心理学が挑む偏見・差別問題(1)
社会問題への実証的アプローチ
Posted by Chitose Press | On 2018年08月24日 | In サイナビ!, 連載人種・民族,障害,ジェンダー,LGBTなど,さまざまなカテゴリーの人たちに対する偏見や差別が,メディアに頻繁に登場します。また,私たちの身近なところにも,多かれ少なかれ偏見や差別の問題が存在しています。2018年7月に刊行された『偏見や差別はなぜ起こる?――心理メカニズムの解明と現象の分析』(1)では,偏見や差別の問題に,心理学がどのように迫り,解決に道筋を描くことができるのかを,第一線の研究者が解説しました。その執筆に関わった4人の心理学者が,偏見や差別の問題に心理学が取り組む意義や,そこから見えてきた今後の課題を語ります。
「偏見」「差別」とは?
北村英哉(以下,北村):
偏見や差別が世の中のどういったところに存在するかを考えるうえで,偏見や差別という言葉や概念と結びついていない悪口や批判的言動もあるように思います。何か事件が起きたときにそれを非難したり批判したりすることがありますが,批判する本人は偏見や差別と呼ばないけれども,まわりの人が「それは差別だ」と指摘することがある。政治家の発言などもそうだと思います。本人としては,ただ何かを批判した,あるいは意見を述べただけだと思っている。偏見や差別に対する認識の薄さというものがあるように思います。
北村英哉(きたむら・ひでや):東洋大学社会学部教授。主著に,『社会心理学概論』(ナカニシヤ出版,2016年,共編),「社会的プライミング研究の歴史と現況」(『認知科学』20, 293-306,2013年),『進化と感情から解き明かす社会心理学』(有斐閣,2012年,共著)など。
高 史明(以下,高):
偏見や差別はネガティブな,してはいけないことというニュアンスがあるので,本人は差別だと思ってはしないですね。区別だと思っている。
高 史明(たか・ふみあき):神奈川大学非常勤講師,東京大学大学院情報学環特任講師。主著に,『徹底検証 日本の右傾化』(筑摩書房,2017年,分担執筆),『レイシズムを解剖する――在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房,2015年),「在日コリアンに対する古典的/現代的レイシズムについての基礎的検討」(『社会心理学研究』28, 67-76,2013年,共著)など。
大江朋子(以下,大江):
気づいていない要素が多すぎるように思います。普通に推測して誰かを判断するというだけで,偏見がかなり入ってくるということを知らない人が多いのではないでしょうか。最近はいろいろなところで,これが差別なんだとアピールする運動が出てくるようになってきたので,細かい差別が目に見えるものになってきているように思います。
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大江朋子(おおえ・ともこ):帝京大学文学部准教授。主著に,『社会心理学――過去から未来へ』(北大路書房,2015年,分担執筆),『社会心理学』(放送大学教育振興会,2014年,分担執筆),『個人のなかの社会』(展望 現代の社会心理学1,誠信書房,2010年,分担執筆)など。
北村:
東京オリンピックが近づいてきて,日本でもようやく自治体レベルにおいてもLGBT(2)が取り上げられ,注意が払われるようになってきたように思います。若い世代や大学の教員の中でも,そうした問題があることが以前よりも見えるようになってきたようです。一方で,いま私は私立大学に学費や入学金を払って入学してきた大学1年生に対して,集団に関する講義の中で貧困やマイノリティについて取り上げて,自分の生きてきた環境があたりまえで普通だと思っているとそれ以外の世界が見えないとか,世界には自分の身のまわり以外にいろいろなことがあるということを伝えているわけですが,リアクションペーパーを書かせると,「認識していなかった」「テレビで取り上げられていることは知っていたけれども,テレビの中の出来事のように思えて,実際に起こっている現実感がなかった」というコメントがあります。
大江:
大学で偏見やステレオタイプや集団間関係についての講義をした後に,コメントを学生からもらうと,「言葉にはできなかったけれども何となくそうかなと思っていたことをはっきり知ることができました」というコメントをもらいます。生活の中で偏見や差別を何となく感じ取っていて,「よくわからないけれども何かある」と思っているように感じます。そういう人もいる,ということかもしれませんが。
高:
差別という言葉は,道徳的にネガティブなニュアンスがかなり強いですね。差別がそれだけ重い意味をもっていること自体はいいことだと思いますが,偏見や差別は歴史的な事件や映画の中での大きな出来事に対して使う言葉であって,日常生活の中で生じるような対人間の誤解や衝突を偏見や差別と呼んではいけないという感覚があるように思います。
大江:
呼んではいけないというのは?
高:
たとえば,セクハラに関しても,研究者からすると,悪意があって相手を搾取しようとする悪い上司がするものとは限らず,本人は自然な恋愛だと思っているけれども相手の権利を侵害する場合も該当するわけですが,一般の認識では,セクハラは故意に悪質な搾取をする場合だけだと思っていると思います。言葉の重み自体は大事なのですが,重いからこそ身近な現象として捉えにくいということはあると思います。
大江:
セクハラがこんなものだと,いろいろなところで言われているけれども,残念ながらそうは認識されていないということでしょうね。
唐沢 穣(以下,唐沢):
日常的な言葉としては,差別という言葉がきついですよね。いま言われたように,悪いことだと思っているけれども,そこまできついことをしているわけではないという意識があるのではないでしょうか。だから,認識されにくい。
唐沢 穣(からさわ・みのる):名古屋大学大学院情報学研究科教授。主著に,『責任と法意識の人間科学』(勁草書房,2018年,共編),The emergent nature of culturally meaningful categorization and language use: A Japanese-Italian comparison of age categories(Journal of Cross-Cultural Psychology, 45, 431-451,2014年,共著),『社会と個人のダイナミクス』(展望 現代の社会心理学3,誠信書房,2011年,共編)など。
高:
差別的な発言をついうっかりした際に,「それは差別だ」と指摘されると,まるで故意に暴行罪でも働いてそれを非難されているかのような反発を感じるのではないでしょうか。インターネット上でもあると思います。
北村:
2015年に翻訳した『心の中のブラインド・スポット』(3)でバナージが,IAT(潜在連合テスト)(4)で測定されるものとして,「差別」ではなく「集団間のバイアス(偏り)」という言い方をしている。アメリカにおいても,「差別」というと人種差別がすぐに想起され,昔のもっとひどい時代も思い出されるから,そこまでのことをしているわけではないと本人も抵抗を感じるものをどういう言葉で表現するか,という問題はあると思います。「差別」ではなくとも,悪影響のあるバイアスを人はもっていて,それ自体を問題にできるということだろうと思います。