かつて『夏祭り』が大ヒットし日本中を席巻した、北海道・北見発のガールズバンド「Whiteberry」。いまも同曲が夏の定番ソングとして定着していたり、いまでも彼女たちのCDを聞いているという根強いファンも多いようです。そんなWhiteberryは間もなく、1994年の結成から20年、2004年の解散から10年を迎えます。今回はボーカルを務めた前田由紀さんに、解散後いまだから言えることを語ってもらいました。前編ではWhiteberry時代の10年を振り返り、後編では解散後現在までのソロ活動を振り返ります。
前田由紀(まえだゆき)
Whiteberry(ホワイトベリー)
結成―原点は地元のお祭りでの演奏
― 結成当時は「ストロベリーキッズ」という名前でした。最初はどのようなスタートだったのですか?
稲月彩(ギター)が一人でギターをやっていたんです。彼女は父親に教えてもらって子供ギターを弾いていたそうですが、『せっかくだからバンドを組みたい』という父親の意向で、彼女の母親がやってる子供服屋に『バンドメンバー募集』の貼り紙を出したのが始まりです。メンバーはいろいろ変わって、多くて6人だったこともあるようです。私は後から入って、Whiteberryの最終的なメンバー5人が固まりました。
― 当時の活動を振り返って、子供ながらに覚えている思い出って何かありますか?
当時は「JUDY AND MARY」とかのカバーだけで、北見ぼんちまつりとか北見のお祭りで演奏してました。虫が飛んできたり、雨が降ってきてお客さん一人もいないとか、終わったら焼き鳥のおじさんが差し入れてくれたりしたのを覚えてます。小中学生でライブハウスには出られないので、週末に昼間のお祭りに出るという『お祭りバンド』でした。
当時は、お祭りに来ている家族とかが、歩きながら見ているという感じです。『あー小学生バンドだ』みたいな感じで見ていましたし、同世代の子が『わーすごい!同い年なのに楽器弾いている』というのは感じてました。同世代はみんな知っていたと思います。友達が見に来てくれたこともあります。
練習は、メンバーの父親の家が演奏できる喫茶店をやってて、週3回夜に集まってしていました。3人学校が一緒で、ほか2人は近い学校だったんですけど、学校終わった後にメンバーが集まって、練習して、ギターの子の母親が料理を作ってくれてて。家族よりも誰よりも一緒にいたメンバーでしたね。とにかく楽しかったです。
メジャーデビュー―とにかく楽しかった記憶しかない
― メジャーデビューのきっかけは、とあるテレビ番組だったそうですね。
一般人が投稿するウッチャンナンチャンのテレビ番組『投稿!特ホウ王国』があったんですが、ギターの子の母親が『こんな田舎にガールズロックバンドいますよ』と投稿したのが採用されて、テレビに流れたんですよ。『普段は学校に行っているのに、夜になると変貌してバンドやってる』みたいな。
そのテレビをソニーレコードの人が見てくれてたようで、北見まで来て、私たちの親たちと話し合いをして決めたようです。子供だから難しいことはわからなかったのですが、テレビに出ることはわかってました。『わー、東京行けるんだ、やったー』という、修学旅行の雰囲気だったのを覚えてます。それが小学6年の時でした。
― デビュー後の生活は学校との両立もあってかなりハードだったんでしょうね。
とにかく忙しかったですね。金曜日まで学校通って、金・土・日は東京、この生活を毎週でしたから。今となってはあまり覚えていないですが、疲れていたけど楽しかった記憶だけ残ってます。北見に帰ってくると普通の学生に戻るんで、意外とみんな普通でした。昔からストロベリーキッズとしてやってきていたので、その延長という感じでやってました。
― 曲作りについても聞きたいんですが、いま全曲を振り返って、思い入れのある曲はありますか?
「JUDY AND MARY」の恩田さんがプロデュースしてくれたのですが、そのときにはじめて私たちで作詞を考えました。メンバー5人でそれぞれ書いて、最終的にまとめてくれるという流れです。自分たちがそのままの言葉で書いていたので等身大です。今となっては子供っぽいといわれるかもしれないですが、当時のままの歌詞を書いていました。
「桜並木道」(5th)は、みんなではじめて曲も作って出したシングルなんですけど、春の卒業みたいな感じで、5人で作った曲なのでお気に入りです。これは今でもたまに歌っています。一人で書いたものもあります。「あくび」(4th)「空の飛び方」(1st)「携帯中毒」(5th)「ちこくのうた」(2nd)「それだけなんだけど」(2ndAlbum)は私が一人で書いた曲です。特に「空の飛び方」は、中学1年の時に書いたんですけど、意外と反響があってうれしかったですね。
― 地元での反響を感じることはありましたか?
忙しかったので、みんながCDを買って聞いてくれているのかすらわからないくらいでした。今になって、同い年の人がみんな聞いてくれていたことに気づいているという状況です。10年たっているのに、今でも聞いてくれたり、これからも頑張って、という反応を頂くことがあってびっくりすることがあります。ありがたいことに、『夏祭り』は今でもラジオなどでもかけてくれています。定着しているなと感じられるのは今でもうれしいです。当時はそれを聞く時間も余裕もなかったですからね。
再結成にはかなり前向きです
― 解散を決意したのはなぜ?
ちょうど高校卒業の時期で、大学に行く人、東京に行きたい人、気持がバラバラで、それだったら、みんな好きなことやろうということで解散しました。
(北見での)ラストライブは、悲しかったけど晴れ晴れとしてて、『あーみんなこれで終わりだー」という感じで、感覚的には学校を卒業する感じでした。これから先のことしか見えなかったです。特に決まっていたわけではないですけど、でも先の希望もありました。私はずっと歌い続けていきたいと思っていて、とりあえず東京に行こうと考えてました。
― いまほかのメンバーの近況は?一緒にやってたらよかったと思うことはありますか?
ほかのメンバーは全く音楽やってません。私一人だけ。 一緒にやってれば……とかは思いません。結婚している人もいるし、子供がいる人もいるし、みんな幸せになってよかったなと思って。あの時期にがーっと楽しいことをやったということであって、バンドを仕事するためにやってきたわけではないし、それぞれの道を行ったほうがみんならしい。それぞれの道に行ってよかったなと思います。もしまたやりたくなったら、『ちょっと一日だけでもライブしない?』と言えばできると思うんです。みんなわかりあった仲間ですし、そんな簡単には関係は崩れないんで。
― ということは、Whiteberry再結成を考える?
ぜんぜん考えます、考えます。呼びかけたりしています。『来年やろうよ』とか。でも、なかなかメンバー5人で揃うのは難しくて……。一人でも欠けるのは嫌なんです。私はいつでもできますけど、ほかのメンバーは事情もあるし、いま3人は北海道、私含めて2人は東京と、場所も遠いので。
それでも前向きではあります。私はいつでも呼びかけてます。「再結成して」という声は、私が一番よく聞くんで。やるなら、北海道と東京でやりたいですね。最後(ラストライブ)が北見だったんで、始まりは北見でいいんじゃないかなと。東京にもファンがいるんで東京でもやりたいなと思います。楽しくないと意味がないんで、みんなで楽しんでやりたいです。
― 解散10年、当時を振り返ってみて、いまだから思うことはありますか?
あの歳でやれてよかったなと思います。普通は、音楽を職業にして音楽で食べていきたいという目標で、10代で高校を卒業して東京に出ていくじゃないですか。でも私たちはその逆で、その前に音楽で生活していて『売れたい』というのもない、その中でただ楽しく、まっすぐな歌詞を書いて、5人で楽しく演奏をするということに没頭できたので、すごくよかったなと。
学生なのに仕事をいっぱいして大変でしたけど、純真無垢で何も気にせず音楽をできたのは幸せだったなと思います。当時はそんな意識はなかったですけど、今思えば、ほかの人にはできない経験だったなと。紅白歌合戦出場も緊張しましたけど、その経験は貴重でした。いまでは私の財産です!宝物です!
次回の後編では、Whiteberry解散後の東京での寂しい生活、そこから脱出できた理由、解散直後は歌えなかった『夏祭り』を再び歌えるようになったいきさつ、現在の近況を語ります。