2012年10月21日
声に出して読みたい赤色交渉
菊池寛実という一般に炭鉱主として知られる人物がおりました。 参考
戦後、昭和20~30年代にかけて、南俊二・大谷米太郎と並び 「日本の三大億万長者」 と並び称された人で、昭和20年代の石橋湛山の資金源でもあったそうです。
さて億万長者にはどうしたらなれるのか、とその評伝を読んでみました。
怒濤のごとく ― 菊池寛実の不屈の生涯 (早乙女貢、2008)
結論からいうと、自身の経営による実業(炭鉱、水運、電力など。いずれも最大手ではない)の利益ではなく、昭和10年代の前半には株式相場で勝ち、昭和20年代は財閥解体で放出された株を入手し後に売却、これらの利益で企業を買収し財をなしたようです。マジメに働いてもお金持ちにはなれるけれども、やはり大金持ちにはなれないんだな、というのが実感。
[以下、同書より引用]
(昭和6年、世界恐慌の影響で)炭鉱も汽船も水郷(※茨城県潮来の観光開発)も、不況の影響を受けて、賃金の繰延や、資金不足からの事業縮小や連鎖倒産で寛実はその対応に追われる日々になっていた。もっとも寛実を悩ませたのは辰ノ口炭鉱と、東京通運の労働争議だった。
※引用注:東京通運(水運業、前社名は内国通運)は
後の日本通運のルーツのひとつ。 参考:日通 沿革
東京通運の船員たちがストライキに入ったのは11月早々のことである。(略) 2年近くも、賃金の分割払いになってて、それも滞りがちになっていたので、いよいよ堪忍袋の緒が切れたというところだった。
(略)
各地での労働争議がしだいに血生臭くなっているので警視庁は、
「交渉は警察署内でやるがよい」
といって、交渉の場を提供したほどである。
(略)
この労使交渉は大きく新聞に写真入で掲載されて、社会ダネになったが、この争議が関心を持たれたのは、労農党などから組合応援のものたちが弁士となって乗り込んできたからである。
労農大衆党からは、麻生久、加藤勘十、三輪寿壮、中村高一などのちに戦前戦後の革新系の代議士や弁護士として活動した猛者たちであり、当時の労働争議の猛々しさがこの顔ぶれからだけでもうかがえる。
かれ(寛実)は逃げ隠れすることなく堂々と対峙した。(略)世界の赤化を企むコミューンの連中たちと、生活難にあえぐ生活労働者を区別して、対応するのが巧みだった。
こうした寛実を知らず、赤旗を翻して乗り込んできた男たちの中には(略)
「資本家の豚を霞ヶ浦に叩き込め」
と叫ぶものもあった。中には図に乗って、寛実の机を叩いて吠えた。
「どうじゃい、蜆(しじみ)と心中させたろか」
(菊池)「やってみるか、霞ヶ浦は、わが家の池のようなものだ。冬でも泳いどるから、深いところ浅いところみんな知っとる」
<以上引用>
◆良識ある勤労者ながら、いまブラック企業でコキ使われている方は
「蜆と心中させたろか」 という気持ちで力強く生きていただきたい。
(実行しちゃダメですよ)
日本共産党と社会民主党はいまや頼りにならないのでお気をつけの上で。
▼菊池寛実は戦後、葛飾瓦斯(現京葉ガス)の買収もしており、その辺りの話から。
当時(※昭和20年代末)の日本共産党の中小企業へ入り込む手口は、会社の民主化を口実に、労働者のサボタージュはもとより、計画倒産、取り込み詐欺、融通手形の乱発など、あらゆる反資本の論理で、絞るだけ絞りとり、共産党の運動資金にして、挙句の果ては倒産させて、市場を混乱させるというものだった。
(葛飾瓦斯に共産党が入り込んだが)通産省の役人たちは(京葉瓦斯を買収することでによる問題解決を)東京瓦斯に一蹴されると、困り果てて、寛実のところに頼みに来た。
昭和20年代後半の日本共産党の行動派左翼学生らの支援で傍若無人の会社荒らしをして、日本の経済界を苦境に落としいれていたが(略)共産党の資金作りのターゲットとされた会社は、結局つぶれるしかない。
つぶすことで横領背任の事実をくらまして、次の会社をねらうという、共産党のこの戦術は 「トラック部隊」(党の地下組織である「特殊財政部隊」の暗号名)と呼ばれていた。会社の資産を運び出して、日本共産党の資金にするという意味がこめられていたらしい。
<以上引用>
▼関連リンク
菊池寛実記念館 智美術館
※菊池智は寛実の孫で、京葉ガス会長。
〇あやしい人たち インデックス
戦後、昭和20~30年代にかけて、南俊二・大谷米太郎と並び 「日本の三大億万長者」 と並び称された人で、昭和20年代の石橋湛山の資金源でもあったそうです。
さて億万長者にはどうしたらなれるのか、とその評伝を読んでみました。
怒濤のごとく ― 菊池寛実の不屈の生涯 (早乙女貢、2008)
結論からいうと、自身の経営による実業(炭鉱、水運、電力など。いずれも最大手ではない)の利益ではなく、昭和10年代の前半には株式相場で勝ち、昭和20年代は財閥解体で放出された株を入手し後に売却、これらの利益で企業を買収し財をなしたようです。マジメに働いてもお金持ちにはなれるけれども、やはり大金持ちにはなれないんだな、というのが実感。
[以下、同書より引用]
(昭和6年、世界恐慌の影響で)炭鉱も汽船も水郷(※茨城県潮来の観光開発)も、不況の影響を受けて、賃金の繰延や、資金不足からの事業縮小や連鎖倒産で寛実はその対応に追われる日々になっていた。もっとも寛実を悩ませたのは辰ノ口炭鉱と、東京通運の労働争議だった。
※引用注:東京通運(水運業、前社名は内国通運)は
後の日本通運のルーツのひとつ。 参考:日通 沿革
東京通運の船員たちがストライキに入ったのは11月早々のことである。(略) 2年近くも、賃金の分割払いになってて、それも滞りがちになっていたので、いよいよ堪忍袋の緒が切れたというところだった。
(略)
各地での労働争議がしだいに血生臭くなっているので警視庁は、
「交渉は警察署内でやるがよい」
といって、交渉の場を提供したほどである。
(略)
この労使交渉は大きく新聞に写真入で掲載されて、社会ダネになったが、この争議が関心を持たれたのは、労農党などから組合応援のものたちが弁士となって乗り込んできたからである。
労農大衆党からは、麻生久、加藤勘十、三輪寿壮、中村高一などのちに戦前戦後の革新系の代議士や弁護士として活動した猛者たちであり、当時の労働争議の猛々しさがこの顔ぶれからだけでもうかがえる。
かれ(寛実)は逃げ隠れすることなく堂々と対峙した。(略)世界の赤化を企むコミューンの連中たちと、生活難にあえぐ生活労働者を区別して、対応するのが巧みだった。
こうした寛実を知らず、赤旗を翻して乗り込んできた男たちの中には(略)
「資本家の豚を霞ヶ浦に叩き込め」
と叫ぶものもあった。中には図に乗って、寛実の机を叩いて吠えた。
「どうじゃい、蜆(しじみ)と心中させたろか」
(菊池)「やってみるか、霞ヶ浦は、わが家の池のようなものだ。冬でも泳いどるから、深いところ浅いところみんな知っとる」
<以上引用>
◆良識ある勤労者ながら、いまブラック企業でコキ使われている方は
「蜆と心中させたろか」 という気持ちで力強く生きていただきたい。
(実行しちゃダメですよ)
日本共産党と社会民主党はいまや頼りにならないのでお気をつけの上で。
▼菊池寛実は戦後、葛飾瓦斯(現京葉ガス)の買収もしており、その辺りの話から。
当時(※昭和20年代末)の日本共産党の中小企業へ入り込む手口は、会社の民主化を口実に、労働者のサボタージュはもとより、計画倒産、取り込み詐欺、融通手形の乱発など、あらゆる反資本の論理で、絞るだけ絞りとり、共産党の運動資金にして、挙句の果ては倒産させて、市場を混乱させるというものだった。
(葛飾瓦斯に共産党が入り込んだが)通産省の役人たちは(京葉瓦斯を買収することでによる問題解決を)東京瓦斯に一蹴されると、困り果てて、寛実のところに頼みに来た。
昭和20年代後半の日本共産党の行動派左翼学生らの支援で傍若無人の会社荒らしをして、日本の経済界を苦境に落としいれていたが(略)共産党の資金作りのターゲットとされた会社は、結局つぶれるしかない。
つぶすことで横領背任の事実をくらまして、次の会社をねらうという、共産党のこの戦術は 「トラック部隊」(党の地下組織である「特殊財政部隊」の暗号名)と呼ばれていた。会社の資産を運び出して、日本共産党の資金にするという意味がこめられていたらしい。
<以上引用>
▼関連リンク
菊池寛実記念館 智美術館
※菊池智は寛実の孫で、京葉ガス会長。
〇あやしい人たち インデックス
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この記事へのコメント
1. Posted by くれど 2012年10月21日 10:36
ネズミの国の裏話は?
2. Posted by k_guncontrol 2012年10月21日 14:46
都合の悪そうな話は書いてありませんでした。
『占領を背負った男』タイプの本ですね要は。
『占領を背負った男』タイプの本ですね要は。