日本最古の書として知られる古事記は、天と地が始まった際、高天原と呼ばれる場所に神々が現れた話から始まっています。その解釈については、高天原が創作されたことを前提とした作為説や、次元を超越した宇宙観や神秘性を掲げた天上説など様々です。しかしながらイスラエルの古代史において、国家の崩壊に伴い大量の移民がアジア大陸を移動したと推測される歴史の流れと、史書の記述を照らし合わせてみると、意外にも大陸からの人の流れの方向性や、双方の文化、神武天皇の即位を元年とする皇紀と時代のタイミング等が一致することに気が付きます。皇紀については諸説あるものの、紀元前660年に焦点があたるように整然と天皇家の系図が成り立っていることは重要視する必要があります。また、遺跡から発掘された人骨や稲などの各種DNA鑑定からは、日本列島への人と文化の流れが、アジア大陸の南方から南西諸島を通って日本列島にもたらされたことが昨今、確実視されるようになってきたことも大事なガイドラインとなります。
大陸より海を渡り日本列島を訪れた古代の渡来者の多くは、当初、台湾から琉球界隈の諸島を通って北上しました。そしていつしか日本列島に民が土着し、そこに大陸からの文化がもたらされ、息吹いていくことになります。その人と文化の流れが前提にあるだけに、前7世紀頃、国家を失った何十万人にも及ぶイスラエル人の群れの一部が、大陸を経て、南方から日本列島へ到来したと想定することも真実性を帯びてきます。更に、古事記や日本書紀の記述には、ヘブライ語でしか解釈できない言葉など、イスラエルからの渡来者しか書けないような内容が含まれていたのです。史書の内容は言語だけでなく、その話の流れや、国生み神話に纏わる地理的相関性など、どれもイスラエルの民が大陸の南方から沖縄諸島を経由して日本に到来したという前提で書き綴った作品として捉えても何ら遜色はなく、昨今のDNA鑑定によるデータも、その人と文化の流れを裏付けています。
記紀の内容については、これまで神話として捉えることが主流でした。しかしながら、昨今の諸研究の結果を踏まえるならば、古代の歴史書として見直し、史実に基づいた記述が含まれていないか、今一度、検証し直す必要があります。すると、古事記や日本書紀に記されている高天原という神話の空間も、単なる空想話ではなく、実存した場所を反映している可能性が見えてくるのです。
日本列島への玄関となる高天原
古事記の冒頭は、「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。(訓高下天云阿麻下効此)」という文章から始まっています。その意味は文字通りに解釈するならば「天地が初めて現れ動きだした時、高天原に成った神の名は、天之御中主神でした。」と理解できます。「天」は、神が祀られる神聖な場所を言い表していることから、天之御中主と呼ばれる尊い天上界の「神」が高天原にて祀られたことが、日本古代史の原点にあることが証されていたのです。
では、その高天原と呼ばれた聖地は、実際に存在したのでしょうか。ごく一般的に高天原神話として語られてきたように、高天原は神話化された空想の場所と考えられがちです。しかしながら、古事記は神代も含めて日本の歴史について綴られているという前提の元に、イスラエルの古代史と照らし合わせて見直すと、これらの記述が単なる神話ではなく、実は史実に基づいたデータが編纂されて上手に神話化されたものであるという可能性が見えてきます。その背景には、アジア大陸をひたすら東方へと渡り巡りながら、「東の島々」を探し求めた古代イスラエル人の存在がありました。
西アジアから大陸を越えて海を渡るという冒険の旅を続け、台湾から八重山諸島へと連なる島々を東方に航海した民は、そこから北方へ向けて流れる強い海流の先に島々が連なり、その先に神が語られた「東の島々」が存在することを確信したのでしょう。しかしながら、黒潮の流れに乗って北上すれば帰還できなくなる可能性もあり、そこからの旅は前途多難を極めていました。よって、これまでの旅の疲れを癒し、心の備えをするだけでなく、船団を再編成し、更には島に残る民の群れを統治する体制を整える必要がありました。その為にも自然の恵みに満ちた広大な安息の地が求められ、そこで時間をかけて準備することが大切でした。その場所が高天原であったと考えられます。高天原とは、大陸から東方へ向かう旅の最東端にある大陸棚に直結する大きな島であり、そこは大陸からの旅の最終拠点として旅人の安息の地となっただけでなく、「東の島々」への玄関口として位置付けられていたのです。
高天原という名前にあてられた漢字からは、高天原は天と繋がる場所と考えられていたと想定できます。その天とは神が住まわれたとされる天上界だけでなく、イスラエルの民にとっては神が降臨されたエルサレム神殿も意味していたのではないでしょうか。太平洋の島々から見れば、アジア大陸は巨大な高地であり、ヒマラヤ山脈の更に先にある西アジアは、正に天にも届くような存在として心に映ったことでしょう。また、古事記の冒頭に見られる「初発」という言葉は、事が始まり動きだすことを意味します。それ故、「天地初発之時」とは、神が住まわれたとする「天」である西アジアの聖地エルサレムと、大陸の延長線に繋がる「地」が紐付けられ、その最東端である大陸棚の先に高天原が見出され、そこから日本の歴史が動き出したと想定できます。すると、古事記の冒頭文を以下の意味で読むことができます。「(神が住まわれる)天に結び付く(東端の)地が見出され、(日本の歴史が)動きだした時、高天原では(まず、天の神である)天之御中主神が崇め祀られました。」
アジア大陸から船団を率いてイスラエルから渡来した民は、大陸から台湾に渡り、そこから南北に流れる黒潮を越えて八重山諸島へと航海し続けました。その後、潮の流れに沿った遥か遠い先に目的地である「東の島々」が存在することを悟ったことでしょう。その島々に渡るための準備をする最終拠点として聖地化された場所が、高天原でした。そこは大陸の最東端に繋がる拠点として、東の島々と大陸とを結び付ける接点となる場所でもありました。日本建国の礎を築いたイスラエルの民は、その拠点を高天原と呼び、そこを安息のための聖地として定めたのです。そこはイザヤの預言によって示された「東の島々」への玄関口となるだけに、その島ではひたすら神の祝福が求められ、天之御中主神が大切に祀られたことを古事記は証しています。
聖地、高天原では、天つ神々と呼ばれた国家のリーダーらが「東の島々」、すなわち日本列島を見出す為の船旅を計画し、そこで船団が再編されました。その結果、伊弉諾尊と伊弉冉尊を中心とする調査チームが、高天原から出港することになります。その後、伊弉諾尊により「矛で海をかき回させ、地を固める」ように、日本列島周辺の海域は網羅され、多くの島々が見出されて命名されることになります。古事記の冒頭にある「国生み神話」の真相は理解しづらい箇所が多いと考えられがちですが、高天原の物語を単なる神話として捉えるのではなく、むしろイスラエルからの渡来者が列島に到来したことを前提に文面を理解することにより、より一層、歴史の真相に近付くことができます。
高天原を沖縄と推定する10の理由
高天原は、神々が住まわれる聖地として一般的に解釈されています。古事記では高天原を天空高い天上界に存在する場所とし、人が住む世界は葦原中国、そして地中には根の国があるとしています。一見お伽噺のように聞こえる古事記の記述も、高天原を沖縄と捉え、根の国を大陸から根のように飛び出した朝鮮半島とし、南西諸島と北海道を除いた大八島国を葦原中国と解釈して記紀を読み直すと、思いのほか、これまで単なる神話と思われていた話が現実味を帯びた歴史書に様変わりしてきます。その大前提として、高天原の比定地が実際に存在することが重要な鍵となります。高天原は実在したのでしょうか。そこで沖縄に高天原が存在したと考えられる理由について、10項目に分けて考えてみました。
まず、高天原が実際に存在したとするならば、その場所は大八島国の島々の外、つまり九州より南の南西諸島や大陸となることに注目です。国生みの過程において定められた島々は淡路島を中心とする四国、九州、本州周辺の島々に限られています。高天原から天下ってそれらの島々が見出されたということは、高天原はそれら島々の枠の外に存在したことになり、可能性としては朝鮮半島か、アジア大陸か、南西諸島のいずれかになります。
古代における大陸から東方へ向けての人の流れを考慮するならば、アジア大陸の南方から台湾、八重山諸島を経由して北上してきたという説が、昨今の遺跡調査や、DNA鑑定により定説になってきています。その前提で歴史を見直すと、神代7代の時代においては、神々と呼ばれた西アジアのリーダーに導かれた民が祖国を離れて東方に旅を続け、最終的に台湾、八重山諸島を経由して、南西諸島を北上し、海の彼方に一大拠点を見出し、そこを高天原とした可能性が見えてきます。高天原は最終目的地である大八島国を見出す直前のベースキャンプとなり、そこから一行は島探しに出発したのです。その場所は無論、大八島国の圏外にあり、しかも、大陸より船で南西諸島を北上する際の航海路沿いにあったはずです。沖縄は正に大八島国への航路沿いに浮かぶ島として、高天原の比定地となる条件をクリアしています。
日本近海を流れる黒潮の海流図沖縄が高天原と考えられる次の理由は、日本列島の近海を流れ抜ける黒潮の存在にあります。太平洋から流れてくる黒潮の潮流は、台湾の東方から急展開し、沖縄諸島の西側を通って北東方向に流れています。黒潮はその後、屋久島付近からその南側を東方に向かい、四国足摺岬や室戸岬の近海から紀伊半島の南方に至り、潮岬からは南東に方角を変えて、八丈島の南側を越えてから再度北上し、房総半島の東を通り抜けて行くのです。その黒潮の強い流れを台湾の東海岸から横切り、八重山諸島に渡ると、その先には沖縄諸島が見えてきます。古代の民は、潮の流れの存在と、それがもたらす自然現象や人間社会への影響に早くから気付き、国生みの際にも島々の線引きをする為の重要な指標として参考にしたことでしょう。史書に記されている大八島国の島々が全て黒潮の北側に限定されているのは、その為と考えられます。すると高天原とは黒潮の流れを境として、その南側に位置付けられたとも考えられ、沖縄の存在がその候補地として浮かび上がってきます。
海の潮流が重要視された結果、国生み神話でも島々を探す過程を表現するにあたり、「塩」という言葉が用いられたのではないでしょうか。例えば古事記では、高天原にて神代7代が成り、天つ神一同は伊弉諾尊と伊弉諾尊に対し、「このただよへる国を修理し固め成せ」という勅命を下したのです。「ただよへる国」とは原文では「多陀用幣流之国」の漢字が用いられ、「多く連なり漂う島の流れ」であると考えられます。それらの島々を定め(固め)、整える(修理)というのが勅命の主旨です。その直後、伊弉諾尊の一行は高天原を旅立ち、その際、天の沼矛を指し下ろしてかき回し、塩をかき鳴らして引き上げると、その矛から滴る塩が積って島になったと書かれています(垂落塩之累積)。これは高天原、すなわち沖縄から大八島国に向かって黒潮が流れ、その潮流が北上する最北端の周辺を「塩が積る」場所と表現したのではないでしょうか。つまり「矛から滴る塩が積る」島とは、黒潮の流れの最北端に漂う島々のことを指し、それらが大八島国であったのです。太平洋から迂回してアジア大陸の東部を北方に向けて流れる黒潮は沖縄諸島を経由していることから、塩の流れの原点となる高天原が沖縄諸島周辺にあると想定することにより、史書の記述が理解しやすくなります。
また、高天原は空想の地とは思えないような現実的な記述が史書の中に多く含まれています。その内容は沖縄の地勢や文化的背景を考えても何ら矛盾するところがないことから、実際の話が編纂されたと考えられることが第3の理由です。神々に関する記述は、人間の実社会における生活様式がその背景にあったようです。伊弉諾尊は天照大神に対し、高天原を治めることを命じましたが、その後、高天原では天熊人によりもたらされた農作物により、粟、稗、麦、豆などの畑が耕作され、また、稲種が田に植えられました。そして秋の垂れた稲穂の爽快さについての記述も見られ、養蚕も始まったのです。そしてスサノオが姉の天照大神に会いに高天原に戻ってきた際には、天照大神は既に自分の田を所有しており、農事を営んでいたことも記されています。更に天照大神は神衣を織るという作業もこなしていたことから、機織りの場所も存在したのです。これらの記述からも、高天原は天界に存在する空想の場所ではなく、むしろ地上に存在し、そこで実際におきた人間生活に直接絡む出来事について記されたと理解できます。これらの記述に含まれる高天原の文化に関する内容は、全て、古代沖縄でも実現できたことであり、何ら違和感はありません。実際に多くの縄文・弥生遺跡が今も沖縄界隈で発掘され続けていることから、今後の研究成果に期待がかかるところです。
沖縄が高天原である可能性を示す第4の理由が、日本で育つ稲のルーツに潜んでいます。つい昨今まで、高度な稲作技術は西アジアから主に朝鮮半島を経由して日本列島に持ち込まれたと推定されていました。ところが昨今のDNA分析の結果からこれまでの説は覆され、現在では中国南部から南西諸島を経由して日本列島各地に普及したという考え方が定説となりつつあります。日本の稲の栽培種はジャポニカ稲ですが、その起源は東南アジア方面にあることもわかってきました。また、岡山県で発掘された遺跡からは、6千年前の陸稲である熱帯ジャポニカのDNAが見つかり、稲作の文化のルーツは古代縄文時代まで遡ることが証明されたのです。また、温帯ジャポニカに関わる様々なDNA分析の結果からは、朝鮮半島経由の伝播の可能性が否定され、やはり中国大陸の南方から南西諸島を経由し、黒潮ルートを通ってもたらされた可能性が極めて高いことがわかってきました。
古事記には、高天原にて稲が育てられ、天つ神々らが苗裔である天皇に与えた後、天皇が地上を支配するようになったことが記載されています。大陸から持ち込まれた稲作文化は日本列島に幅広く普及する前に、まず、高天原で稲が育てられていたのです。その稲作文化とは南西諸島を経由してもたらされたものであることから、そこに高天原が存在したとは考えられないでしょうか。琉球国由来記によると、沖縄では古代、アマミキヨにより海の彼方の理想国より稲が持ち込まれ、その後、受水走水(ウキンジュハインジュ)の水田に植えられたと伝えられています。それ故、その水田があった地は、今日まで霊域として毎年、親田御願と呼ばれる田植えの行事が行われているのです。これらの行事がもし、史実に基づいたものであるとするならば、沖縄における水稲を用いた稲作文化は弥生時代を遡り、縄文時代には既に紹介されていた可能性があります。
沖縄本島に近い伊平屋島では、「伊平屋は米を産する最も佳なり」と中国の史書にも記され、島の中心には田名と呼ばれる農業を主体とした集落が今日まで栄えています。22km2しかない小さな伊平屋島ではありますが、島の中心部には豊かな水源があり、古代の民もその地の利に目を留めたのでしょう。伊平屋島は現在でも、沖縄の数少ない稲作地帯に数えられています。また、つい昨今まで伊平屋島では稲作儀礼が残されていました。旧暦6月の「ナークチ」、9月の「ナーダニ」、そして10月の「種子取」等があり、毎年、収穫期の6月に儀礼のピークを迎え、島民は長年に渡り祀りごとを重視してきたのです。
古代の稲作文化が古くから沖縄界隈に根付いたことは、史書の記述内容と合致するだけでなく、大陸の文化が渡来者の流れと共に、南西諸島を介して南から北へと移動したという昨今の学説にも準じています。DNA分析の結果を後ろ盾とした稲作文化の歴史は、高天原がアジア大陸と大八島国の通過点となる沖縄にあったことを裏付けているのではないでしょうか。
次に高天原という名前の響きが、イスラエルからの渡来者にとっては先祖の故郷として著名なハランに類似していることに注目してみました。「信仰の父」として世界中で敬われてきたアブラハムは、故郷ウルの地を旅立ち、神が約束されたカナンの地に向かう途中、西アジアのタガーマ州にあるハランと呼ばれる町に長年、滞在しました。その場所の名称はタガーマハランであり、高天原の読み、「タカアマハラ」に酷似するだけでなく、神が示された約束の地に入る前に久しく滞在して安息に入るという主旨において、ハランと高天原は同等の役割を果たしたと考えられるのです。
アブラハムのケースをまず考えてみましょう。シュメールのウル第3王朝が歴史から姿を消す直前、神はアブラハムに対して、カナンの地へ向かうことを命じました。アジア大陸の西部をおよそ1500kmも移動するという長旅の途中、アブラハムは水源の自然にも恵まれたタガーマハランの地にて十数年滞在し、十分な休息を経てから最終の約束の地、カナンへと向かいました。それ故、ハランはアブラハムが約束の地に向かう前に過ごした場所としてイスラエルの故郷の地となり、人々の心に刻みつけられたのです。
アブラハムが体験したことと同様の歴史の流れを、日本の建国史においても見出すことができます。イスラエルの国家が崩壊する直前、神はイザヤを通じて国家の滅びを告知し、東の島々、聖なる山にて神を崇めることを伝えます。イザヤが語った預言を信じた南ユダ王国の祭司と王族らは、大陸の遥か彼方に存在する神の島々を求めて旅立ちました。そしてアジア大陸の東の端から台湾、八重山諸島へと渡り、黒潮を越えた南西諸島に到達した時点で大自然の恵み豊かな絶好の安息の地をそこに見出し、一旦、長旅からの休息に入ります。その場所が高天原、タカアマハラと呼ばれたと考えられます。その後、満を持して伊弉諾尊と伊弉冉尊の一行は高天原の地を離れ、そこから天下り、黒潮の流れに乗って南西諸島を北上し、島々が連なる先に淡路島を見出したのです。そこから国生みの歴史が始まりました。
沖縄の中心地はヘブライ語で安息を意味する「ナハ」です。そしてアブラハムがタガーマハランで安息の日々を過ごしたように、イスラエルからの渡来者も、長旅からの疲れを沖縄、高天原で癒したことでしょう。こうしてイスラエル史と日本の建国史を並行して考えることにより、神の導きが双方の建国の歴史の礎に見られるだけでなく、沖縄の位置付けが高天原である可能性が浮かび上がってくるのです。
次の理由として、高天原という漢字の意味から、天が高い、つまり太陽が高い場所であることが重要な地であるという前提で検証してみました。高天原は天照大神が統治された聖地である故に、太陽の位置付けが重要視されたことは言うまでもありません。沖縄周辺の緯度はおよそ26度。地軸の傾きはおよそ23度です。すると那覇では太陽の高度が最も低い冬至の日でも40度まで上がり、夏至の日には何と天空の真上、87度となります。つまり沖縄では、夏至の日に太陽が天空の中心を通って上り下りするのです。その真下に広がる沖縄の地は、正に高天原と呼ぶに相応しい場所と考えられたのではないでしょうか。よって、そこに「高い天の原」の漢字をあてたと考えられるのです。
また、沖縄の宗教的背景が高天原と呼ばれるに相応しい、日本で最も神秘的な宗教文化的背景に富んでいることが第7の理由です。高天原の地は、古代より神々と呼ばれた預言者や祭司、国家のリーダーらが長年滞在したこともあり、神がかり的な風習の多い地であったと考えられます。その例に漏れず、沖縄界隈の宗教文化は日本でも最古であり、祭祀を取りしきり、御嶽を管理する女性祭司のノロ(祝女)の存在や、多くの古代からの言い伝え、祀りごと等、宗教文化に最も富んでいる地域として広く知れ渡っているのです。更に沖縄にはイスラエルの神であるヤーウェーに対する、徹底した信仰の跡が見られます。八重山、八重島、八重垣、八重岩など、沖縄諸島の至る所には「ヤーウェー」と発音する言葉、地名が使われているだけでなく、年中行事の数は群を抜いて多く、イスラエルのカレンダーに準じて行われたと想定される行事も少なくありません。イスラエルの仮り庵の祭が背景にあると考えられ、12年に一度、5日間にわたって行われた久高島のイザイホーの儀式や、過越しの祭の伝承とみられる年の夜(トゥシヌユル)など、イスラエルの風習に起因すると思われる行事は少なくありません。沖縄は特異で複雑な古代の宗教文化を踏襲し、極めて信仰心に厚く、神や自然への深い畏敬の念を持つ地域であるだけに、正に日本の高天原と呼ばれるに相応しい島と言えるのではないでしょうか。
更に注目すべきは、沖縄を中心とする南西諸島では、古代より今日まで女性の宗教リーダーが活躍してきているということです。古くから御嶽の管理者であり宗教的リーダーとしてノロ、そしてシャーマンとも呼ばれる民間霊媒師としてユタと呼ばれる人々の存在が知られていますが、これら宗教リーダーの殆どが何故、男性ではなく女性であったのでしょうか。その理由は、沖縄と高天原を結び付けることにより、理解することができます。
国生みが始まる時が到来し、高天原より天下る民を人選する際、そこからの旅は長く危険であり、帰ってこられる保証が全くない一方通行の旅と考えられたことから、その旅団は男性リーダーを中心に組まれたのです。よって、高天原には多くの女性と子供、老人らが残されることになり、彼女たちはひたすら夫や仲間が島に戻ってくることを待ちわびたのです。しかしながら島を離れた男性の群れは戻ることなく、皆、国生みの為、そして東の島々を整える為に命を捧げたのです。成人男性が旅立ち、女性が主体となって取り仕切った高天原であったからこそ、その後、伊弉諾尊は天照大神に対して高天原を治め、管理することを命じたのです。その結果、高天原が存在した地域周辺では女性の宗教リーダーが強い影響力を持つという特異な文化が継続し、周辺地域の文化形成に大きな影響を与えることになりました。沖縄を中心とする南西諸島界隈では、女性優位の宗教文化が今日も続いており、それは高天原が遠い昔に存在した名残であると考えられます。
第9番目に挙げられる理由が、沖縄本島の北部に浮かぶ伊平屋島にある、クマヤ洞窟の存在です。江戸時代の学者、藤井貞幹が「衝口発」にて「神武天皇は琉球の恵平屋恵に生誕あそばされたり」とし、クマヤ洞窟が天の岩戸であるとも提言して大論争を巻き起こしました。全体的な内容には疑問点が多いものの、沖縄、南西諸島方面から本土へと日本へ文化が伝わってきたという前提に間違いはなく、中でもクマヤ洞窟に関しては別格の議論が必要です。
前面が崩れ落ちた痕跡を残すクマヤ洞窟クマヤ洞窟は一度でも現地を視察するならば、誰でもその荘厳で巨大な外観だけでなく、天の岩戸と言われるに相応しい洞窟内の形状に気付くことでしょう。しかも洞窟の正面は、その最上部分から10m以上の長さの巨石が裁断されたように滑り落ち、地面に落下した岩の残骸が洞口を塞いでいるのです。よって今日でも洞窟の中に入るためには、横ばいになって、残骸の岩を上り下りしなければなりません。洞窟は海抜25~30mの場所にあります。そして洞穴内部の幅は広い所で18m、天井の高いところは約12mもあります。更に洞長はおよそ63mも奥深く、海食作用が働いて浸食してできたものと考えられています。また、洞窟の中央奥には社殿が設けられ、その横には人工の石積の跡も残っています。専門家による現地調査によって残された課題はやはり、洞口の海抜高度が25m以上と大変高いことであり、よほどの海面変動がない限り、海食作用の影響を受けづらいことです。この点については謎に包まれたままです。
クマヤ洞窟が天の岩戸であるという説は、簡単に否定できません。日本各地で知られる天の岩戸に纏わる伝承地のいずれと比べてみても、クマヤ洞窟以上に天照大神がお隠れになったとされる天の岩戸らしい場所はないようです。また、クマヤ洞窟の前面には祭ごとが執り行われるに十分な広さの平坦な砂浜が広がり、島の最北端に突き出す巨岩でもあることから、目印としても際立っています。もし、沖縄が高天原の比定地であるならば、クマヤ洞窟が天の岩戸であったことにもなります。また、クマヤという名がヘブライ語で重要な意味を持つことにも着眼してみました。(khomah、コマ)という言葉は外壁、表の扉を意味するヘブライ語です。その語尾に神を意味する「ヤ」を足すことにより「コマヤ」、「クマヤ」という「神の外壁」を意味する言葉になり、正に天の岩戸に纏わるモチーフと一致するのです。これは単なる偶然とは思えません。巨石が崩れ落ちて入口を塞いだ跡が明確に残されている「神の外壁」、クマヤ洞窟は、沖縄が高天原であることを立証する存在にもなりうるのです。
第10の理由として、沖縄を高天原とすることにより、淡路島と出雲の結び付きを古代のレイラインから説明し、スサノオが高天原から出雲へと向かう根拠を解明できることが挙げられます。記紀によると、スサノオは姉の天照大神に会いに高天原を訪ねた後、そこで問題を多々起こし、天の岩戸の事件へと発展します。その後、高天原を追い出されたスサノオは出雲国へと向かい、そこで八岐大蛇と一騎打ちの対決をするのです。高天原を沖縄とすることにより、天の岩戸が伊平屋島に存在するだけでなく、沖縄からどのように出雲の地が見出されたか、そのヒントをレイラインから見出すことができます。
沖縄周辺には土地の指標となる幾つかの目印があります。まず際立つのが沖縄本島の西に浮かぶ伊江島の中心に突き出す城山(グスクヤマ)です。沖縄本島や伊平屋島からも山の頂きをくっきりと見ることができることから、大切な指標として用いられたことでしょう。もう1つの指標が伊平屋島のクマヤ洞窟近くにあるヤヘー岩です。「ヤヘー」という名はヘブライ語に由来し、「神」を意味することから、「神の岩」を意味します。このヤヘー岩と城山の形状を見比べてみると、ほぼ同じです。よってヤヘー岩の形状は人為的に削られてできたものであり、それが長い年月をかけて波による浸食を受け、現在の姿になっているものと考えられます。
城山とヤヘー岩を同形として結び付けた理由が、沖縄と出雲を結ぶレイラインにあります。城山を基点に、ヤヘー岩を通る線を北方に向けて一直線に引くと、出雲の八雲山にピタリと一致します。八雲山とは今もって禁足地であり、出雲大社の神体山であるという噂が絶えない、極めて重要な日本の聖地です。その出雲の聖地を見出すため、「神の岩」が指標として用いられたのです。こうして沖縄と出雲を結ぶレイラインの存在からスサノオの軌跡を辿ることができることも、沖縄が高天原であったことを証しています。
沖縄と出雲のレイライン
伊江島の城山と伊平屋島のヤヘー岩が、出雲の八雲山に直結