最近、反体制的な内容のノベルゲームでも作ろうかという風に考えては一瞬で挫折している。
ネトウヨ気味の大学の友人がエロゲ作りに励んでいることから触発された。
彼と話すたびに思想の薄さが気になっていた。そして呆れていた。
そのため、対抗して「深みのあるもの」を作ろうかと考えたりするのだ。
予算は潤沢にあるし、行き詰った卒論を提出しなければ幾らだって低偏差値大学色物学部にいる期間は伸ばせるので時間もないことは無い。
ただ、反体制というので行き詰る。
ニュースを見ると、あまりにも行政、司法、立法が腐敗しているということが分かる。
テレビのニュース番組すらエンタメに走り御用的なものになっているのではという意見すらある。
こんな社会をどうすれば良くできるのだろうか。
ただ、それをどうすれば権力に立ち向かう力に変えられるのだろうか。
それを公開しても人々が真剣に騒がなければ、権力者は結局やりたい放題やるというのが現実社会で分かっている。
バカな国民が支持し続ければいい 選挙に当選すればいい 捕まらなければいい それで終わりなのだ。
どんなにスクープが飛び出ても、無関心に消費社会を能天気に過ごしている低偏差値大学のバカな学生を見ているとため息が出てくるものだ。
容姿や経済格差などが複雑に絡み合い人間は権威に縋ったり、何も考えなかったり様々なのである。
そして、リベラルをバカにする。あれこれ理由を考えたが、恐らく容姿が醜いからに過ぎない。
やはり容姿が醜いと人間と人間との交流というものに希望を見いだせないのだ。
このような現実を目にしていると、権力を倒すフィクションを作るにはどうすればいいのか頭を抱えるのだ。
さらに付け足して言うと、容姿が良くなれば彼がリベラルになるかと言えば怪しい。
自分も彼も容姿が良かったら政治や社会問題など気にしなかったはずだ。
高校の時に顔が良かった人間と同じように、ただ政治が腐敗しようが能天気に消費社会で消費の自由で満足しているだろう。
そのため、えげつない内容な現実社会がフィクションを超えてしまうのだ。
そこをどうすればいいのか。
さらに必然的にフィクションは容姿の良い人間が出るわけだけども、容姿が良い人間は反体制になりにくいのではないかとも感じる。
なぜなら現状に満足する傾向が強いだろうからだ。
つまり、反体制のフィクションを考えるときに現実社会の悲惨さが足かせになり、身動きが取れなくなる。
とりあえず、現実社会の自分の容姿が良くするのが先なのかもしれない。
野菜500g快便うんち!wが大切ですよ 増田で良い快便生活をお大事に
反体制な内容で売れたフィクションなんて児童文学くらいにしかなくて。 この辺を見ている人たちがぎりぎり覚えているのが「ぼくらの七日間戦争」か、もっと古ければ 「宿題ひきうけ...
反体制作品の大成功作ウォーキングデッド 世界最強のアメリカ軍はゾンビの人海戦術で倒せる
こんなところでチョコレート戦争の名前を見ることが出来て嬉しい
時代劇は東西を問わず体制批判の手段だったというから、そういう方法がまず考えられるのでは。過去を舞台とすることで一旦クッションを置いて検閲を逃れる、または客が事前に持つ...