バーチャルリアリティーの果てしなき未来『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』

VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学
作者:ジェレミー ベイレンソン 翻訳:倉田 幸信
出版社:文藝春秋
発売日:2018-08-08
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PTSD、人間関係、身体問題、環境問題、弱者への共感、慢性疼痛、スポーツトレーニング、教育、などなど。バーチャルリアリティー(VR)はこれほどまで多くのことに応用できるのか。『オンデマンド経験-バーチャルリアリティーとは何か、それはどう機能して何ができるのか』という原題が示すように、VRはいとも簡単に必要な「経験」をもたらし、さまざまな応用が可能なのだ。

一度経験すれば、VRに対する見方がまったく変わると言われたことはあるが、いまだにその経験はない。たかがゲームを面白くする、あるいは、映像メディアの延長だろうと思っていたのは浅はかだった。VRのことをまったく知らなさすぎたといえばそれまでだが、この本の内容には心底おどろいた。

著者、スタンフォード大学心理学教授のジェレミー・ベイレンソンによると、VR経験は『メディア経験』ではなく『経験』そのもの」である。驚くべきことに、あくまで仮想空間での体験であっても、VRでの体験はあまりに強烈なために、脳も体も本物の体験だと認識してしまう。それを様々な目的に利用できるという。いくつかの事例を紹介しよう。

9.11の同時多発テロの仮想空間を構築する治療用VRが作成され、PTSD(心的外傷後ストレス障害)患者の治療に使われた。ある若い女性患者ではPTSDの症状が90%おさまった。十分な精神的トレーニングを積んでいたにもかかわらず、9.11の壮絶な経験からPTSDになった消防司令長の場合は、VR経験により「自分の死を心から確信する」ことがPTSDの原因だったことがわかり、記憶の修正にとりくむことができ、症状の大幅な改善につながった。

PTSDの治療には「暴露療法(トラウマ体験を再現して直面させる治療法)」と「認知行動療法(トラウマの受け止め方を修正する治療法)」を同時におこなうことが有効である。そのためには、PTSDをもたらした体験を正確に思い出す必要がある。しかしそれが難しい。そらそうだろう、なにしろPTSDなのだから、思い出すこと自体が怖い。その記憶を鮮明に蘇らせるためにVRが有効なのである。

この9.11の治療用VRは50人以上の治療に用いられ、想像力だけに頼った暴露療法よりも治療成果が大幅に向上することが示されている。この成功をうけて退役軍人のPTSD治療用に作られたVRは、すでに2,000人以上の治療に役だっているという。

幻肢痛(ファントムペイン)というのは、手足を失ってしまったにもかかわらず、その失った手足に痛みを感じる原因不明の症状である。この治療には「ミラーセラピー」がおこなわれる。たとえば、なくなった右手に痛みを感じる場合、鏡に左手を映して、それを右手だと脳に錯覚させる。そして、左手を動かして、右手がうまく動いているかのように脳を上手に騙してやる。そんなちゃちなやり方でと思われるかもしれないが、これがうまくいくのだ。

ただし、4割の患者では効果がない。この方法は、意図的にうまく錯覚する、先の例でいうと右手が本当に動いていると想像すること、が必要なのだが、それが不十分であるとうまくいかないらしい。しかし、VRを用いることにより、想像力なしでの治療が可能になる。

慢性疼痛の治療にも用いることができる。火傷などの後、すでに原因がなくなっているのに疼痛が長期に続くのが慢性疼痛である。その緩和にVRディストラクションという方法が有効である。早い話がVRで気を散らせて痛みを感じなくさせようというやり方だ。

痛みがあっても何か楽しいことをしていたら忘れることはよく経験する。それと同じことである。ビデオゲームでもある程度の効果はあるが、心身ともに仮想空間へと没頭できるVRの方がはるかに効果が高い。同じような方法は、苦痛を伴うリハビリにも応用が可能である。

夏休みにインド北部のラダック地方へ行ってきた。トレッキングで訪れた小さな村、水道はなく電気も不十分だった。それほど意識しているつもりはなかったのだが、帰ってきてから、明らかに水や電気の使用量を減らしたエコ生活になっている。

ラダックは遠い。それに3,500メートルほどの標高なので高度順応も必要である。そんなところまでわざわざ行かなくとも、VRで類似経験をさせるだけでエコ生活を自然と導入できるようになる。しかも、いったんVRが作られたら、費用はほとんどかからない。森林破壊を理解するために、チェーンソーで木を切り倒すVRを体験させると、実際に紙の使用量が減少したという研究がある。

そんなことわざわざVRで経験しなくとも、報道を見たりたり本で読んだらわかる、と思われるかもしれない。しかし、どうやら違うのである。もしそうなら、すでに、もっと多くの人がエコ生活を営んでいるはずだ。大多数の人は実際に経験したことに基づいてしか行動しない。いや、より正しくは、実体験であれVRであれ、経験したと脳に刻み込まれたことに基づいて行動するのである。

難民キャンプのVRを体験させて、難民への共感度をあげるというのも同じことである。もっとおもしろいのは、VRによる身体移転だ。VRを用いて、若者を高齢者のアバターへと「身体移転」させることが可能である。そういった体験をさせると、高齢者について肯定的になるというのだ。VRによっていともたやすく、文字通り、相手の立場にたつことができるのだ。

アバターを使って人間関係をよく円滑にできる可能性。VRを使うことによって、実際にプレーしているかのようにおこなうイメージトレーニング。過去の時代を再現したVRを用いての歴史教育。など、さまざまな実例があげられている。あまりに豊富な内容に、ホンマですかとつぶやきながら、ため息のつき通しであった。

ただし、恐ろしくもある。長時間VRの世界に身をおいていると、現実とVRの区別がつかなくなるというのだ。現状では20分以上VRを利用するのは控えたほうがいいらしい。言い換えると、VRにはそれだけものすごいインパクトがあるということだ。それに、VRが悪い目的で利用されてしまう危険性も多分にある。

映画とVRの違いが論じられている。何よりもいちばん違うのは没入できるかどうかである。VRは現実と同じように没入できる、いや、無意識のうちに没入てしまう。映画では、そうはいかない。もうひとつの大きな違いは、映画は作り手の意図によって一つの方向へと導かれていくのに対して、VRは個人が自分の動きで見たいものを見ることができるということ。VRは、決して映像の延長ではないのである。

VRを映画の歴史になぞらえると、1941年に公開されたオーソン・ウェルズの『市民ケーン』のレベルには到底達していなくて、リュミエール兄弟が映画を開発すべく実験を繰り返していた19世紀末くらいの時代にすぎないという。そんな幼弱な段階でここまでできるVR、はたして応用範囲はどこまで広がっていくのだろう。バーチャルリアリティー、その未来は果てしない。
 

脳のなかの幽霊 (角川文庫)
作者:V・S・ラマチャンドラン 翻訳:山下 篤子
出版社:角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日:2011-03-25
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 脳の不思議さを描いた古典的名著。VRは『脳の外の幽霊』といえるのかもしれない。 

 

VRビジネスの衝撃 「仮想世界」が巨大マネーを生む (NHK出版新書)
作者:新 清士
出版社:NHK出版
発売日:2016-05-07
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 もっとあってもいいはずなのだが、VRについての一般向け書籍は意外と少ない。

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