【昭和天皇元侍従の日記】共同通信配信記事見出し詐欺と共産・志位委員長の呟き
★戦争責任「言われつらい」
晩年の昭和天皇が吐露
日本経済新聞 2018/8/23
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34467630S8A820C1CR8000/
昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に
「仕事を楽にして
細く長く生きても仕方がない。
辛いことをみたりきいたりすることが
多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、
戦争責任のことをいわれる」
と漏らしたことが、元侍従の故小林忍氏の日記に
記載されていることが分かった。
共同通信が22日までに、
小林氏の日記を入手して判明した。
日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が
晩年まで戦争責任について気に掛けていた
心情が改めて浮き彫りになった。
87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、
昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、
当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は
昭和天皇の負担軽減策を検討していた。
この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。
小林氏はその場で
「戦争責任はごく一部の者がいうだけで
国民の大多数はそうではない。
戦後の復興から今日の発展をみれば、
もう過去の歴史の一こまにすぎない。
お気になさることはない」と励ました。
既に公表されている
先輩侍従の故卜部亮吾氏の日記にも、
同じ4月7日に
「長生きするとろくなことはないとか
小林侍従がおとりなしした」とつづられている。
宮内庁長官だった
故富田朝彦氏が残した「富田メモ」は
「昨夜当直小林(忍)侍従に、
弟を見送り戦争責任論が未だ尾を引き、
そして負担軽減云々で
長生きしすぎたかと洩らされた旨」と記す。
日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、
誰から戦争責任を指摘されたのかについての
記述はない。
直近では、86年3月の衆院予算委員会で
共産党の衆院議員だった故正森成二氏が
天皇の責任を追及、
これを否定する中曽根康弘首相と
激しい論争が交わされた。
88年12月には長崎市長だった故本島等氏が
「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、
波紋を呼ぶなど晩年まで度々論争の的になった。
小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった
74年4月から、側近として務めた香淳皇后が
亡くなる2000年6月までの26年間、
ほぼ毎日日記をつづった。〔共同〕
共同通信配信記事の各社のタイトル
朝日新聞
「昭和天皇『戦争責任のことをいわれる』
侍従が発言記す」
毎日新聞
「晩年の昭和天皇吐露
『戦争責任言われつらい』」
東京新聞
「『長く生きても…戦争責任いわれる』
昭和天皇85歳 大戦苦悩」
日本経済新聞
「戦争責任『言われつらい』
晩年の昭和天皇が吐露」
産経新聞
「細く長く生きても仕方がない。
戦争責任のことをいわれる」
元侍従の故小林忍氏の日記の走り書き。
日本語的には
宮内庁長官だった故富田朝彦氏が残した
「富田メモ」にあるように
85歳になられた昭和天皇が
宮内庁の公務負担軽減策の検討に対し
「細く長く生きても仕方がない。」
続く「辛いこと」とは、
「弟を見送り、戦争責任論が未だ尾を引き」と
近親者の不幸が続き、弟宮の高松宮を亡くされ
戦争責任を言われる事がお辛いのではなく
未だに、戦争責任論が尾を引き
国会で論戦が起きたり、マスコミが騒いでいて
国論を二分するような情勢を見聞きすることが「辛い」
という意味では?
共産党の衆院議員・故正森成二氏の
天皇の責任を追及とは
1986年3月8日の第104回国会 予算委員会での
昭和天皇の在位60周年祝賀行事の是非を
巡っての中曽根総理との国会論争だった。
「天皇の戦前二十年の地位と
戦後四十年の地位というのは憲法上全く異なる」と
近衛文麿の伝記などを元に戦争責任を追及し
昭和二十三年六月十三日の朝日新聞記事を元に
東京大学法学部卒の共産党系自由法曹団の弁護士から
共産党衆議院議員になった正森成二は
”南原繁東大総長は、
天皇退位を国民感情とし、
「私は天皇は退位すべきであると思う、
これは私一人ではなく
全国の小学教員から
大学教授に至るまでの
共通意見となっている」”と
昭和天皇の在位60周年を祝うことが
国民の自然な想いであるという総理の主張は
おかしいという論戦。
近衛文麿は、
日米開戦直前に発覚したゾルゲ事件で
検挙され、刑死した朝日新聞記者・尾崎秀実を
ブレーンにしていた。
尾崎は共産主義者で、コミンテルンの指示で諜報活動や、
日本軍の北進(ソ連侵攻)を阻止する工作活動をし
「対中国強硬論」「対米開戦論」を声高に主張していた。
ソ連を日本から守る一方、日米両国を戦わせて
双方を自滅させ、戦後の世界をソ連が支配するために
狂奔していた。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140918/dms1409180830008-n1.htm
★近衛文麿ブレーンは
朝日新聞と東大法学部
https://blog.goo.ne.jp/akatsukida/e/19abfe3271d31f8723a6ed8294958191
東大総長だった南原繁とは
★吉田首相、南原繁東大総長を
「曲学阿世」と非難
毎日新聞 1950年05月03日
http://showa.mainichi.jp/news/1950/05/post-7820.html
★キリスト教の片棒・南原繁
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section2/chapter2/clause3/000394.html
南原繁の大演説
喜んだマックス・W・ビショップは、バーンズ国務長官に
「南原博士は最近キリスト教の講座を
東京帝大に設ける提案をしました」
「南原演説は
いま訪日中のアメリカ教育使節団から
〝勇気があり、優れた、そして前向き〟
の考えとして賞讃されています」
と報告している。
南原は、日本教育を激変させた
米国教育使節団と協力した
「日本側教育家の委員会」の委員長を務めた。
(引用ここまで)
★東大に、キリスト教講座を!
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section2/chapter2/clause3/000393.html
キリスト教は輝かしく復活し、
「偶像崇拝の神道」(マッカーサーの言葉)は
埋葬された。
国家神道に染まっていた教師は追放され、
キリスト教徒の教師たちが大量生産されるべきだった。
マッカーサー元帥は当然そう考えた。
南原繁東京帝大総長も同じ考えであった。
(中略)
「新しい日本文化の創造」
1946年2月11日、建国記念の日に、
キリスト教徒である南原総長は
「新しい日本文化の創造」と題する長い演説を
東大生たちに行なった。
「人間性の涵養だけでは真の人間としての
覚醒に達することは不可能であることを
自覚しなければならない。
真の覚醒は神を発見し、その発見を通じて
自己を神に従わせることによってのみ、
可能なのである。
日本に緊急に必要なのは宗教改革である。
国粋主義的な日本的神学からの解放には
別の宗教が必要なのだ」
「別の宗教」とは「キリスト教」。
日本土着の宗教の弱さを示す証拠として、
南原は敗戦を指摘した。
宗教が貧弱だから武力の戦いに負けた、と言う。
(続きはリンク先で)
★現代日本のキリスト教
http://www.tenjounoao.com/jhistory/history22.html
マッカーサーとキリスト教
GHQの宗教政策は政教分離を建前としていましたが、
アメリカ聖公会の熱心な信者であったマッカーサーは、
日本が共産革命を免れ、民主化されるためには
キリスト教化以外の道はないとの信念を持っており、
キリスト教の伝道に対して全面的な好意を示しました。
そのためGHQの意向を敏感に感じ取った
日本の支配者層には、
キリスト教に対する態度を豹変させる者が現れ、
賀川豊彦が内閣参与に迎えられたり、
無教会派の南原繁が
東京大学総長に就任したりしました。
1947年には新憲法に基づく初の衆参両院の総選挙が
されたのですが、第一党となった社会党の総裁で、
総理大臣に就任した片山潜と、
衆議院議長を務めた松岡駒吉は、
同じ教会に通う信徒でした。
同時に皇室もキリスト教に急接近し、
国民の間にもキリスト教ブームが起きました。
(引用ここまで)
隠れキリシタンの末裔のクリスチャン市長も
★本島等
https://ja.wikipedia.org/wiki/本島等
発言の
「天皇にも戦争責任はあると思う。
しかし、日本人の大多数と連合国軍の
意志によって責任を免れ、
新しい憲法の象徴になった。
私どももそれに従わなければならないと
解釈している。」とする主旨を、
マスメディアは
「天皇の戦争責任はあると思う」
を強調して報道した。
(続きはリンク先で)
1960年代に「安保反対」を叫んだマルクス主義の
活動家達は、やがて教会に浸透し乗っ取っていく。
★キリスト教の左傾化
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150402
(引用開始)
1966年、「日本基督教団」は「戦責告白」を行い
大きく左旋回した。
「日基」は中核派の教会幹部たちによって、
天皇制反対、成田空港建設反対、部落差別反対、
資本主義反対、靖国反対などの
いわゆる「社会派」路線に乗せられた。
1969年秋には大阪万博(1970年)での
キリスト教館設置案に反対する
ゲバ棒、ヘルメット姿の牧師たちが
大阪、東京で教団集会を「粉砕」した。
(引用ここまで)
★正森成二 と
衆院比例中国ブロック選挙
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1704.html
元来正森は党派性を隠した弁護士だった。
大阪の地で解放同盟の弁護活動もやってきた。
志賀派の幹部の何人かとは
特に信頼関係にあった。
(引用ここまで)
★志賀義雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/志賀義雄
共産主義運動の活動家。衆議院議員、
日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長
などを務めた。
ソ連共産党から資金援助を受けていた。
退院し日本共産党の党務に復帰早々、
叔父がソ連のスパイだった志位委員長が
自身の歴史認識を呟いたのがコチラ
★志位和夫「昭和天皇は、中国侵略でも
対米英開戦決定でも侵略戦争拡大の方向で
積極的に関与した。
戦争末期の45年に入っても
戦争継続に惨害を広げた」
2018-08-24
https://snjpn.net/archives/64195
★【産経抄】8月25日
http://www.sankei.com/column/news/180825/clm1808250003-n1.html
(引用開始)
▼志位氏は「歴史の事実だ」とも記すが、
果たしてそうか。
実際は、昭和天皇は日米開戦には非常に消極的だった。
開戦も辞さないと決めた16年9月6日の御前会議では、
明治天皇の御製(ぎょせい)を詠じて
平和を望む思いを訴えた。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ」。
(中略)
▼当時、天皇への上奏には
「拝謁」と「書類」とがあった。
元大本営陸軍部参謀の故瀬島龍三氏からは、
日頃の昭和天皇の振るまい方について
こんな話も聞いた。
「書類上奏で裁可が下りなくても、
軍部は何度も同じ書類を出した。
すると、立憲君主であろうとした陛下は
最後は裁可された」。
(中略)
▼共産党の綱領はこう明記している。
「天皇制の存続を認めた(憲法の)天皇条項は、
民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」。
この政党の異質さを感じる。
(全文はリンク先で)
委員長の座に君臨する志位委員長は、
日本共産党が戦後に起こした非合法活動の
「歴史的事実」にも向き合って欲しいモノだ。
★声に出して読みたい赤色交渉
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51418231.html#comments
(引用開始)
菊池寛実は戦後、葛飾瓦斯(現京葉ガス)の
買収もしており、その辺りの話から。
当時(※昭和20年代末)の日本共産党の
中小企業へ入り込む手口は、
会社の民主化を口実に、
労働者のサボタージュはもとより、
計画倒産、取り込み詐欺、融通手形の乱発など、
あらゆる反資本の論理で、絞るだけ絞りとり、
共産党の運動資金にして、
挙句の果ては倒産させて、市場を混乱させる
というものだった。
(中略)
昭和20年代後半の日本共産党の
行動派左翼学生らの支援で
傍若無人の会社荒らしをして、
日本の経済界を苦境に落としいれていたが
(略)
共産党の資金作りのターゲットとされた会社は、
結局つぶれるしかない。
つぶすことで横領背任の事実をくらまして、
次の会社をねらうという、
共産党のこの戦術は
「トラック部隊」
(党の地下組織である
「特殊財政部隊」の暗号名)
と呼ばれていた。
会社の資産を運び出して、
日本共産党の資金にする
という意味がこめられていたらしい。
(引用ここまで)
★トラック部隊
https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/3390645f641a5167a9ec8288fd74cddd
★【トラック部隊】
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/truckbutaico.html
トラック部隊とは、1950年分裂時代の特殊財政であり、
当時も1955年の六全協以降も党内では
「極秘事項」、「永久秘密事項」となっており
全貌は今も分からない。
というより資料も含めて意図的に抹殺されている
闇の党史である。
「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており
今日も判明しない。
(中略)
トラック部隊の正規の名称は「特殊財政部」である。
火炎瓶闘争期、企業グループ常任指導機関をつくり、
詐欺,横領,特別背任等の不法手段による
組織的計画的な企業の乗取り、計画倒産等を行う等、
"資金収奪を目的"とする党の裏の財政活動であった。
今日でも実態は解明されていない。
(中略)
党の財政部長をつとめていた中央委員・亀山幸三は、
「戦後日本共産党の二重帳簿」
(現代評論社、1978.1月初版)の中で
トラック部隊への移行過程を証言している。
それによると、
当初は党の財政活動の一環として活動し、
「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、
その最大利潤を奪取する。
これを革命の為の
資金に転化する任務を要する。
これによって各企業は資本主義機構の中の
一企業たるところから転化して
前社会主義的企業に転化する」
を大義名分にしていた。
ところが、
次第に「革命」のためと称して
中小企業の乗っ取りや取り込み詐欺、
計画倒産などで
莫大な資金調達事件を引き起こして
いくようになる。
ゼントルマン.グループを形成して暗躍させ、
後は野となれ山となれ式の悪稼ぎをしている。
党に協力した中小企業者が尻の毛までむしりとられた。
関連して倒産した会社も多数あり
明らかに反社会的行為・犯罪になっている。
(続きはリンク先で)
小池晃氏がANTIFAのTシャツを着て
http://netgeek.biz/archives/99291
彼らを扇動しているのも
日本共産党の非合法組織の闇党史を見れば
昔から脈々と続く工作活動なのでしょうねぇ…
社会の分断と混乱は、国家を弱体化させる。
★米国で勢力を広げる
謎の組織「アンティファ」とは
社会が分断し、過激に対立していく米国
2017.9.13(水)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51057
★アメリカで台頭する
極左アンティファとは何か──
増幅し合う極右と極左
NYタイムス 2018年08月22日(水)
https://www.newsweekjapan.jp/mutsuji/2018/08/post-39.php
政治ランキング
晩年の昭和天皇が吐露
日本経済新聞 2018/8/23
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34467630S8A820C1CR8000/
昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に
「仕事を楽にして
細く長く生きても仕方がない。
辛いことをみたりきいたりすることが
多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、
戦争責任のことをいわれる」
と漏らしたことが、元侍従の故小林忍氏の日記に
記載されていることが分かった。
共同通信が22日までに、
小林氏の日記を入手して判明した。
日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が
晩年まで戦争責任について気に掛けていた
心情が改めて浮き彫りになった。
87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、
昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、
当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は
昭和天皇の負担軽減策を検討していた。
この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。
小林氏はその場で
「戦争責任はごく一部の者がいうだけで
国民の大多数はそうではない。
戦後の復興から今日の発展をみれば、
もう過去の歴史の一こまにすぎない。
お気になさることはない」と励ました。
既に公表されている
先輩侍従の故卜部亮吾氏の日記にも、
同じ4月7日に
「長生きするとろくなことはないとか
小林侍従がおとりなしした」とつづられている。
宮内庁長官だった
故富田朝彦氏が残した「富田メモ」は
「昨夜当直小林(忍)侍従に、
弟を見送り戦争責任論が未だ尾を引き、
そして負担軽減云々で
長生きしすぎたかと洩らされた旨」と記す。
日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、
誰から戦争責任を指摘されたのかについての
記述はない。
直近では、86年3月の衆院予算委員会で
共産党の衆院議員だった故正森成二氏が
天皇の責任を追及、
これを否定する中曽根康弘首相と
激しい論争が交わされた。
88年12月には長崎市長だった故本島等氏が
「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、
波紋を呼ぶなど晩年まで度々論争の的になった。
小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった
74年4月から、側近として務めた香淳皇后が
亡くなる2000年6月までの26年間、
ほぼ毎日日記をつづった。〔共同〕
共同通信配信記事の各社のタイトル
朝日新聞
「昭和天皇『戦争責任のことをいわれる』
侍従が発言記す」
毎日新聞
「晩年の昭和天皇吐露
『戦争責任言われつらい』」
東京新聞
「『長く生きても…戦争責任いわれる』
昭和天皇85歳 大戦苦悩」
日本経済新聞
「戦争責任『言われつらい』
晩年の昭和天皇が吐露」
産経新聞
「細く長く生きても仕方がない。
戦争責任のことをいわれる」
元侍従の故小林忍氏の日記の走り書き。
日本語的には
宮内庁長官だった故富田朝彦氏が残した
「富田メモ」にあるように
85歳になられた昭和天皇が
宮内庁の公務負担軽減策の検討に対し
「細く長く生きても仕方がない。」
続く「辛いこと」とは、
「弟を見送り、戦争責任論が未だ尾を引き」と
近親者の不幸が続き、弟宮の高松宮を亡くされ
戦争責任を言われる事がお辛いのではなく
未だに、戦争責任論が尾を引き
国会で論戦が起きたり、マスコミが騒いでいて
国論を二分するような情勢を見聞きすることが「辛い」
という意味では?
共産党の衆院議員・故正森成二氏の
天皇の責任を追及とは
1986年3月8日の第104回国会 予算委員会での
昭和天皇の在位60周年祝賀行事の是非を
巡っての中曽根総理との国会論争だった。
「天皇の戦前二十年の地位と
戦後四十年の地位というのは憲法上全く異なる」と
近衛文麿の伝記などを元に戦争責任を追及し
昭和二十三年六月十三日の朝日新聞記事を元に
東京大学法学部卒の共産党系自由法曹団の弁護士から
共産党衆議院議員になった正森成二は
”南原繁東大総長は、
天皇退位を国民感情とし、
「私は天皇は退位すべきであると思う、
これは私一人ではなく
全国の小学教員から
大学教授に至るまでの
共通意見となっている」”と
昭和天皇の在位60周年を祝うことが
国民の自然な想いであるという総理の主張は
おかしいという論戦。
近衛文麿は、
日米開戦直前に発覚したゾルゲ事件で
検挙され、刑死した朝日新聞記者・尾崎秀実を
ブレーンにしていた。
尾崎は共産主義者で、コミンテルンの指示で諜報活動や、
日本軍の北進(ソ連侵攻)を阻止する工作活動をし
「対中国強硬論」「対米開戦論」を声高に主張していた。
ソ連を日本から守る一方、日米両国を戦わせて
双方を自滅させ、戦後の世界をソ連が支配するために
狂奔していた。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140918/dms1409180830008-n1.htm
★近衛文麿ブレーンは
朝日新聞と東大法学部
https://blog.goo.ne.jp/akatsukida/e/19abfe3271d31f8723a6ed8294958191
東大総長だった南原繁とは
★吉田首相、南原繁東大総長を
「曲学阿世」と非難
毎日新聞 1950年05月03日
http://showa.mainichi.jp/news/1950/05/post-7820.html
★キリスト教の片棒・南原繁
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section2/chapter2/clause3/000394.html
南原繁の大演説
喜んだマックス・W・ビショップは、バーンズ国務長官に
「南原博士は最近キリスト教の講座を
東京帝大に設ける提案をしました」
「南原演説は
いま訪日中のアメリカ教育使節団から
〝勇気があり、優れた、そして前向き〟
の考えとして賞讃されています」
と報告している。
南原は、日本教育を激変させた
米国教育使節団と協力した
「日本側教育家の委員会」の委員長を務めた。
(引用ここまで)
★東大に、キリスト教講座を!
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section2/chapter2/clause3/000393.html
キリスト教は輝かしく復活し、
「偶像崇拝の神道」(マッカーサーの言葉)は
埋葬された。
国家神道に染まっていた教師は追放され、
キリスト教徒の教師たちが大量生産されるべきだった。
マッカーサー元帥は当然そう考えた。
南原繁東京帝大総長も同じ考えであった。
(中略)
「新しい日本文化の創造」
1946年2月11日、建国記念の日に、
キリスト教徒である南原総長は
「新しい日本文化の創造」と題する長い演説を
東大生たちに行なった。
「人間性の涵養だけでは真の人間としての
覚醒に達することは不可能であることを
自覚しなければならない。
真の覚醒は神を発見し、その発見を通じて
自己を神に従わせることによってのみ、
可能なのである。
日本に緊急に必要なのは宗教改革である。
国粋主義的な日本的神学からの解放には
別の宗教が必要なのだ」
「別の宗教」とは「キリスト教」。
日本土着の宗教の弱さを示す証拠として、
南原は敗戦を指摘した。
宗教が貧弱だから武力の戦いに負けた、と言う。
(続きはリンク先で)
★現代日本のキリスト教
http://www.tenjounoao.com/jhistory/history22.html
マッカーサーとキリスト教
GHQの宗教政策は政教分離を建前としていましたが、
アメリカ聖公会の熱心な信者であったマッカーサーは、
日本が共産革命を免れ、民主化されるためには
キリスト教化以外の道はないとの信念を持っており、
キリスト教の伝道に対して全面的な好意を示しました。
そのためGHQの意向を敏感に感じ取った
日本の支配者層には、
キリスト教に対する態度を豹変させる者が現れ、
賀川豊彦が内閣参与に迎えられたり、
無教会派の南原繁が
東京大学総長に就任したりしました。
1947年には新憲法に基づく初の衆参両院の総選挙が
されたのですが、第一党となった社会党の総裁で、
総理大臣に就任した片山潜と、
衆議院議長を務めた松岡駒吉は、
同じ教会に通う信徒でした。
同時に皇室もキリスト教に急接近し、
国民の間にもキリスト教ブームが起きました。
(引用ここまで)
隠れキリシタンの末裔のクリスチャン市長も
★本島等
https://ja.wikipedia.org/wiki/本島等
発言の
「天皇にも戦争責任はあると思う。
しかし、日本人の大多数と連合国軍の
意志によって責任を免れ、
新しい憲法の象徴になった。
私どももそれに従わなければならないと
解釈している。」とする主旨を、
マスメディアは
「天皇の戦争責任はあると思う」
を強調して報道した。
(続きはリンク先で)
1960年代に「安保反対」を叫んだマルクス主義の
活動家達は、やがて教会に浸透し乗っ取っていく。
★キリスト教の左傾化
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150402
(引用開始)
1966年、「日本基督教団」は「戦責告白」を行い
大きく左旋回した。
「日基」は中核派の教会幹部たちによって、
天皇制反対、成田空港建設反対、部落差別反対、
資本主義反対、靖国反対などの
いわゆる「社会派」路線に乗せられた。
1969年秋には大阪万博(1970年)での
キリスト教館設置案に反対する
ゲバ棒、ヘルメット姿の牧師たちが
大阪、東京で教団集会を「粉砕」した。
(引用ここまで)
★正森成二 と
衆院比例中国ブロック選挙
http://matinofuruhonya.blog.fc2.com/blog-entry-1704.html
元来正森は党派性を隠した弁護士だった。
大阪の地で解放同盟の弁護活動もやってきた。
志賀派の幹部の何人かとは
特に信頼関係にあった。
(引用ここまで)
★志賀義雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/志賀義雄
共産主義運動の活動家。衆議院議員、
日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長
などを務めた。
ソ連共産党から資金援助を受けていた。
退院し日本共産党の党務に復帰早々、
叔父がソ連のスパイだった志位委員長が
自身の歴史認識を呟いたのがコチラ
★志位和夫「昭和天皇は、中国侵略でも
対米英開戦決定でも侵略戦争拡大の方向で
積極的に関与した。
戦争末期の45年に入っても
戦争継続に惨害を広げた」
2018-08-24
https://snjpn.net/archives/64195
★【産経抄】8月25日
http://www.sankei.com/column/news/180825/clm1808250003-n1.html
(引用開始)
▼志位氏は「歴史の事実だ」とも記すが、
果たしてそうか。
実際は、昭和天皇は日米開戦には非常に消極的だった。
開戦も辞さないと決めた16年9月6日の御前会議では、
明治天皇の御製(ぎょせい)を詠じて
平和を望む思いを訴えた。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ」。
(中略)
▼当時、天皇への上奏には
「拝謁」と「書類」とがあった。
元大本営陸軍部参謀の故瀬島龍三氏からは、
日頃の昭和天皇の振るまい方について
こんな話も聞いた。
「書類上奏で裁可が下りなくても、
軍部は何度も同じ書類を出した。
すると、立憲君主であろうとした陛下は
最後は裁可された」。
(中略)
▼共産党の綱領はこう明記している。
「天皇制の存続を認めた(憲法の)天皇条項は、
民主主義の徹底に逆行する弱点を残した」。
この政党の異質さを感じる。
(全文はリンク先で)
委員長の座に君臨する志位委員長は、
日本共産党が戦後に起こした非合法活動の
「歴史的事実」にも向き合って欲しいモノだ。
★声に出して読みたい赤色交渉
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51418231.html#comments
(引用開始)
菊池寛実は戦後、葛飾瓦斯(現京葉ガス)の
買収もしており、その辺りの話から。
当時(※昭和20年代末)の日本共産党の
中小企業へ入り込む手口は、
会社の民主化を口実に、
労働者のサボタージュはもとより、
計画倒産、取り込み詐欺、融通手形の乱発など、
あらゆる反資本の論理で、絞るだけ絞りとり、
共産党の運動資金にして、
挙句の果ては倒産させて、市場を混乱させる
というものだった。
(中略)
昭和20年代後半の日本共産党の
行動派左翼学生らの支援で
傍若無人の会社荒らしをして、
日本の経済界を苦境に落としいれていたが
(略)
共産党の資金作りのターゲットとされた会社は、
結局つぶれるしかない。
つぶすことで横領背任の事実をくらまして、
次の会社をねらうという、
共産党のこの戦術は
「トラック部隊」
(党の地下組織である
「特殊財政部隊」の暗号名)
と呼ばれていた。
会社の資産を運び出して、
日本共産党の資金にする
という意味がこめられていたらしい。
(引用ここまで)
★トラック部隊
https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/3390645f641a5167a9ec8288fd74cddd
★【トラック部隊】
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengoseijishico/truckbutaico.html
トラック部隊とは、1950年分裂時代の特殊財政であり、
当時も1955年の六全協以降も党内では
「極秘事項」、「永久秘密事項」となっており
全貌は今も分からない。
というより資料も含めて意図的に抹殺されている
闇の党史である。
「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており
今日も判明しない。
(中略)
トラック部隊の正規の名称は「特殊財政部」である。
火炎瓶闘争期、企業グループ常任指導機関をつくり、
詐欺,横領,特別背任等の不法手段による
組織的計画的な企業の乗取り、計画倒産等を行う等、
"資金収奪を目的"とする党の裏の財政活動であった。
今日でも実態は解明されていない。
(中略)
党の財政部長をつとめていた中央委員・亀山幸三は、
「戦後日本共産党の二重帳簿」
(現代評論社、1978.1月初版)の中で
トラック部隊への移行過程を証言している。
それによると、
当初は党の財政活動の一環として活動し、
「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、
その最大利潤を奪取する。
これを革命の為の
資金に転化する任務を要する。
これによって各企業は資本主義機構の中の
一企業たるところから転化して
前社会主義的企業に転化する」
を大義名分にしていた。
ところが、
次第に「革命」のためと称して
中小企業の乗っ取りや取り込み詐欺、
計画倒産などで
莫大な資金調達事件を引き起こして
いくようになる。
ゼントルマン.グループを形成して暗躍させ、
後は野となれ山となれ式の悪稼ぎをしている。
党に協力した中小企業者が尻の毛までむしりとられた。
関連して倒産した会社も多数あり
明らかに反社会的行為・犯罪になっている。
(続きはリンク先で)
小池晃氏がANTIFAのTシャツを着て
http://netgeek.biz/archives/99291
彼らを扇動しているのも
日本共産党の非合法組織の闇党史を見れば
昔から脈々と続く工作活動なのでしょうねぇ…
社会の分断と混乱は、国家を弱体化させる。
★米国で勢力を広げる
謎の組織「アンティファ」とは
社会が分断し、過激に対立していく米国
2017.9.13(水)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51057
★アメリカで台頭する
極左アンティファとは何か──
増幅し合う極右と極左
NYタイムス 2018年08月22日(水)
https://www.newsweekjapan.jp/mutsuji/2018/08/post-39.php
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