ガゼフ・ストロノーフ伝 作:Menschsein
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1.カッツェ会戦
太陽はすでに蒼天に輝いている時刻であるはずなのだが、カッツェ平野の地面へとその光が届くことはなかった。平野を覆っているのは濃霧である。薄暗い平野にただ、行軍の足音と太鼓の鼓動が響いていた。
「全軍、停止せよ」
馬に跨がったボウロロープ候がスレイプニールの手綱を強く引きながら指示を出した。
その指示を聞き取った指揮下の者達がそれを復唱し、やがてその指示が太鼓の音色となって全軍に伝わっていく。各地で一糸乱れなかった太鼓の音が波紋のように音調を変えて、やがて停止してした
大気を振るわせていた太鼓の音色が止むと、先ほどまで濃霧の中を響いていた行軍の足音も止まった。リ・エスティーゼ王国の全軍の指揮権を預かる彼だからこそできる指示であった。
「この霧が薄くなったら、総攻撃をしかけるぞ。我々貴族の有能さを王に天覧頂かなければならぬからな」
そういいながら、ボウロロープ候は自らの首を左後ろへと向けた。ボウロロープ候の視線の先には、なだらかな丘とその丘の上で揺れるリ・エスティーゼ王国の国王の旗であった。そこはリ・エスティーゼ王国の国王、ランポッサⅢ世の駐屯地だ。平野といえど地形に起伏は存在する。そして、戦場となる場所では、その僅かな起伏が勝敗を決する場合も有り得る。高い場所から低い場所へは攻めやすく、低い場所から高い場所は攻めにくい。軍を指揮する者ものなら当たり前に分かることである。
今回のバハルス帝国との戦いにおいて、国王をその場所に布陣するように采配したのは、ボウロロープ候自身である。
攻めるのに難い場所に国王を布陣させる。それは、万が一にも玉体に何かあってはいけないということである。
――が、それは建前である。安全な場所で高みの見物をしていろ。王の出番などはない。それが、ボウロロープ候の、そして今回の主軍を占める貴族派の本音であった。
ボウロロープ候の陣営から正面にうっすらと見えるのは、揺らめく無数の旗だ。その旗は、確認しなくても分かる。帝国旗――バハルス帝国の国章だ。
ボウロロープ候が、いや、リ・エスティーゼ王国が対峙しているバハルス帝国を指揮するのが、皇帝ドミニク・ムートン・ブリオン・ラフィット・エル=ニクス。バハルス帝国は先代の皇帝から貴族の力をそぎ落とし始めている。偵察隊の報告を考えても、バハルス帝国の布陣は、反皇帝勢力である帝国貴族に最も戦死者の多い場所を任せている。
リ・エスティーゼ王国は、国王の力をそぎ落とし、バハルス帝国は貴族の力をそぎ落とす。
ボウロロープ候は、予定調和の季節を心から歓迎していた。
・
王国と帝国の幾度と無く続くカッツェ平野での戦い。その行く末を眺めていたランポッサⅢ世は、勝利とも敗北とも言い難い会戦を眺めていた。
「この戦い。実質的には王国の敗北だ。多くの民を死なせてしまった」とランポッサⅢ世は独り言を馬上で言った。苦虫を噛みしめたような表情であった。
ボウロロープ候を初めとする貴族たちは、この戦いを勝利だと喧伝し、報償を貪るつもりであろうということは簡単に予想できる。激戦となり死傷者が多いのは、王族派と呼ばれるランポッサⅢ世に親しき貴族たちの領土の農民たちだ。もしくは、全滅したとしても誰の損害にもならない傭兵団——結局は傭兵を賄った費用は国庫から支出されるので国王の負担ということになるが——たちばかりだ。
バハルス帝国との戦いであるにも関わらず獅子身中の蟲との戦いとなる。自分の代だけでは終わることのないであろう王族と貴族との水面下の争い。その争いの矢面に立たされるのは常に民である。
ランポッサⅢ世は、再び戦場に目を向ける。既に左翼は、弓矢や魔法が飛び交い、激しい戦いをしているように見えるがそれは単なる偽装に過ぎない。お互いに距離をとって被害を受けないように牽制しあっているだけである。
その戦いを見ながら、ランポッサⅢ世は敵でありながらもバハルス帝国のドミニク皇帝の手腕に舌を巻く。帝国は今回の戦いで、貴族の力をまた一段と削いだ。民とは、兵士であり、力の源泉である。そして、富の源泉でもある。そして、民は農作物のように季節が巡ればまた実るというものではない。一度失った人間の命は、十年、二十年という単位でやっとその数が回復するのである。
王国の貴族の力を削ぐには、その貴族の領地の民の人口を減らせば良い。そして、その最も手っ取り早い方法が戦争である。
貴族の力をそぎ落とすという目的における戦争。国を一つに纏め上げ、自らの力を強大化させる方法としては非常に合理的である。だが、この国の王として、自分はその手段を選ぶことはできない。一つ目の理由が、すでに貴族たちを危険な前線に立たせることを強いることができない。そんなことをすれば、内戦になるであろう。そしてもう一つの理由が、その方法を取るのであれば、多くの民にこのカッツェ平野で眠って貰わなければならなくなるということだ。リ・エスティーゼ王国で国王である自分の地位が圧倒的になるには、反王族貴族たちの力を2割ほど削らなければならない。そうすれば、いやそうできれば……。
ランポッサⅢ世は、その考えを打ち消すように首を振った。その力の2割とは、民の命なのだ。それも、若く力のある男の命。耕す者がいなくなった農地ほど荒れ果てるのが早いものはない。寡婦の嘆きほど、悲しい歌はない。
自らの野心を抑えたランポッサⅢ世は、再び戦場に目を向ける。乱戦となっている鶴翼の陣の右翼だ。左翼とは違い、命と命を削る戦いをしている。
「鶴翼の陣の右翼の中央。良く持ち堪えておるわ」
敵味方が入り乱れた混戦した場所。帝国軍の三倍の兵力と対峙しながらも長いこと戦線を維持していた。早々に後退の指示が出て、魔法や弓矢による遠距離攻撃が主体となった、ランポッサⅢ世から言わせれば茶番な戦い――ボウロロープ候から言わせれば軍の指揮を預かる者が拠出した兵士達が活躍していると証明する戦いの場――となっている左翼とは大違いであった。
死体を自らの盾として戦い、血糊がついて切れ味が悪くなった剣を拭う暇も無く死体から剣を拾い上げてそれで敵に斬りつける戦い。
呪われたカッツェ平野。
「あれは、ストロノーフ傭兵団です。生き残れば死体漁りで儲けられると思っているのでしょう」と、レエブン侯が怒りと侮辱を交えたような口調で言う。金貨によって、王国側にも帝国側にも付く存在。帝国が常備軍を持つようになってからは王国が彼等のお得意様となっているが、状況――つまり金によって、矛先を簡単に変えるであろう。
傭兵団としても彼等の目的は、カッツェ平野に大量に残される死体だ。それもただの死体ではない。武器や防具を着けた金になる死体なのだ。傭兵団は、それを漁る禿鷹でもある。死体から武具を剥ぎ取り、そして埋葬する。
本来ならば手厚く葬るべきことではあるが、カッツェ平野では
「そう言ってやるな……。安らかに眠れるようにしてくれる、ということだけでも王国にはできないことだぞ」
ランポッサⅢ世は、大人が子供を諫めるようにレエブン侯に言う。そして、レエブン侯の言葉を聞いて、まだまだ若いな、と思ってしまう自分は歳を取ったのであろう。レエブン侯。六大貴族の一角を担う若き当主として野心は隠し切れていないし、王国の為に戦った民の遺体を貪ることに嫌悪感があるのだろう。若者らしい正義感も持ち合わせている。
もっと冷酷な計算高い男かと思っていたがな、とランポッサⅢ世はレエブン侯の評価を改める。もちろん、信用できる人間であると彼の評価を一段高めたのだ。戦場で共に
「それにしても良く戦っている。ストロノーフ傭兵団か。この戦いが終わったら彼等に特別に報いねばならぬかな?」
「それは無用でしょう。彼等は金で雇われただけ。陛下が労を報いるべきは、この戦いに参加した我々貴族でしょう」とレエブン侯も、右翼で繰り広げられている戦いを凝視している。
「ただ……陛下が個人的に報いたいのであれば私財を使われるのであれば問題はないでしょう。それに、金のことしか頭にない連中とは言え、犬ほどの忠義がもしあるのであれば、役に立つときが来るかもしれません」
レエブン侯は、戦場を眺めながら呟くように言う。
カッツェ平野での戦いは終わりを迎えようとしていた。ランポッサⅢ世の戦いの場所も、レエブン侯の戦いの場所も、カッツェ平野から、形ばかりの停戦条約の会談へ、そして、王都リ・エスティーゼの舞踏会へと移ろっていくのである。