それで、
「朝まで起きて
待っていたけれど、
さっさと寝てしまえば
よかったわ」
と詠んでいるわけです。
ただし、そこからただの皮肉や愚痴しか読み取らないのでは、この歌がすこしもったいないです。
なぜなら百人一首は、この歌を、百首の中の59番という、1番から100番までの歌の、ちょうど真ん中、つまり500年続いた日本の安定と繁栄の時代の、まさにそのピークとなった中盤を代表する、9首の女流歌人の歌の中のひとつとして紹介しているからです。
つまりこの歌は「平和と繁栄の象徴の歌」でもあるからです。
この歌を詠んだ赤染衛門は、清少納言よりも10歳年上、和泉式部や紫式部からみるとおよそ20歳年上にあたる先輩女性です。
藤原氏の全盛期を築き、有名な
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
と即興歌を詠んだ、藤原道長の妻である源倫子(みなもとのりんし)に仕えた女性でもあります。
そしてこの二人の夫妻の娘が中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)。
その彰子に仕えたのが、紫式部や和泉式部です。
その紫式部が、赤染衛門について、紫式部日記で次のように書いています。
「丹波守の北の方をば、
宮、殿などのわたりには、
匡衡衛門とぞ言ひはべる。
ことにやむごとなきほどならねど、
まことにゆゑゆゑしく
歌詠みとて
よろづのことにつけて
詠み散らさねど、
聞こえたるかぎりは、
はかなき折節のことも、
それこそ恥づかしき
口つきにはべれ。
ややもせば、
腰はなれぬばかり
折れかかりたる歌を詠み出で、
えも言はぬ
よしばみごとしても、
われかしこに思ひたる人、
憎くもいとほしくも
おぼえはべるわざなり。」
現代語訳しますと、次のようになります。
「丹波守大江匡衡の奥方(赤染衛門のこと)を、
彰子様や道長様は匡衡衛門(くにひらえもん)と呼んでいます。
特別高貴な生まれではありませんが、
とても気品のある方です。
歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、
世に知られている歌はどれも、
何気ない折節の歌でさえ惚れ惚れとするものです。
この方と比べると、
上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を
詠んで得意になっている人が、
憎らしくも可哀想に思えてきます。」
どうやら紫式部の言う、
「憎らしくも可哀想な相手」というのが清少納言のことのようなのですが(和泉式部という説もあります)、そのことはさておき、人生の先輩でもあり、歌人としても和泉式部と並び称せられた赤染衛門には、次のようなエピソードもあります。
それは息子の大江挙周が重病を患ったときのことで、これについて、
「病気の原因は住吉様の祟りではないか」
と、不埒(ふらち)なことをいう人がいたのだそうです。
神様のタタリというのもおかしな話ですが、これを聞いた赤染衛門、母として堂々と、その住吉様にお参りして次の歌を奉納しているのです。
代わらむと祈る命はをしからで
さてもわかれんことぞ悲しき
重病を患う我が子に、自分が身代わりになってあげたい。
我が子のためならば自分の命さえも惜しくないと、
歌の意味は、私の下手な現代語訳よりも、歌そのものをお読みいただいたほうが何倍も感じるものがあろうかと思います。
ある意味、堂々とした、そして我が子を愛する母の気持ちは、住吉様にもしっかりと通じ、なんと挙周の重病は完治したのだそうです。
母の一念って、すごいものですね。
また、後輩にあたる和泉式部が、最初の旦那である和泉守・橘道貞と離婚して都に帰ってきたときには、心配した赤染衛門が、和泉式部に歌を贈っています。
うつろはで しばし信太(しのだ)の 森を見よ
かへりもぞする 葛のうら風
「信太の森」というのは和泉国を示す枕詞ですから、
「信太の森を見よ」というのは、
「もうしばらく夫の様子を見るようにしたら?」というメッセージです。
現代語訳すると次のようになります。
心移りせずに、しばらく様子を見らたいかが?
葛に吹く風で葉がひるがえるように、
旦那がひょっとしたきっかけで
帰って来ることもあるのですよ。
赤染衛門のやさしい気遣いが伝わってくる歌ですが、その赤染衛門は、夫である文章博士・大江匡衡(おおえのくにひら)と、いわゆる「おしどり夫婦」で、めっぽう夫婦仲が良く、そのために夫の匡衡(くにひら)とまるで異体同心だというわけで、匡衡衛門(くにひらえもん)のあだ名で呼ばれたくらいの女性です。
だからこその、やさしい気遣いだったと思うのですが、
和泉式部はこの歌に次のように返歌しています。
秋風は すごく吹くとも 葛の葉の
うらみがほには 見えじとぞ思ふ
「秋」は「飽き」、「うらみ」は「恨み」と「裏見」の掛詞で、現代語訳すると、
夫は私のことに飽きてしまったのですわ。
そんな夫の心は、私の心に
まるで秋の台風の風のように吹き付けるけれど
風にひるがえる葛の葉は
恨み顔に見えないと思いますわ。
実はこの和泉式部の歌は、赤染衛門の別な歌
恨むとも今は見えじと思ふこそ
せめて辛さのあまりなりけれ
をモチーフにしています。
赤染衛門のこの歌は、
「恨んでいるように見られたくないのは、
とても辛いあまりのことですわ」
という気持ちを詠んでいるものです。
要するにとても悲しい思いをして、思わず恨みたくなるような気持ちになった。
でも憎しみにまみれたような、悲しい女にはなりたくない。
どこまでも美しい心を失いたくない。
でもつらい。
「だからせめて、
外見だけでも
笑顔を絶やさないで
いるのですわ」
といった女性の心情を描いています。
和泉式部はこの歌をモチーフにして、
離婚の悲しい思いをしていても、
「うらみがほには
見えじとぞ
思ふ」
と詠んでいるわけです。
「じ」「〜ぞ」ともに、断定を伴う強調で、とても強い気持ちをあわらしているわけです。
結局、夫と別れた和泉式部は、元のさやにおさまることなく、その後、為尊親王との深い愛へと向かい、その親王殿下の薨去によって、さらに深い悲しみを味わうことになるのですが、それはまた、別のお話。
要するに赤染衛門は、部下や周囲の女官たちをやさしく気遣う、素晴らしい先輩でもあったのです。
赤染衛門の教養の深さは、これまた半端なものではありません。
なんと『栄花物語』という平安中期の、かな文字による歴史書を著しています。
『栄花物語』は、宇多天皇(887年~897年在位)から堀河天皇の時代の1092年までの、15代約200年の宮中の歴史を描いた物語で、なんと全40巻という膨大な史書です。
このうち、前半の正編30巻が赤染衛門の作といわれています。
藤原道長が娘たちを次々と天皇に嫁がせ、栄華を極めて亡くなるまでを描いているのですが、道長は娘たちを高官に嫁に出すことで宮中の権力を握るのですが、やはり周囲には嫉妬もあって、いろいろと言われてしまう様子が描かれています。
このために道長の子供たちは、陰口を言われたりして子供心を傷つけ、結局、若くして先立たれたり、息子が出家してしまったりします。
栄華を極めた道長は、同時に父として、ものすごく深い悲哀を味わうわけです。
そしてそうした経験の中で、道長自身が人として成長していく。
そんな様子が描かれた史書が『栄花物語』です。
つまり『栄花物語』は、ただの史書というだけではなくて、ひとりの人物のヒューマンドラマにもなっています。
「歴史」とは、過去をストーリー建てて描くもののことをいいますが、その意味では『栄花物語』は、まさに史書の王道を行ったといえるかもしれません。
ところが後編は、道長のような核となる人物もないし、文体も全然ちがう。
歴史をただの事実の羅列としてしかとらえていない。
はっきりいって面白くない(笑)。
そこで「おそらく後編は赤染衛門ではない別な人が書いたのであろう」と言われています。
ちなみにこの『栄花物語』、全文がかな文字で書かれています。
完成は道長の死後(1028年)からまもない1035年ごろとされていますが、当時は男性は漢文を用いるものとされていたので、栄花物語は女性が女性に読ませるために書かれたのであろうといわれています。
おそらく皇女となられる方々や、宮中の女官たちの教育用に書かれたのであろうと思います。
それにしても、それだけの史書を、女性が、しかも11世紀に書いたという事実は、もしかすると創作文学としての源氏物語以上に、世界史的に見てすごいことだといえると思います。
その意味では、『栄花物語』や赤染衛門は、もっと高く評価されてしかるべき人物、史書であると思います。
赤染衛門には、他にも
いかに寝て
見えしなるらむ うたたねの
夢より後は 物をこそ思へ(新古1380)
(どんな寝方をしたから
愛する夫が夢に出てきたのだろう。
うたたねの夢から覚めて、
なんだか物思いにふけっているわ)
思ふことなくてぞ 見まし 与謝の海の
天の橋立 都なりせば(千載504)
(せっかくお友達と
観光名所の天の橋立にやってきたけれど、
ここが都で、そばに夫がいたのなら、
きっと物思いもなく
存分に美しい眺めを
堪能することができたでしょうに)
といった夫婦の愛の歌をたくさんのこしています。
そんな赤染衛門の素晴らしい名歌の数々のなかで、どうして百人一首の選者である藤原定家は、赤染衛門のこの「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を、選歌したのでしょうか。
そもそもこの歌は、赤染衛門が「自分のこと」ではなく、「他の女性に代わって詠んだ」歌です。
そしてその相手は、時の権力者です。
従一位、摂政、関白、太政大臣である藤原兼家の長男の藤原道隆です。
いわば政界のサラブレットです。
そういう家に育った子というのは、幼い頃から非常に厳しい躾(しつけ)を受け、さらにある種の帝王学を身に付けるように育ちます。
その道隆が、赤染衛門の「はらから」・・・すなわち姉妹ともいえる親しい女性か、あるいは本物の姉妹のもとに、「通う」と言って、通って来なかったのです。
来なかった理由はわかりません。
職務に忙しかったのか、酒席を突然おおせつかったのか、いずれにせよなにがしかの男の理由があったのでしょう。
赤染衛門の立場からすれば、それは斟酌すべきことでもないし、忖度(そんたく)をすべきことでもありません。
ただ明け方近くになっても「お越しにならなかった」という事実があるだけです。
この時代は、ご存知のように通婚(かよいこん)社会です。
この時代の身分のある貴族が女性のもとに通うということを、後の世の「夜這い」のようなイメージで考えたら大きく間違えてしまうのものです。
はじめに男性が女性のもとに求愛の和歌を送ります。
その和歌は、当然のことながら、貴族である男性本人が持参するわけではありません。
男性の側の家の舎人(とねり=家人のこと)が、相手の女性の家に届けます。
こっそりではありません。
堂々と正面玄関から、
「ごめんくださいませ。
藤原の道隆様のもとから
お使いに参りました
○○でございます。
ご開門願います」
と相手の女性の家に伺います。
女性の側も、もちろん一人住まいではありません。
家族や大勢の家人たちが同居しています。
女性の家の門番は、当然のことながら、家の主人に、その和歌の入った書簡を取り次ぎます。
書簡に、いまのような「親書」という概念はありません。
娘のもとに男性から和歌の入った書簡が届いたとなれば、主人は自分で内容を確認するか、あるいは妻(娘にとっては母)にその書簡を渡して、内容を吟味します。
そして、これはお受けすべき和歌だということになると、その歌を娘(本人)に渡し、返歌を作らせます。
できあがった返歌は、道隆の使いに持たせるのですが、その間、使者となった舎人は、女性の側の家で、それなりの接待を受けます。
とりわけ相手が藤原兼家の長男の使いとなれば、ほとんど賓客扱いです。
返歌が当日には間に合わないときは、後刻返歌を持参するからと、舎人には先におひねりを渡して帰します。
娘の歌ができると、その歌は娘の家の舎人によって道隆の家に持参されます。
この時代には、郵便もEメールもないのです。
この間、娘の家では大騒ぎです。
なにせ道隆様という高貴な方がお通いになるのです。
屋敷内はきれいに掃除され、花などが飾られ、娘はおめかしするし、道隆とともにやってくる舎人たちの宿所や食事の手配が行われます。
こうしていよいよ道隆がやってくるわけですが、当然のことながら、道隆も当然、ひとりでやってくるわけではありません。
牛車に揺られて、大勢の家人たちと一緒にやってきます。
そして、道隆が娘のもとでお励みなさっている間、道隆の家人たちには食事や酒が振る舞われ、また、おやすみいただけれるように、ちゃんと手配がなされます。
道隆様がいつお帰りになるのか。
それは道隆様にしかわかりません。
ですから、娘の家の家人たちも、道隆の家人たちも、基本、その間は、交替で仮眠をとったりしながら、お帰りをお待ちするわけです。
逆に、この件のように、肝心の道隆様がなかなかやって来ないとなると、娘の家の家人たちは、全員、いつやってくるかわからない道隆様の来訪を、みんなで起きて待っているわけです。
つまり・・・これはたいへんなことなのです。
以上はいささか大げさなことに思えるかもしれませんが、もともと我が国では、男女の交合は、イザナキ、イザナミ以来の、神聖な、子を生むための神事です。
神事(しんじ)は寝事(しんじ)です。
寝所(しんじょ)は神所(しんじょ)でもあるわけです。
肉体の結合だけなら、昆虫や四足の動物でも行いますが、人の肉体は魂の乗り物です。
つまり男女の交合は、男女の魂を結び、同時に肉体も結ばれて新しい生命をいただく、神聖な行事というのが我が国古来の認識です。
そのような神事が行われるわけですから、娘の家では、もちろん道隆様の家系と結ばれれば未来が開けるということもありますが、それ以上に、神聖なこととして、父母から家人一同、しっかりと準備して、一晩中起きてお越しをお待ちするわけです。
来たら来たでたいへんな大騒ぎですが、それ以上に「来なかった」となれば、これもまた大騒ぎです。
だから赤染衛門は、
「来ないとわかっていたのなら、
みんなやすらいで寝たであろうに、
夜明けまでみんなが待っていて、
夜明けの月を眺めることに
なってしまいましたよ」
と、道隆に歌を送っているわけです。
明け方というのは、当時の宮中では、「朝廷」という言葉があるくらいで、夜明けとともに宮中に出仕する時間です。
貴族たちは、太陽が水平線から覗くまでに朝廷に出仕します。
太陽が昇ると、門が閉められ、遅刻→欠勤扱いとなります。
この時間管理は厳しくて、たとえ皇族であっても、遅刻をすれば締め出されています。
それだけ時間に厳しかったのです。
ですから、夜明けになってもお越しにならないということは、完全に、その日は棒に振ったことになるわけです。
このような背景がありますから、赤染衛門の歌は、若い道隆に、たいへんなお灸(きゅう=お薬)となったであろうことは、容易に想像がつきます。
大勢の舎人が関与していますから、赤染衛門の歌は、秘密の通信ではないのです。
全部、オープンです。
どのような歌が送られたか、何があったのかは、当時の都人(みやこびと)は全員が知るような話であったわけです。
先程も書きましたが、道隆は、高貴な家の長男です。
しかも少将の地位にあれば、急な用事が入ったり、断れない酒席等があって、娘のもとに訪問する予定であったものが、突然できなくなったということはありえることです。
しかし、行けないなら行けないで、ちゃんと娘の家にその旨を伝える使いを出すことも、高貴な貴族として、最低限のモラルです。
なぜなら、相手の家に迷惑をかけることになるからです。
その相手の家というのは、天皇の「おほみたから」です。
道隆は、明け方近くまで、なんとかして訪問しようと心得ていたのかもしれません。
しかし結果として、「かたぶくまでの月」を見せてしまった。
そのことは、天皇の「おほみたから」を預かる高貴な身分を持つ男として、配慮の足らなさを露呈したことになります。
我が国は、天皇のもと、あらゆる階層のあらゆる人が、すべて「おほみたから」とされる国です。
政治権力者というののは、その「おほみたから」の生活に責任を持つ人のことを言います。
これが我が国における「皇臣民」の考え方です。
まずは公家の側、つまり人の上に立つものから身を正せということは、これは十七条憲法にも記された、我が国の根本精神です。
若き日の道隆に、この事件が大きな薬となったであろうことは容易に察することができます。
そして道隆は、この件で学び、おそらく生涯二度と、配慮に欠いて舎人や民を困らせることがないように生涯、心をくだいたに違いありません。
だからこそ道隆は、若くして父の後を継ぎ、誰からも認められる正二位、摂政、関白、内大臣にまで出世できたのです。
この歌は、単に友人の代作をしたというだけにとどまらず、身分を越えて男女が対等な人であり、ひとりの女性の小さな思いやりの歌が、ひとりの男をたくましく成長させ、その男の未来を開いた歌です。
相手を受け入れるばかりが思いやりや、やさしさではありません。
相手をおもいやればこそ、断固として拒否することもまた、深いおもいやりであるということを、この歌は我々に教えてくれています。
※この記事は2017年7月に公開したものを、大幅にリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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