スーパーボランティア・尾畠春夫さんが語った「壮絶なる我が人生」

私が被災地に行く理由【前編】
週刊現代, 齋藤 剛 プロフィール

帰るところなんてなかった

私は昭和30年に中学校を卒業すると、卒業式の翌日に別府にある魚屋の小僧になりました。自分の意志ではありません。働くことになったきっかけは姉の紹介です。

「働きに出たい」と相談すると、姉から「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と言われたんです。自分にとって姉の言葉は親の次に重い。もとより姉のことを信用していたので、それに従いました。

SL汽車で別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされました。「珍しく大盤振る舞いだな」と喜んだのも束の間、すぐに30円は片道切符代だとわかりました。特攻隊と一緒です(笑)。自分には帰るという選択肢はありませんでした。

地元住民との交流も

ただし、それまでが極貧でしたからね。魚屋に就職し、食事にあらの煮つけが出たのを見て驚きました。それまで毎日芋とカボチャでしたからね。こんなうまいものがあるのかと衝撃を受けました。

別府の魚屋で3年間修業した後、山口県下関市の魚屋で3年間ふぐの勉強をしました。さらに兵庫県神戸市の魚屋で関西風の魚の切り方やコミュニケーション術を4年間学んだ。私は10年修業した後に魚屋を開業するつもりでした。

ところが当時、貯金はゼロに近かった。というのも、魚屋の給料は安く、開業資金をまったく準備できなかったんです。

 

そこで、開業資金を短期間で用意するために上京しました。お世話になったのは、大田区大森にあった鳶と土木の会社です。もちろん、コネなんてありませんから、そこの親父さんに「俺には夢があります。3年間働かせてください。その代わり、絶対に『NO』と言いません。どんな仕事でもやります」と直談判しました。

鳶や土木の仕事の経験は、いまのボランティア活動に役立っているかもしれませんね。ありがたいことに、会社から「このまま残って頭(かしら)になれ」と熱心に誘っていただきましたが、自分は決めたことは必ず実行するのが信条。これはいまも昔も変わりません。その意味では、面倒な男かもしれません。 

結局、昭和43年、大分に戻り、4月にかみさんと結婚。そして、その年の11月に自分の魚屋を持ちました。名前は『魚春』です。二文字をくっつけると鰆(さわら)。もちろん、自分が一番好きな魚です(笑)。