菊池武光公墓所・熊耳山正観寺

菊池武光公墓所の画像

 



熊耳山正観寺は、1344(興国5)年、15代武光が建立した寺です。

きっかけとなったのは、遡ること11年、1333(元弘3)年に武光の父12代武時が博多の鎮西探題を襲撃した際のこと。実はこの合戦には、14歳の武光も同行していたのです。少弐、大友の裏切りを受け、決死の覚悟で探題館に討ち入りを果たす直前、武時は幼い武光を、博多の臨済宗聖福寺に預けました。その後無事に菊池へ送り返された武光はこの恩に報いるため、自らが当主になった後、この寺の大方元恢和尚を招いて正観寺を立てたのです。

武光の墓は、この正観寺の境内にあります。

墓木と思われる樹齢600年を超える樟の下に、堂々と鎮座する亀趺(きふ)の墓。

実はこの墓は、当時からのものではありません。江戸時代の後期に建て直されたものです。

南朝の雄として名を馳せた武光は、「幕府に対抗した者」として、江戸幕府の統治下においても冷たい視線にさらされ、その墓も省みられることなく廃れ果てていたと言われています。

この状況に、郷土の偉人を讃え、相応しい墓を建てたいと立ち上がった人たちがいました。渋江紫陽(しぶえしよう)、松石(しょうせき)親子です。彼らは近代菊池の文教の祖とも言える人たちで、菊池一族の顕彰(讃えて啓発すること)に大きな役割を果たしました。

武光の墓を建てるにあたり参考にされたのが、同じく南朝方の立役者、楠木正成の墓でした。楠木正成の墓は、水戸黄門でおなじみの水戸光圀が、兵庫県の湊川神社に建てさせたものでやはり亀趺の墓です。

亀趺とは、写真のとおり「亀蛇(きだ)」と呼ばれる空想上の生き物を台座にした墓のことで、めざましい孝徳を積んだ人だけに許される特別な墓とされてきました。亀蛇とは中国で「仙人の乗りもの」とされている生き物です。

南朝方に尽くした楠木正成に亀趺の墓が許されるのであれば、武光にもまた相応しいと、紫陽、松石親子は考えました。江戸幕府の統治下で、武光を神聖視した墓を建てるのが簡単なことではありませんでしたが、1779(安政8)年、二人の念願は叶い、この墓が建てられました。

34メートルを超える大樟の下、優れた石工の技術を思わせる凛々しい顔立ちの亀蛇が、今も武光の安息を護っています。

菊池氏の菩提寺となったこの正観寺の境内には、武光の墓の他、16代武政や武光の兄武澄の墓などがあります。

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