2018年9月14日(金)~11月11日(日)まで、八王子市夢美術館で「王立宇宙軍 オネアミスの翼展 SFアニメができるまで」が開催される。ガイナックス制作の「王立宇宙軍 オネアミスの翼」が劇場公開されたのは1987年3月14日。31年も昔のことだ。今回の展覧会では、初公開となる制作時のメモや制作における素材資料が多数展示されるという。
異世界を舞台にした「王立宇宙軍 オネアミスの翼」で驚かされるのは、その世界観の構築に20名ものアーティストが名前を連ねていること。何のために多くのデザイナーが必要だったのか、その効果はどれほどのものだったのか――。展覧会を前に、山賀博之監督に31年目の心境をうかがった。
社長になったのに「そろそろ就職しろ」と言われた
── 山賀さんは、「超時空要塞マクロス」(1982年)の第9話「ミス・マクロス」で、絵コンテと演出を担当していますね。 山賀 「マクロス」の演出が、商業アニメとの最初の出会いです。「マクロス」でアニメの作り方を勉強して、自分なりのベストな方法を模索していった感じです。
── 大阪芸術大学のご出身ですが、そのことは何か関係していますか? 東京との文化の差ですとか。 山賀 今でもそうですけど、ジャンルを問わず、東京はシステムの中に入っていく文化ですよね。大阪……というより、田舎は何のシステムもありませんから、自分たちでやるしかないんです。大阪芸大は街中にあるわけでなく、南河内の山の中ですからね。今は立派な大学になっているようだけど、当時は教員免許もとれないし、結婚式用ビデオを撮る会社に入れればよいほうでした。
── そんな中で、どうやってオリジナルの劇場用アニメを監督できたのでしょう? 山賀 当時の状況なり利点なりを生かしたからできたわけで、今同じことをやれと言われたら無理でしょう。今だったら、今の状況に合わせたやり方を探すしかありません。
── では、1987年の公開当時は何が有利に働いたのでしょう? 山賀 ほとんど学生ではあったけど、集まってくれたスタッフが有能であったことが大きいです。しかし忘れてはならないのは、当時の世の中ではアニメーションが少しも認知されていなかったことです。アニメに対する需要がゼロで、「アニメをつくってほしい」という声はまったく聞いたことがありませんでした。
── その頃の山賀さんのインタビューを読むと、アニメをつくる以前に「どうすれば生き残れるのか」について話してらっしゃいますね。 山賀 はい、まったくそうです。今も変わらず、どうすれば生き残れるのか考えています。今は自由になりましたけど、70年代の終わりから80年代の終わりにかけては、まだまだ世の中が硬直していて、何をやるにしてもどこか大きな流れに乗るのしかないのかな、と思っていました。そういう意味では僕は落ちこぼれなので、世の中の裾野で何かやるしかないという気分でした。
── メインロードに立っている気分ではなかったわけですね? 山賀 メインの匂いがしたのは「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)以降です。それ以前は、うちの会社のスタッフも僕も、外で自分の職業を言いませんでした。たとえば、「エヴァ」の頃は社長になっていたはずですけど、実家に帰ったら「そろそろ就職しなさい」と言われました(笑)。それぐらい、世の中のアニメに対する認知度が低かったんです。
── 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」(1987年)は、現在では名作として認められています。そのことに違和感はありますか? 山賀 いえ、違和感はありません。長持ちするように狙ってつくったのは、確かです。ロボットが出てこなくて、ちょっと映画っぽい匂いがあったほうが長持ちはするだろうと確信していました。また、アニメによって映画というジャンルを切り拓いたとき、どんな景色が見えるんだろうと、ちょっと楽しみではありました。だけど、その役割は「AKIRA」(1988年)がすべて持っていってしまった(笑)。
完成映像:シロツグとリイクニ/完成映像:カプセルの中のシロツグ/完成映像:ロケット打ち上げ
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