先日、死ぬほど悩んで新卒で入社した会社を退職しました。
約4年ほど働いて新たな道に進むことになります。
辞めて改めて思うのは本当に自分がいた会社って凄いなってこと。
大手電機メーカーが苦しんでる中、上場以来、赤字を1度も出したことがなく、日経企業の時価総額ランキングでもTOP20に入る一流企業だ。
もちろん、変化が激しい時代でこの先どうなるかわからない。
わからないけど、それでも人並みに給料を貰って、ワークライフバランスが整った人生を送れる可能性は高い道だった。
そんな会社を辞めた。
でもその決断は簡単なことではなく、悩みに悩んで悩み抜いた。
その決断のプロセスを書いていきたい。
やったこと
新規事業の商品企画というかなり希望通りのことをやらせてもらっていた。
テクノロジーxビジネスが私が就活していた際の軸で、この会社は正にドンピシャだった。
日本でも有数の技術力を誇る会社でその実力はピカイチ。
入社時に私は新規事業を熱望し、希望通り時代のトレンド技術を扱う事業部の商品企画を担当することになった。
事業部として立ち上がった時から参画でき、心から望んでいた環境だった。
もちろん大企業特有の根回しやつまらない事務処理はあったけど、市場のニーズを汲み取って新しい商品を企画することは時間を忘れるくらいやりがいを感じた。
ふとしたときに開発部隊から「新しい機能できたよー!体験して!」みたいな声掛けを貰って新しい機能を体験することが最高に楽しかった。
商品企画として、顧客が喜ぶ新技術のユースケースの妄想を膨らませる日々。
日進月歩に進化していく技術に私は虜になっていた。
何よりも良かったのは、周りの人達も各事業部からエース級が引き抜かれていて、尊敬できまくる人ばっかりだったこと。
特に僕の教育を担当してくれた先輩社員は人間性が信じられないくらい良くて、社内でも異例のスピードで出世した人だった。
その人の下、本当に成長しまくっていた時期だったと思う。
「やりがい」と「周りの人」この2項目において充実しまくっていた。
なぜ辞めたのか
きっかけは事業部の撤退
最高な環境だったけど、業績は全然だめだったのだ。
本当は5〜6年スパンで黒字化を果たすことが大きな経営KPIとなっていたが、会社の財政状況も芳しく無く、自分たちの事業に投資する余力がなくなってきてしまった。
投資が許されていた最初の1年で40人だった社員が200人までに膨れ上がった。
だが、その1年後には大幅な事業部縮小が決定。その後も2度の事業部縮小が実施され、最終的には20人ほどになった。
結局は事業部として続いたのは3年になる。
最初の1年以外はずっと縮小する事業部だった。
望んだ仕事内容、尊敬できる人に囲まれた3年間だったが、先が見えない中で仕事を頑張るのは中々苦しいものがあった。
事業部の誰もが、また次はいつ事業部が縮小になってどこに自分が飛ぶことになるのか恐れていた。
だが、ここからさらに苦しい局面に陥ることになった。
ほとんどの人が干された
事業部縮小になり、散り散りなった160人がどうなったかというとほとんどが干されたのだ。
開発部でバリバリやっていた30代後半の主任は地方の工場に異動になり、入社3年目の仕事をしているといって嘆いていた。
いつも自信満々で働いていた彼が「転職するか、このままブラサガリーマンするか悩むわ〜」と萎れた姿を見た時は大いに驚いた。
僕も例外ではなかった。
僕の移動先は既存事業の業務課だった。
15人中10人が60歳オーバーの再雇用者。
いわゆる他の部から「お役御免」とされた人たちが異動してくる課だった。
現に、僕の後に一人異動してきた人がいたが、その人は59歳で異動の最初の挨拶が「あと3ヶ月で定年なので、このまま再雇用もお願いします」というもので、ものすごい嫌悪感を抱いたのを今でも覚えている。
仕事内容はドが付くほどのルーティーンワークでシステム入力や輸出書類の作成をひたすら繰り返す。
企画系にやりがいを感じ、優秀な人々に囲まれていた僕には苦痛でしかなかった。
部長や所長レベルの方針としては、「この課の業務は独特なノウハウが必要だけど、ほとんどが年配者だから若返りを図りたい。この事業部にはじめての君は修行だと思って頑張ってくれ。その後、事業企画とかへの異動を考えている」というものだった。
実際に2年目の若手や20年ぶりの新卒社員をこの課に配属させようとしていた。
だから干されたという表現は正確には違うかもしれない。
けど、当時の僕はそう強く感じた。
僕は配属した初日で転職を決意した。
しかし、転職活動が全くうまくいかなかったのだ。
多分、干された負のオーラが漂っていたのだと思う。
次第に「自分は今目の前の仕事から逃げているな」という感覚に陥るようになり、心を改めてこの課の仕事に取り組むようになった。
ただ、そのストレスは半端なく、体重が1ヶ月で6kg落ちることもあった。
それでも1年4ヶ月ほど頑張って仕事をマスターすることもでき、コスト削減の提案もできるようになっていった。
何より周りの人たちと深い信頼関係を築くことができた。
何もかも不満で苛ついてばかりだった異動当初に比べて大きな成長だったと思う。
そして、仕事への苦手意識がなくなった後、また転職を思い立ち活動した。
詳細は、また別の記事に書きたいと思うが、この転職活動はすごく上手く物事が進んだ。
これから
転職活動は、IT系、メーカー、ベンチャー、コンサルなど色々受けてみた。
GoogleのマーケティングとSonyの商品企画が最終面接までいったとおもったら、かなり興味を持っていたベンチャーから書類であっさり落とされたり、色々あった。
そして、結果コンサルにいくことにした。
なぜか。
次は事業化を自分の手で成功させたいと思ったからだ。
事業部撤退を経験したが、新規事業を立ち上げることのやりがい・楽しさは何にも変えがたいものだった。
もう1度あの経験をしたいと思う。
ベンチャーへ行くか迷ったが、大手企業でも事業部化を失敗したら干されたのに、もしベンチャーで失敗したらどんな目に遭うのかと考えるとすごーく怖かった。
だとしたら、困難な道だけど1回コンサルへいって、なんとか数年生き残ればキャリアをリスクヘッジすることができるし、ベンチャーへも裁量権を持って参入できる。
だとしたらコンサルからベンチャーへ移ったほうが良いと感じた。
カッコよく聞こえるかもしれないけど、辞めてやる!と思いたって転職活動をしたくせにいざ転職をするとなるとかなり悩んだ。
このままこの会社で腕を磨いて40歳くらいに再チャレンジする道や安定してのうのうと生きていくほうがいいんじゃないかなど、答えのない問いに悩みに悩んだ。
でも、このまま自分の成長期をやりがいのない仕事に没頭したくなかったし、会社に新規事業を立ち上げる機運が全くなく、やりたいと思える仕事がなかった。
そして、何より市場に評価されない仕事を続けていくことが恐ろしかった。
だったら、いつ次にチャンスを貰えるか分からない中で我慢するより、能動的にチャンスを掴みにいきたいと思った。
この決断は正しかったのかどうかはわからない。
でも、どんな答えでも悩みに悩んで自分で出したのなら、それは正解だと思うのだ。
転職することの意義
僕も転職を決断したわけだが、新規事業から異動になり干された人の多くも転職をした。
前述した地方の工場に飛ばされてブラサガリーマンするか悩んだ人は結局、Apple Japanに転職した。
そして、この前会った時は、「本社から誘われて移籍することになった」と言っていた。
干された時は驚くほど萎れていたが、「本社のおれは年収2500万だぞ」といつもの勝ち誇った顔をみて仕事は人を創るなと深く思った。
でも、メーカー時代よりも白髪が大分増えていたし、老けたなと感じた。
想像以上のプレッシャーにさらされているのだろう。
でもこうやって、日系企業が誇る優秀な人材が不遇な目に会い、そのポテンシャルを発揮できずに外資を始め他社にいってしまうのはとても悲しく思う。
もちろん転職して成功した人ばかりではない。
他の開発者も違う大手日系メーカーやベンチャーに転職したが、体育会系気質で元に戻りたいと嘆いていた人もいる。
転職して成功する人もいればもちろん失敗する人もいるのだ。
それも、長期的視野に立ったらどっちが正しいかなんて分からない。
思うに転職することは成功でもなんでもない。
転職した後の自分のキャリアをどう意味づけし、有意義にさせるかがより重要なのだとこの経験を通して学んだ。
僕も新しいキャリアを築くことになったわけで、後悔のないよう精一杯頑張っていきたいと思う。
転職後の心境なども随時更新していきたい。
悩んだことをスッキリと書いたつもりだったが、かなり長文になってしまった。。。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
最後にちゃっかりAmazonほしいものリスト作ってみました。
最近プライベートのモノが壊れまくるので、もしよかったらご支援してください笑