付いていることに驚きを隠せません。
中部地方の霊峰として著名な八ヶ岳と御在所岳を結ぶ線も日峰山を通っています。八ヶ岳の近郊には諏訪湖があり、周辺には日本列島で最も古い歴史を持つと言われる縄文時代初期の集落が形成された遺跡もあることから、古代の渡来者が本州の地を訪れた際に、真っ先にその場所を見つけに内地まで旅をしたかもしれません。その途中で目にした八ヶ岳の雄姿は、遠くから見る日峰山の姿を彷彿させるものであり、その八ヶ岳と三重の霊峰、御在所岳を結ぶレイラインが小松島日峰山を通り抜けています。
これらの日峰山を通り抜ける複数のレイラインを振り返ってみると、それらの線上には著名な霊峰が名を連ねていることがわかります。そのリストの中に富士山、石鎚山、剣山、伊吹山、御在所岳、八ヶ岳という極めて重要な古代の霊峰が6山も含まれているのです。しかもそれらの霊峰同士を結ぶレイラインの交差点上に小松島の日峰山が存在するということは、古代から日峰山が大切な拠点として注目されただけでなく、地の力を共有する場所として重大な意味を持っていたことになります。そのような特殊な立地条件を兼ね備えていたからこそ、日本列島の国生みを開始するにあたり、旅の原点となる指標となるべく、オノゴロ島として小松島の日峰山が選別されたと考えられます。
今日、徳島県の小松島市、北方に見える小高い日峰山は、頂上の日峰神社に向かう道路はあるものの、周囲一帯は雑草に覆われ、何ら管理がされぬまま放置されています。古代のレイラインを地図上で考察するだけで、日峰山がいかに大事な場所であるかは、手に取るようにわかるだけに、異常事態としか言いようがありません。何とかして、小松島の日峰山周辺を整備し、古代の最重要拠点として名高いオノゴロ島の比定地にふさしい美しい島として、国民のみなさんにその存在価値を知らしめたいと願ってやみません。
(文・中島尚彦)
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