西都原考古博物館で「玉と王権」講演会を聴く
11月15日(日)の午後1時から4時まで、宮崎県の西都原考古博物館で展示中の特別展「玉(ギョク)と王権」に関して講演会があったので、片道3時間近くかけて出かけてみた。
途中、東九州自動車道の宮崎西インターで降り、4キロほど行った所にある「生目古墳群」と「生目神社」に立ち寄ったり、西都原市内の「国分寺跡」や「都萬神社」などを見学したのだが、それらは別の日にものすることにして、ここでは講演会にしぼって書いておく。
国道219号線にしたがって西都市に入り、目抜き通りを行くと、西都原古墳群入り口の信号があるから、それを左折してしばらく坂道を上がっていくと、広大な西都原台地に出る。
考古博物館は台地の北寄りにある。
しばらく常設展と「玉と王権」展を見学したあと、館内の3階にある食堂で昼食をとった。
講演会は予定通り午後1時に始まった。
聴衆は150人くらいだったろうか、詰めればまだ50人は入れそうな、こじんまりとしたホールで行われた。講演者は次の三人であった。
① 東アジア古代の玉器 岡村秀典=京都大学人文科学研究所教授
② 日向国玉璧の啓示 トウ・シュクヒン=台湾・故宮博物館
③ 韓国の玉文化 ノ・キスク=韓国・国立中央博物館
②と③の講師はどちらも女性で、トウ氏は50代、ノ氏は40代と見えた。日本の岡村教授は1957年生まれの52歳である。専門は「中国考古学」。
最初の岡村教授は、「玉」とは古代においてどんな役割をしていたか、から始め、分かりやすく聴衆に語りかけていた。その一方で、後の二氏は通訳付での講演だったので、いまいちぴんと来ないものがあったのだが、それは致し方あるまい。問題は内容だ。
「玉と王権」展には台湾の故宮博物館からの出品の「玉璧(ギョクヘキ)」が多数展示されていたが、岡村教授によるとこの「玉(ギョク)」こそは「金銀」に勝る漢代の王位者への下賜品だという。
実は宮崎県串間市からは、このような玉璧が江戸時代の文政年間に発掘されていた。
上の二点はどれも外側のみ文字のような刻み帯があるだけだが、串間出土のものには、さらに真ん中にも刻み帯が施されている。
岡村教授によれば、刻み文様は外側のは「龍文」、内側のは「鳳凰文」だそうだ。
両方あわせて「龍鳳文」で、王者級の人物に対して、漢の皇帝が授与した物に間違いない、という。
串間の玉璧の正体が分からずにいたところ、今から25年前に中国広州市で見つかった「南越王墓」から、同じような玉璧が40枚以上発見され、そのうち最大級の33センチほどある玉璧は、大きさといい文様といい、串間のとそっくりであることが分かった。
このことから岡村教授は、串間のも南越王と同じように漢の皇帝からの下賜品であろうと考えている。ただ串間へは漢王朝から直接あたえられたのではなく、紀元前108年に朝鮮半島に楽浪郡が置かれたときに滅んだ「衛満氏朝鮮王」の所有していたのが、半島から九州への亡命者によって渡来し、さらに時が経て串間に到来したのではないかとする。
(写真は北朝鮮・石厳里9号墓出土のもの)
北朝鮮ではこの石厳里ともう一箇所から出ているが、南朝鮮からは一枚も出ていない。
そのことから、北朝鮮を治めていた「朝鮮王」が初めたくさん下賜されたが、朝鮮王が漢に敗れたあと、玉璧は亡命その他の要因で四散し、その最大の物が串間までやって来たと考えられる――とする。
私見だが、この岡村教授の「串間出土の玉璧は朝鮮半島北部から到来した」という説には、おおむね賛成である。ただ、敗れた朝鮮王を衛満の系統としたのは疑問だ。衛満が燕から朝鮮に亡命したときに朝鮮王だったのはワイ(さんずいに歳)にいた「箕氏準」だったのである。その準王を衛満が駆逐して南朝鮮に亡命させたのは紀元前200年頃だった。
だから、北朝鮮(楽浪)から串間出土の玉璧を持参したのは、箕氏準の系統である、とすれば、以上の岡村説は整合を得ることになる。
しかしどうして北九州ではなく、南の外れに近い宮崎の串間なのか、は依然として謎である。
一方で、二番目のトウ女史は結論として、「私は日本の歴史に疎いが、串間に玉壁をもたらしたのは、徐福で、徐福こそは神武天皇その人でしょう。発掘場所の王之山の石棺に眠っていたのは、その神武天皇だと思います」と言っていた。
本当に日本史には疎い人だ。神武天皇を取り上げるのなら「神武東征」にも触れなければ片手落ちだ。串間に埋没されては困る。
最後のノ女史の講演は、もっぱら韓国出土の「勾玉・管玉・丸玉」などの出土地と年代の話に終始していたので、ちょっと的外れのように思った。韓国からは玉壁が出土していない以上、やむをえないことかもしれない。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 人吉紀行(2018.07.22)
- 葉桜の吉野山と大阪造幣局(2018.04.14)
- 観音池公園の桜(2018.03.28)
- 美作(津山市)と大隅(2018.03.26)
- 西郷どん(せごどん)終焉の地(2017.09.10)
コメント
なるほど、宮崎の歴史は面白いですね。
しかし、最後のノ女史??の話は本当に疎い人ですね。
任那日本府の勾玉は糸魚川産のヒスイであることは話されたでしょうか?
日本は島国根性ですが、韓国の属国根性を垣間見ることができました。
璧も口蹄疫も大陸から来たことは確かです。
引用させていただきます。
投稿: 宮崎の口蹄疫と歴史 | 2011年5月22日 (日) 08時01分
>しかしどうして北九州ではなく、南の外れに近い
>宮崎の串間なのか、は依然として謎である。
謎でもなんでもなりません。
南から来たと考えればいいのです。
学者先生が正しいとは限りません。
串間市のHPをみると、こんなことが書いています。
http://www.city.kushima.lg.jp/main/info/cat/cat5/post-190.html
「指定外ではあるが古墳の中には、台湾高砂族の祭具であるガラスの練玉が出土した銭亀塚
また、場所が明確でないが文政年間に穀壁が出土した王之山古墳など学術的価値の高いものもあった。」
台湾高砂族の祭具に広州市から出土した「玉璧」にそっくりとするならば、台湾経由で南西諸島を伝って、宮崎にやってきたと考えるのが自然でしょう。
遣唐使の航路も3つあって、朝鮮半島、東シナ海、南西諸島ですから、上記のルートであっても不思議ではない。
投稿: 古代ファン | 2018年2月 6日 (火) 11時00分