いつもご閲覧ありがとうございます。しかるに更新が滞っており申し訳ありません。
今後投稿してゆくのはバイオニック・モスキート『信じるように躾けられて』の第三章「国家制まで」です。しかし、関連性ありと判断された幾つかのポストを追加的に翻訳しているため、ただいま更新を控えております。
更新の再開は来月からを見込んでいます。再開の際は特に告知なしで第三章の投稿を始めます。
不定期な活動でご不便をおかけしておりますが、今後とも宜しくお願いいたします。
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「そのとおり。その擁護の証拠を示すのはときに十分ではない。他の可能性を否定するための証拠をも探りださなければならない」。かくて、バイオニック・モスキートは中世日本の可能性を却下した。いわく[1]、
わたしは中世ヨーロッパ史のささやかな読書を行った人にとって馴染み深いように思われる多くの断片を見つけるが、(NAPに接近する法という観点でいえば、)そこにある脈絡はすべて非常に皮相的に思われる――フェイクということでの皮相的だけではなく、真の基盤がないということでの皮相的のことである。
個人の尊厳の感覚はなく、分権化した法の感覚もなかった――(当該期間の後半部分へ向かい)分権化した権力にすぎなかった。自然法の概念、神の似姿に作られた人、誓い、最も古い慣習と伝統に従う法、政治的権力の抑制たる宗教もなかった。
長いストーリーを短くすれば、この(相対的に短命ながらの)期間の究極的に終わりへ近づいた分権化の理由を、わたしは集権化した権力の衰退以外には見出さなかった。この期間の日本の場合には中世ヨーロッパの分権化の諸基盤のいずれも明晰に存在しはしなかった。この分権化の底にはそれを維持するものが何もなかった。
ここには我々の時代にとって良い教訓があるかもしれない。かなりの見込みにおいて、我々は分権化の期間に入っている――長続きする基盤いずれにも基づかず、衰退する権力の基盤に基づきながら。
覚えておくといい。日本はこの短命な分権化の後、内戦に陥った。しかる後、全身全霊で集権化に立ち戻った。
これはジョン・H・ホールとジェフリー・P・マス『中世日本―制度史論文集』[2]の書評であり、珍しく結論を省いていた。
彼にこれを書くよう動機付けたものの一つはわたしのメールであった。彼のブログの翻訳[3]許可を彼に得る際、わたしは彼の中世日欧文化の肯定的類比に同意した。しかしわたしは間違っていた。わたしの(誤)評価を受けて、彼は中世日本につき上述のポストを書いてくれた。その履行につき、ここで繰り返し彼に感謝を申し上げたい。
わたしの評言は次のとおり。ただし英文での誤りはここで改変する。
BMへ。
あなたのレビューに感謝します。ここ数ヶ月、わたしは中世日本文化を調べなおしていました。今ではあなたの主な主張に賛成しています。
ここでは法についてコメントします。
法は良いかつ古いものでなければなりませんが、おそらく中世日本のアナークはそのどちらも知りませんでした。
一、古いものであるため、法は古い民族にそれを支え持つよう要求します。しかしながら、故郷から逃げだして中世日本の準アナルコ資本主義的な諸都市を構成していた人々は、個人であれ家族であれ、〔初めは〕出国移民でした。そして彼らはひとたびそれら諸都市に入るや新しい匿名的な諸共同体を結成したので、紛争を減らすほど古い文化はなかったかもしれません。〔現代日本へ続く村落の多くは中世末期の十五世紀頃にようやく発生した。〕
二、良いものであるため、法は自然的でなければなりません。しかしながら、それら中世諸都市が享受した最強で最も正統な法、仏陀法と神明法は自然的ではなく呪術的でした。どんな手段であれそれら諸都市が寺社として取得したものは、想定の上では仏陀=神の所持品であり、高貴な人々がその神格の呪術的復讐を恐れたせいで、部外者に対してすべて合法的でした。
そして、どうやら個人で法を支え持ち、かくて個人が法を分権化する感覚は、弱かったか無かったようです。自治体的ながら非民族的で、呪術的な法――西洋とは程遠い。東の日は出でましたが、おそらく単なる偶然でした。そして速く没します。
わたしは両者の類似性について誤解していました。きっとキーフレーズは「真の基盤がないということでの皮相的」です。知るとは原因を通して知ることでした。あるいは基盤を通して。
わたしの現在の意見では、残念ながら、仏教と音節文字のモンゴロイド――言い換えれば、ワンイズム(ピーター・ジョーンズが定義するとおりのそれ)と本質的非識字のもっとネオテニーな人種――には、高いIQと無国家状態の資格が同様に満たされても、カトリック・キリスト教とアルファベット〔ギリシア〕哲学のゲルマン白人より、自由は相対的に難しくありました。リバタリアンは自由の人種的かつ文化的な基盤を必要とします。
我々の文化について、あなたの西洋の視座からのポストを読めて満足です。
なお:同じ記事でWoody Barrett February 6, 2018 at 10:27 AMがおそらく言及している「支那の将来は英語である」(The Future of Chinese Is English)も面白いが、わたしがここで触れている日本の言語文化とはWilliam C. Hannas, “Script and Cognition: The Impact of Orthography on Western and Eastern Patterns of Thought,” Pol Reader #2のことである。それはさておき……。
彼は正しい。日本における保守主義は、基盤なき保守主義である。保守すべき基盤とは中世ヨーロッパのであり、それは日本にはない。バイオニック・モスキートは先のコメントに次のとおり返信する。訳文は敬体・直訳で。
わたしはあなたのここのコメントに心から感謝します。
わたしは一面ではそれにより悲しんでいると言わねばなりません。あなたはこの基盤的伝統がない、この伝統的、東洋的な、日本文化からの人です――リバタリアン社会への基盤なき文化で、リバタリアン社会への移動を求めてきました。
西洋での多くの人々は、あなたがあなたの社会で欠いているこの基盤を持ち合わせていながら、この基盤を自由にとって無価値であるかのように扱っています――なお悪いことに、自由にとって破壊的でさえある、と。
皮肉な。
日本に限って言っても……ああ、やはり悲しいね、一面では。日本人自由保守主義者は自由の保守すべき基盤を外人に求めなければならない。従属的と呼べ。
当たり前ながら、先のBMの返信は――意識的にであれ無意識にであれ――ホッペの議論に沿っていると思われる。彼の「現実主義リバタリアニズム」いわく[5]、
この灯火において、右派リバタリアンとして、私が私の子供たちと生徒たちに最初に言うことはもちろんこうだ。つねに他人の私有財産権を尊重しろ、侵害するな、そして国家を敵だと認識しろ、実に私有財産テーゼの反定立そのものと認識しろ。しかしそこで終わりにはしない。いったんあなたがこの要件を満たせば「何だってまかり通る」のだとは私は言わない(し、黙って仄めかしもしない)。これこそまさに「薄い」リバタリアンが言っていそうなことだ! 私はほとんどの「薄派」リバタリアンが少なくとも暗にそうであるような文化相対主義者ではない。代わりに、私は(最低でも)次のとおり言い加えよう。なんであれ、自らを幸せにするものになれ、そして幸せにすることをせよ、ただし、あなたが世界分業の統合的部分であるかぎり、あなたの存在と福利は他人の継続的存在に決定的に依存しており、わけても、白人異性愛男性の支配的な社会、彼らの家父長的家庭構造、および彼らの有産的または貴族的な生活習慣と品行に依存していることを、つねに覚えておけ。ゆえに、よしんばあなたがこのどこにも加わりたくなくても、それにもかかわらず、あなたがこの標準的な「西洋的」社会組織モデルの受益者であることを認識しろ、ゆえに、あなた自身のために、それを蝕むようなことはせず、むしろ、尊敬され保護される何かとしてのそれの支えとなれ。
そして「被害者」の長いリストについて私が言うことは、あなた自身の事をせよ、あなた自身の人生を生きろ、ただし、あなたがそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり、である。あなたが国際分業に統合されるかぎり、あなたは誰にも賠償を負わないし、誰もあなたに賠償を負わない。あなたが「加害者」だと思っている者とのあなたの共存は相互に有益である。しかし、「加害者」はあなたなしで生きて事をなすことができるだろう一方で、よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。「加害者」の消滅はあなた自身の存在そのものを危うくするだろう。ゆえに、よしんばあなたが白人男性文化に差し出される例を自分のモデルにしたくなくても、あらゆる代替的文化が現在の生活水準に維持されうるのはこのモデルの継続的存在のおかげでしかないことと、世界的に効果的な主導文化〔ライトクルトゥール〕としての「西洋」モデルが消滅することをもって、あなたの仲間の「被害者」は、全員ではなくとも多くが危険に晒されるだろうことは、承知しておけ。
これはあなたが白人男性優勢世界たる「西洋」に無批判になるべきだということを意味しない。結局、このモデルにもっとも緊密に従うこれらの社会にさえ、それ自体の国内財産所有者に対する侵害だけではなく外人に対する侵害という非難すべき侵略行為に責任を負うさまざまな国家がある。しかしあなたが住むところであれ他のどこであれ、国家を「人民」と混同してはならない。あなたの尊敬に値し、そしてあなたを受益者にするものとは、「西洋」国家ではなく、全体主義的社会支配に向かって疾走するまさに彼ら「自身」の国家支配者によってますます激しい攻撃を加えられている、西洋「人民」の「伝統的」(正常、標準的など)な生活様式と品行なのである。
日本人リバタリアンは他人事を決め込むかもしれない。我々は犠牲者学者ではないからこれは厳密には我々に対する叱責ではない、と。しかし、欧米での日系人の政治的意志決定様式を脇に於いても、ホッペの教訓は日本人が日本で二重に従うべき何かである。一方では我々の犠牲者学的「加害者」の身分において、他方では我々の同「被害者」の身分において。――すなわち、一方では我々の「被害者」(特定アジア人その他ブラジル人とフィリピン人など/異常性愛者/女性)に対して、他方では我々の「加害者」(白人異性愛男性)に対して。わたしは次のとおり言い換えたい。
一方では、わたしたち日本人自身の事をせよ、日本人自身の人生を生きろ、ただし、日本人がそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり。……しかし、西洋人は日本人なしで生きて事をなすことができるだろう一方で、よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。西洋人の消滅は日本人自身の存在そのものを危うくするだろう。
他方では、あなたがた特定アジア人自身の事をせよ、特定アジア人自身の人生を生きろ、ただし、特定アジア人がそれを、他人の私有財産権を侵害せず、平和的になすかぎり。特定アジア人が国際分業に統合されるかぎり、特定アジア人は日本人にも賠償を負わないし、日本人も特定アジア人に賠償を負わない。特定アジア人が「加害者」と思っている日本人との特定アジア人の共存は相互に有益である。しかし、西洋と西洋従属的日本人は特定アジア人なしで生きて事をなすことができるだろう一方で、――特定アジア人の大小中華・易姓革命・儒教の文化においては――よしんばもっと低い生活水準であってさえ、逆は真ならず、と覚えておけ。ゆえに、よしんばあなたが日本文化に差し出される例を自分のモデルにしたくなくても、東洋的に効果的な主導文化〔ライトクルトゥール〕としての「日本」モデルが消滅することをもって、あなたの仲間の「被害者」は、全員ではなくとも多くが危険に晒されるだろうことは、承知しておけ。(……もちろん、支那が日本を超えて極東の覇権国になることは十分にありうるが、それは昔ながらの東洋的専制を免れまい。)
この助言は従えるように思われる。日欧は似ているからだ。
近代の欧化の始まりから、日本自由主義(田口卯吉『日本開花小史』と福沢諭吉『文明論之概略』)は日本文化での権力と権威の分類のような、(皮相的ながらの)ヨーロッパとの類似に気づいてきた。戦後は二度のネオ自由主義(吉田と小泉)とネオ国民主義(桜井)が起こった。どこまでも無基盤で皮相的ながら、日本は欧米に似ていたし、似せることができた、はずだ。
かたわら、――中世に関してとはいえ――ルーロックウェル・コムは我々を嘲ける[6]。
中世日本
ヨーロッパに何か似てるとでも?
おいおい。何も似ていないなら、我々がヨーロッパを追うことは望めないだろう。問題は似てなさではなく基づかなさであろう。
日本の無基盤性についてのわたしの仮説だが、過少でも過剰でもないネオテニーは白人の特質であった。白人の最適ネオテニーはギリシア哲学とカトリック教会に結実した。知能淘汰は高緯度一帯に作用したが、結局、日本人はローカル・マキシムな進化を免れなかった。日欧の同じ高い知能と大きい地理的な障害が両者を同じ時期に台頭させたが、日本はヨーロッパの基盤には基づいていなかった。日本文化はその他大勢であった。
しかしながら、すべてのその他大勢文化は平等であるように創造されてはいない。その他大勢の諸文化も、ヨーロッパの基盤たるゲルマン族ラテン語キリスト教にもっと似ているか似ていないかを比べることができる。もしも現代日本の文化が現代西欧のそれに似ており、かつ伊藤正敏が言うとおり、日本の「伝統文化といわれるものの大半は、中世寺社に起源を持つ」[7]ならば、我々はルーロックウェル・コムの嘲笑に反駁してもよろしかろう。基づかずとも、中世日本は中世ヨーロッパに何かが似ていた、と。
そしたら、わたしたちはロックウェルとホッペに支持を申し込んではどうだろうか。彼が「リバタリアニズムとオルタナ右翼―社会変化のためのリバタリアン戦略を求めて」でいわく[8](強調付加)、
したがって、現行の布置連関を考え合わせるに、リバタリアン戦略を促進することは、オルタナ右翼がよく認識しているとおり、何よりもまず初めに、この最も過酷に被害者化した人々の集団に合わせて彼らに取り組まねばなりません。子持ちの白人既婚キリスト教徒夫婦、とりわけ(税消費者ではなく)納税者階級に属する彼ら、そしてこの標準的形式に最も緊密に類似するかこの形式を熱望する万人こそ、リバタリアンなメッセージの最も受容的な聴衆として現実的に期待されることができます。(逆に最も少ない支持は、福祉に頼る黒人イスラム教徒シングル・マザーのような、法的に最も「保護された」集団から期待されなければなりません。
もしよろしければですが、(子持ちの?)白人(既婚?)キリスト教徒ルーさん、何かが類似するという資格において、日本人自由保守主義者があなたがたを支持いたしてもよろしいでしょうか?
もしも日本での自由保守主義がヨーロッパへの従属を意味するならば、ヨーロッパ人がヨーロッパ文化を擁護し防衛すべく戦っているように、日本人はヨーロッパ文化に従属的な日本文化を擁護し防衛すべく戦わなければならない。かく再定義された自由保守主義は、古代の支那専制の輸入から、中世の支那脱却と仏教隆盛(この仏教化のおかげで「自由」の語がアーリア的な、積極的共示を得た)へ、近世の仏教衰退と儒教強制まで、そして近代の脱亜入欧(この西欧化のおかげで再び「自由」の語がアーリア的ながら、もっと積極的な共示を得た)に至る、日本文化の最も自由主義的な要素を辿りなおし、拾い集め、守り抜く仕事である。そのとおり、日本のどこを探しても自由の基盤はない。しかしながら、ヨーロッパの自由の基盤に依存することで、必ずやそれらを生かすことができるだろう。
これはリバタリアンが没頭しがちな国家破壊的任務ではなく、創造的=保守的な事業である。国家とは管轄の領土的独占者であると定義される。独占は悪であるから、管轄を独占する法人、国家は廃止されなければならない。しかし、国家の外でも善対悪は続き、右対左は残る。悪い人がいた。左の人がいた。現実には、人間社会と人間心理は自ずとアナルコ資本主義に報いるようには創造されていなかった。それでは、なぜレッセフェール?
我々は右翼と左翼が平等に間違っていると信じる愚の骨頂を冒したり、右翼は国家社会主義者で擁護の余地なしという経済学的批判に終始したりする贅沢を振りかぶって叩き捨てるべきだ。我々のしかるべき議論は次のとおりであろう、たとえば:異常性愛と薬物乱用の規制を独占する国家の悪さもそうだが、むしろ異常性愛と薬物乱用を規制するために警察国家を廃止せよ。物質的福祉の保障を独占する国家の悪さもそうだが、むしろ地縁と血縁を強化するため、とりわけその単位たる家族とその全体たる国民の内集団忠誠を保障するために福祉国家を廃止せよ。要するに、右翼の理想は正しい。我々は右翼に内在的でなければならない。右派の論敵に先んじて右翼の理想を語れ、建設的に手段を述べよ。その手段に対して国家が有害だから国家を廃止するのである。日本人右翼は日本文化の中に理想を育まねばならず、日本の自由文化がいつどこで生まれ、どう受け継がれてきたのか、どう守られてきたのか説明できなければならない。
その自由は偶然的であり、基盤をもたない。それは無基盤な皮相性しかもたない――皮相性をもち、皮相的ながら存在する。それの存在を擁護すべきである。実際、それに関わらない経済批判はとにかく関連性がないと看做されるだろう。身に覚えは?
なんでここまで現実やら人間心理を無視して「自由化」を重視して
それに賛成しない奴は馬鹿、みたいになるのかな。
リバタリアンは共産主義大嫌いな人が多いけど、貴方達の究極の理想論も共産主義並の絵空事にみえるけどなぁ。— 愛國日本人 (@rokuro765) 2018年1月12日
しかしながら:建設的活動は自由保守の片面にすぎない。バイオニック・モスキートが言うとおり、日本文化の擁護の証拠を示すのはときに十分ではない。また他の可能性を否定するための証拠をも探りださなければならない。かくて、『脱亜論』が自由保守主義の関連性を取り戻す。日本の犠牲者学者(と彼らに学ぶ反日外人全員)が特定アジア人を憐れむことから分かるとおり、中華文化は日本文化がヨーロッパ文化から遠いよりもさらにヨーロッパ文化から遠い。日本がヨーロッパに劣るように、特定アジアは日本に劣る。ゆえに、「我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」。
日本での特ア謝絶に類比さるべき、現在の西洋で最も喫緊の課題はこれだ。「大量移民を止めろ」[9]。これは日本でも同じであろう。
したがって最も重要なのは、特定アジア人(支韓鮮人)、とりわけ在日韓鮮人に対する闘争、物理的・知性的反撃であろう。在日特権を白日の下に晒せ。外国人参政権運動と辺野古闘争での在日比率を万人の前で暴け。平昌オリンピックで露呈する朝鮮の遺伝的問題を世に語り継げ。リバタリアンが。そして、物理的除去(physical removal)[10]はもちろん、知性的にもKevin B. MacDonaldがユダヤ人に対して行ったように、我々は特定アジア人の、とりわけ「在日」の集団進化戦略を証明しなければならない。
そして、我々が国家を廃止すべき理由は、現代では、日本国家による日本人の税金での日本国への、特定アジアからの増加中の労働者・観光客誘致と難民保護を即時全廃するため、及び全不法滞在者を必要なら武力行使で強制送還するためである。少なくとも、これ自体に反対する真のリバタリアンは存在しないだろう。他の理由をこれより前面に押し出すリバタリアンは存在するが、彼らは考えなおすべきだ。(後述:これは間違っていた。これと同じぐらい喫緊の問題があった。改憲だ――社民主主義右派と革命的敗北主義者の内輪揉め。)
今のところ、日本のリバタリアンは――おそらく実権をもたないからとはいえ――差別を擁護することにかけて信頼できる。しかしながら、彼自身が人種を差別すること、差別の対象を特定することにかけては尻込みする。わたしは以前、「韓国が満足するまで謝罪しろ=スシ貢女を寄越せ」で韓国文化の脅威を述べ、「来たる朝鮮戦争と日本人リバタリアン県連邦主義」(「来たる」は「来たるべき」の誤り)で日本への両朝鮮人の強制統合を阻止するよう訴えた。こういうのは怖いか?
現実から逃げて純粋経済学上の無紛争地帯に閉じこもるのは容易い。あるいは、「終戦後は外務官僚や文化官僚の手によって……有害ではありえなくなった」[11]――要するに、気安く擁護できるほど甘っちょろい――非基盤的伝統でも擁護するのもしかり。しかしそこに何がある? 甘っちょろく支那臭い尊皇リバタリアニズム? ペイガンが共産主義者[12]にお辞儀する……それはまあいい。しかし自由保守主義者として、中世・近代日本文化に照らして申しあげれば、それは自由への基盤ではなかったし、自由への脱亜にも導かなかったようだ。わたしの管見では、左翼の「天皇制」廃止に抗うことの消極的な正しさを超えれば、安易で、無知で、これみよがしな尊皇は「リバタリアンは保守主義者でなければならない」とはさほど関わりがないよう思われる。
[1] http://bionicmosquito.blogspot.jp/2018/02/medieval-japan.html
[2] Medieval Japan: Essays in Institutional History, edited by John W. Hall and Jeffrey P. Mass.
[3] https://liberalismtranslation.wordpress.com/category/%e3%83%90%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%8b%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%e3%83%a2%e3%82%b9%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%88/
[4] http://bionicmosquito.blogspot.jp/2018/01/dilly-dilly.html
[5] https://www.lewrockwell.com/2014/09/hans-hermann-hoppe/smack-down/
[6] https://www.lewrockwell.com/?d=2018-02-06
[8] https://misesuk.org/2017/10/20/libertarianism-and-the-alt-right-hoppe-speech-2017/
[9] https://misesuk.org/2017/10/20/libertarianism-and-the-alt-right-hoppe-speech-2017/
[10] Robert Taylor, Reactionary Liberty: The Libertarian Counter-Revolution.
[11] 三島由紀夫『文化防衛論』35~36ページ、強調ママ。
全体:伊藤正敏『寺社勢力の中世』評
中世日本の無縁所は現代日本の国家制に比べれば魅力的であること疑いない。それはパナキーであった。その一部はラフなアナルコ資本主義であった。しかしながら、それはロスバード派のアナキーはおろか、中世ヨーロッパのアナキーとも程遠かった。つぶさに観察すると致命的な欠陥が浮かび上がってくる。
「古代国家への葬送曲」――伊藤は一〇九四年嘉保(かほう)の大田楽と九六年永長(えいちょう)の大田楽をそう呼んだ。それらは十一世紀最後の十年にあいついだ洪水・強盗・殺人・放火、そして疱瘡(ほうそう)の社会不安を反映して起こった。
二つの田楽の間、嘉保二年(一〇九五年)、山僧の嗷訴(ごうそ)があった。初めて日吉神輿を担いでいた。神輿動座(しんよどうざ)の最初である。……動座とは、座して決して動いてはならぬ存在、神や天皇が動く異常事態である。祭の式日に定まった御旅所に行く以外動かない神が、自ら輿(こし)に乗って朝廷に迫り訴える。恐怖の奇跡である。……
それまで嗷訴など一蹴していた院・貴族が、この「嘉保の神輿動座」以後、比叡山の嗷訴におののくようになる。……
神輿による威嚇は、院・貴族に対して有効だった。一方、武士はこうした迷信にとらわれない人々と思われていた。実は同じように神輿を恐れていたのだ。……神輿の恐怖から自由だったのは誰か。それはその神輿・神木・神体を振り回す寺僧(じそう)・神人だけである。(53-54ページ)
社会不安、嗷訴、恐怖。……テロリズム(恐怖主義)? 嗷訴それ自体はテロでも侵害でもない。しかし、嗷訴を動機付けた社会不安と、嗷訴が朝廷に及ぼした恐怖は、美徳ではなかった。これは財産の継承取得にも見受けられた。
叡山がこの地を獲得した時期は南北朝時代〔一三三六年から一三九二年まで〕であるが、獲得した理由には注目すべきものがある。近江坂本の日江社(ひえしゃ)の神人の殺害事件があり、叡山は殺害現場だったこの広大な土地を、神人の墓所として獲得した。神人の怨霊の祟りを鎮められるのは、その神人の所属する寺社だけ、という論理による。これを「墓所の法理」という。……この法理は鎌倉時代末期から東大寺・新熊野社・聖護院(しょうごいん)・叡山、さらには山伏集団など、寺社勢力によって主張された。「墓所」としてほぼ一つの荘園に相当する土地を要求するのが普通であった。犯人でもないのにこんな一等地を失った元地主はいい面の皮だが……。(41ページ)
祟りを恐れて……元地主へのテロリズム? それをして「呪術色濃厚な法理」、とは伊藤の言いである。どうやら中世日本は呪術的であった。呪術とは何か? ウィキペディアいわく(脚注略、一部改行略)、
魔術(まじゅつ)とは、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。人類学や宗教学の用語では呪術という。
英語の magicは「魔法」、「魔術」、「呪術」と翻訳される。宗教人類学の分野では、この訳語として呪術が定着している。一方、思想史や西洋史の文脈では魔術の語が用いられることが多い。
ウィキペディアでは呪術研究の節でまずジェームズ・フレイザーを論じる。立教大学教授奥野克巳が公開する講義「【第24回】呪術とは何か?」でもフレイザーが大きく取り上げられている。
フレイザーは、『金枝篇』のなかで、呪術師は誤っていると述べている。呪術を信じている人たちは、類似にせよ、接触にせよ、いずれも観念上で連想を引起すに過ぎないものを因果関係ととり違えているのだと。
「【第25回】現代の呪術」ではフレイザーの呪術二分類を修辞的に説明する。奥野によれば、フレイザーは呪術を類感/模倣か感染かに分類する。かたや類感/模倣呪術は「現実のものの代わりに、似たものを持って来てそれを操作する呪術(似たものは似たものを生み出す」、かたや感染呪術は「かつて接触したり、全体の一部であったり、あるいは、原因になっていたものは、そうでなくなった後も、効果を及ぼし合うと考えられる呪術」である。そして、それらはそれぞれ隠喩(あるものを別のもので表す)か換喩(一部が全体を表す)の思考法で理解される。いずれにせよ、呪術は修辞的・非論理的である。
余談その一:同ページの論文の聞き込みによれば、日本呪術教会の依頼者は男女比率1:9で女性が圧倒的に多く、その年齢(男女両性の?)は30~50代に集中しており、依頼や相談はほぼ恋愛に関わっているらしい。ああフェミニズム、エックレーシアズーサイ、ワイドショー政治。それはさておき……。
余談その二:ウィキペディアの英語版は西洋呪術観に文化戦争を仕掛けている。西洋文化では、呪術(magic)はもともと疑似宗教や非文明性のような非常に消極的な共示を伴っていたらしい。しかし、その概念はルネサンスで濫用され始め、一九九〇年から学界で抹消され始めたようだ。おそらく呪術は文化的相対主義者の目の上のタンコブなのだろう。それもさておき……。
さて、呪術は野蛮である。わたしが理解するかぎり、呪術とは修辞的、わけても隠喩的又は換喩的に判断される仮説的原因であると定義され、またそれを使用する諸技術を含む。神輿や墓所は呪術的手段であった。これらにつき、経済的自由主義者はメンガーの擬制財を思い出すだろう。『一般理論経済学1』いわく(47-48ページ)、
物が財としての性質を得るにはいくつもの点で認識の契機が決定的であり、したがって誤謬および無知は、財がわれわれにたいしてとる関係に影響を及ぼす。この事実の結果として、われわれは、財としての性質をわれわれにたいして基礎づける関係のうちに実際にある物、つまり真実財wahre Güterとともに、こうした関係がたんに誤って想定されている物、つまり擬制財eingebildete Güterを観察することになる。後者が認められうるのは次の場合である。
1 実際には存在していない人間的欲望が誤って前提される場合。この種の擬制財とは、例えば実際にはまったく存在しない病気のための衣料品や、妖術や魔法を防ぐ手段や、偶像崇拝に用いられる道具・彫像・建物等々である。
……この種の財は、人間経済の現実的ではあるが病理的な諸現象である。
法制化された擬制財。この寺社勢力がしまいには衰退してしまったのも不思議ではない。公家や武家に対する寺社勢力の優位は墓所や神輿などを扱う下層身分の呪術不感症であった。寺社勢力は下層身分が上層身分を呪術で脅迫することにより成立していた。「神罰を強調することは、神を恐れぬものが恐れるものに対し、マインドコントロールをするということだ」(129ページ、強調付加)。
脅迫で生活が成り立つならば、呪術的に獲得できる墓所や神輿を、安全保障含む生産活動に投入するインセンティブは弱かっただろう。脅迫のために呪術を信じることで、宗教と道徳、科学の発達は妨げられていただろう。呪術の社会的位置付けにつき、ロスバードは『平等主義―自然への反逆』で人類学者を引用しながら説明する。
著名な人類学者ブロニスワフ・マリノフスキが〔彼の『呪術、科学、宗教、その他論集』で〕指摘せらく、原始人たちが呪術を使用する範囲は彼らが無知であるところの自然の諸領域だけであり、機能中の自然過程を彼らが理解するに至った領域では、実に賢明ながら、呪術は利用されない。
呪術が自然への無知に起因するならば、呪術の領域に自然法はありえないだろう。自然法なき社会に自由主義社会はありえない。ところが、伊藤は縁切りにつき、「縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である」と特徴付けた。その試みが中世日本の寺社でどれほど成功するだろうか。
中世日本にはもう一つ呪術的で反自由主義的な法理があり、それが自由主義財産権の根本を蝕んでいた。
仏に捧げられたもの、神に捧げられたものは、永遠に神仏のものである。これは自然に響くだろう。賽銭箱をひっくり返して投げ入れた百円を回収しようとする人はまあいないだろう。神仏への寄付を撤回することは通常ない。だがこういうことが法で決められたら奇妙な感じを否めまい」「神・仏」に「寺・社」、さらに「寺僧・神人」を代入すると次のようになる。「どんな手段で獲得したものであろうと、一旦寺社のものになった土地は、永久に寺社のもの、永久に寺僧・神人のものである」。……浄財の寄付という観念が逸脱するとこのようになるのだ。これを仏陀(ぼっだ)法・神明(しんめい)法という。あらゆる中世法の中で最強不可侵の法がこれであった。(124ページ)
それが文字通り「あらゆる中世法の中で最強不可侵の法」であるならば、それが自由主義自然権をすべて覆してしまうだろう。その法は解決すべき紛争をむしろ惹起するだろう。ねじれた呪術法は自然法をねじ切る。なぜこんな法が生まれた? 伊藤はその理由を、武士の検断得分への対抗に見出す。
「警察官個人が逮捕した犯人の全財産を没収するものとする」と法で決まっていたら、異様に感じられるであろう。だがこの法は実在した。それどころか中世ではこの法が普遍的に通用していたのだ。「検断得分」である。これが悪用されると、警察官が罪もない者をつかまえて、犯罪人のレッテルを貼って財産を自分のものにする、ということになる。……寺社が検断不入を守ろうとした理由がわかるだろう。公家・寺社も領内の検断に際して、同様に検断得分権を行使する。……墓所の法理や仏陀法は無法に見えたかもしれない。だがそれならば、弱肉強食を追認正当化するような、検断得分は非道な法ではないのか、無法の法ではないのか。寺社の法理は検断得分というねじれた論理に対抗するために作られた、同じようにねじれた法理なのだ。(134ページ)
彼は検断得分につき、宮崎学『近代ヤクザ肯定論』を引用しつつ、警察力のアウトソーシングを敷衍する。
近代警察制度確立以前、非合法または未公認の武力集団を公認して、警察力として利用するやり方は政府の常套手段であった。いや終戦直後ですら、無警察状態の東京・大阪の警察機能の多くを公的に、あるいは暗黙の委任のもとの代行したのは暴力団であった。いうまでもなく「検断得分」を伴っていた。
わたしは境内都市内部での検断得分権がどんなものであったか知らない。しかし、そのような「政府の常套手段」――確かに選びやすそうな選択肢ではある――が自由主義自然法において正当化される範囲はかなり狭いだろう。そして、もしもそのような範囲が狭いなりに残るとしたら、自由主義において、法論は不十分であり、徳論が喫緊である。また、そのような疑わしい法理に対抗するためとはいえ、仏陀法や神明法のような完全に自然法違反の法理を発明したことは間違っている。
中世日本の境内都市ではラフなアナルコ資本主義が開花したし、自由が享受されたけれども、それは自由主義秩序へ伝導的ではなかった。経済的自由(と物理的技術)が自由の十分条件である、などと断言することはできない。それらは消費者の見地での可能最善な効用を保障するけれども、消費者が自由を愛すると決め込むべき理由はない。せいぜい国家主義体制より相対的に腐敗が少ないか遅いぐらいであった。
伊藤正敏『寺社勢力の中世』評、続く。
橘玲の日々刻々「今年も安倍政権がますます「リベラル化」していく理由」(2018年1月22日)いわく、
「女性が活躍する社会」や「一億総活躍」を掲げる安倍政権は「リベラル」だとこれまで何度か指摘しましたが、いまや首相自らが「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ。国際標準でいえば」と周囲に解説しているそうです(朝日新聞2017年12月26日朝刊)。
彼の指摘は保守派の通念に馴染んでいる。保守速報「安倍首相「わたしはリベラル」」いわく(「>>1」略、名前、及びレス内改行略)、
225: 普通に中道左派だよな。
436: 単に政治的に失敗したからこういうこと言い出してんだよな。
559: 右、左、リベラルとか今の時代無いだろ あるのは、利権があるか無いかの違いだけだろ
794: よくわかってらっしゃる。 保守で行きたかったけど、リベラルじゃないとすぐ首すげ替えられる構造が 政府内・官僚内にあるから仕方ないねw
819: 外国人労働者推進、ヘイトスピーチ規制 そりゃ、リベラルだわなw
430: ようわからんわ なんなんコイツ
安倍の本質が妥協と日和見であることは、西尾幹二『保守の真贋―保守の立場から安倍政権を批判する』を初め、多数の識者が繰り返し指摘している。西尾が指摘するとおり、安倍政権のポジショニングは左傾化に特徴付けられる。安倍晋三は保守系の言説を弄して初期の支持を稼ぎ、いざ政権を握ったら左翼に早変わりするのである。
これは珍しい現象ではない。それは世界中で観察されており、すでに名付けられてもいる。オサリヴァンの法則だ。コンサヴァペディアいわく、
オサリヴァンの第一法則は多くの政治家と指導者、組織の漂流を記述する。それは一九八九年にジョン・オサリヴァンにより初めて造語された。
それが述べるには、「実際に右翼ではない組織はすべて、時経るにつれ左傾化する」[1]。
例:
ドラッジ・レポートの左傾化[2]
妥協するキリスト教大学、たとえば初めに進化論で妥協し、ついで同性愛とフェミニズム、イスラム教のような他の争点で次々妥協していった、ウィートンその他の多数大学ような。
もとは保守的な立場をとっていたが左へ鋭く移っていった多くのトークン・コンサバたち。
ヨーロッパ体制派保守たち。最終的にはユーロフィル、大量移民賛成、キリスト教政治反対を支持しながら左へ鋭く移っていった。
安倍政権はこの例の項を一つ豊かにする。
さて、橘玲は安倍首相の左傾化を二つの理由で説明する。
ひとつは「右」にライバルがいないこと。一時は小池都知事が「日本ファースト」を掲げて右派=ネオリベ層を奪取するかに思われましたが、昨年の総選挙で見事に失速したことで、「右」のひとたちは多少の不満はあっても安倍政権を支持するほかなくなりました。その一方で、民進党の分裂で「左」に広大なフロンティアが開けたのですから、憲法改正の悲願を達成するためにも、リベラルな政策で支持層を拡大していくのは当然の戦略です。
もうひとつは、「リベラル」以外に政策の選択肢がないこと。「保守」の安倍首相は本音では「女は家で子育てしてればいい」と思っているでしょうが、それでも「3年間だっこし放題」まで譲歩しました。ところがこれが「3年も育休してたら職場に復帰できない」と総すかんを食ったことで、「子どもを産んでも女性がハンディキャップを感じない社会」を目指さざるを得なくなりました。これはたしかに「国際標準」ですが、首相がリベラルに目覚めたのではなく、それ以外では女性の有権者が納得しないのです。
一つ目は時事。これは今後はネオリベではなく日本第一党(国社主義者)の台頭で埋め合わせられるだろう。二つ目は要するに、社会民主主義だ。フェミニズム(女性プロレタリアートの拡大)は社民主義のほんの一要素にすぎないが、他の諸要素もまた「『リベラル』以外に政策の選択肢がない」ことで自ずと進行してゆく。
「安倍 左傾化」でググってみろ。たとえばザ・リバティWeb「民進党離れは自民の「左傾化」が原因!? 保守の沈黙が日本を危機に追いやる」(2017.08.30)いわく、
安倍政権、『共産党宣言』の政策にも手を出す
民進党の左傾化が注目されているが、その原因の一端は、自民党の”左傾化”にあるのではないか。つまり、「保守政党が左傾化しているため、左派政党がさらに左旋回して差別化を図ろうとしている」という構図である。
安倍政権は、左派勢力の連合(日本労働組合総連合会)との対話を”熱心”に行っている。官製春闘を通じた「賃上げ」や、いわゆる「残業代ゼロ法案」をめぐる働き方改革など、連合の意向に気を配っている。
また安倍政権は、「人づくり革命」と称して高等教育の無償化を視野に入れる。教育無償化は、『共産党宣言』に「すべての児童にたいする公共無料教育」と記されているような左翼政策の代表格。皮肉なことに、安倍首相が述べる”革命”であることに違いないが、その先の未来は日本の共産主義化だ。
こうしたやり方を、政権担当能力の高さと見るか、無節操な振る舞いと見るかは人それぞれだろうが、自民党が左派の支持基盤を取り込もうとしているのは事実である。
日本人の右傾化や保守化が叫ばれて久しい。大干渉での売り手労働市場の支持者が「右傾化」? ブルジョワ女性への罰金が「保守化」? 実態は、左翼の安倍が赤い青年と赤い女性にますます歩み寄っているだけだ。
「実際に右翼ではない組織はすべて、時経るにつれ左傾化する」。
保守主義の真祖ジョゼフ・ド・メーストルが言うとおり、
人がフランス革命を導くよりむしろフランス革命が人を導いているとはいみじくも指摘されてきた。……
革命を導いているように見えるゴロツキたちそれ自体が単なる道具として巻き込まれており、彼らがそれを統御しようと望むや否や、彼らは卑しく失敗する。
「革命」は続いている。これはフランス革命とロシア革命に続く第三次大革命である。それは東欧を迂回して西欧に襲い掛かる。その震源はアメリカ合衆国であり、合衆国の覇権は西欧と日本に及んでいる。日米欧は共産化する。しかし、共産リベラルから生まれるテロルは仏露のそれを軽く凌ぐだろう。
トランプと彼の支持者は少なくともこの革命に苛立っている。
かたわら、安倍は「単なる道具」だ。安倍は共産革命家だ。安倍はこの革命を統御できない。する気もない。
全体:信じるように躾けられて―中世の貴族制から現代の国家制まで、文化問題へのバイオニック・モスキートのリバタリアン論集
原典:bionic mosquito, “Onward, Christian Soldiers” (Saturday, May 9, 2015) [http://bionicmosquito.blogspot.jp/2015/05/onward-christian-soldiers.html]
進め、キリストの兵士よ、
戦争にて行進しつつ、
イエスの十字架をもって
先立つぞ!
王なる主のキリストが
敵への陣頭に立つ。
戦場へ進みながら、
見ろ、彼の御旗が先立っている!
『中世ヨーロッパ史』R・H・C・デイヴィス[1]
カール大帝についての短い注記だ。しかしまず、わたしはこの点を少し掘り下げるとき、次のものを見つけた[2]。
ウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトが大西洋憲章に同意するため一九四一年八月に戦艦HMPプリンス・オブ・ウェールズで会ったとき、チャーチル首相が選んだ聖歌のため礼拝が行われた。彼は「進め、キリストの兵よ」を選び、その後、その選択を説明するラジオ放送を行った。
――「我々は実際に『進め、キリストの兵よ』を歌いました。わたしはこれが自惚れた図々しさだったとは感じませんでした。我々はむしろ、トランペットが鳴り響く高みの目的への大義に仕えていると感じる権利がありました。同じ言語、同じ信仰、同じ根本法、同じ理念の戦う人々の密に詰まった集まりを見たとき、ここにはこの世界を計り知れない劣化から救うという唯一の希望、しかし確実な希望があったのだと込み上げてきました」。
―ウィンストン・チャーチル。
スターリンは地獄の「高み」から鳴り響く「トランペット」に答えながらこの「計り知れない劣化から世界を救う」不浄な三位一体での完璧なパートナーが務まるだろう。話が逸れた。
カール大帝(とカロリング帝国)は一般的にはそれ以前のメロヴィング王たちからの劇的な改善を申し出たと看做されている。わたしはさにあらずと感じる――すなわち、「何もしない王たち」(「ロワ・フェネアン」の直訳)として知られるメロヴィング王たちは、わたしとしてはそれでよかった[3]。
カール大帝はヨーロッパの大部分を統一した――今日のフランスとドイツ、北イタリアの大部分が彼の支配下で統一された。予想通り、彼はヨーロッパのこの大部分を統一するために戦闘した。カール大帝とフランク人は手に負えない者どもをキリスト教に改宗させる使命を自分たちが負っていると感じた。
キリストのために戦うことの誤謬はスペインであからさまに実証されていた。カール大帝がスペインでイスラム教徒に抗し戦ったのは事実である、けれども……
この戦場での最大の敗北たるカール大帝の後衛の殲滅は、後の伝説が偽るようなイスラム教徒ではなく、むしろキリスト教徒バスク人によりフランク人に課せられたというもの事実ではある。しかしそれら事実にもかかわらず、フランス人がキリスト教圏のために戦っていると納得していたのは申し分なく明らかである。
揺り戻しが見受けられたのはスペインだけではなかった。
したがって、七八五年からフランク人は「徹底」政策を始めた。サクソン人は征服されるのみならず、また必要なら実力により改宗させられなければならなかった。最初のサクソン・カピトゥラリウムにおいて、洗礼の抵抗や忌避には死刑が宣言された。異教徒サクソン人は法の外に置かれた。
改宗せよ、さもなくば死ね。実にキリストらしい。
その政策は武装レジスタンスに直面した。サクソン人は反逆し、カール大帝は各反逆を鎮圧した。幾つかの地域では、サクソン人は王国の多様な部分に追放された――立ち退きを蒙った土地はその後カール大帝の忠実な男たちに与えられた。
八〇〇年のクリスマス当日、彼は教皇によりローマの帝国位を頂いた――その称号は約三百年間で初めてのものだった。この出来事を取り巻く環境は今なお論争の的である――そのアイディアはカール大帝のか、教皇のか? 彼らはそれぞれこの出来事で得る有意な何かをもっていた。その背景が何であれ、それは教会(そしてthe Church――教会)と国家の有意な統一に相当した。
この戴冠式の前後とも、カールはほぼ継続的に戦争に従事していた。
カール大帝はその治世の四二年間ほぼ毎年、フランク王国国境を超える戦役に「軍」(‘host’)を召喚した。万が一、或る一年が裁判官会議〔placitum generale、直訳で一般嘆願〕なしで進むならば、年代記編者は慎重にその事実を記録した。というのもそれは記憶すべき年だったからである。
そのようなものが彼のキリスト教であった。
追伸として:彼の息子、敬虔王ルートヴィヒは、中世社会の太鼓判だった人格法を潰そうと試みた。彼は単一、普遍法典を欲した。ありがたいことに――その期間の分権化への回帰のために――ルートヴィヒはそれが事実上達成不可能であることに気づいた。究極的には、カール大帝の帝国は彼の死後ほんの数年間しか続かなかった。
[1] A History of Medieval Europe, RHC Davis.
[2] https://en.wikipedia.org/wiki/Onward,_Christian_Soldiers
[3] http://bionicmosquito.blogspot.com/2013/05/merovingian-anarchy.html
従軍慰安婦問題、正確には戦時売春婦問題がある。
二〇一五年一〇月、韓国は……が日本に対して、いわゆる日韓合意を提案した。先祖の名誉を傷つけ、歴史を偽りつつ、日本政府は韓国政府と「最終的かつ不可逆的な解決」を合意した。一七年一二月、韓国の文大統領はこの合意を破棄した。名目的には破棄しないが、これまでどおり実質的な違反を続けると宣言した。つまり:破棄した。そして、再び「真情性ある謝罪」を要請し始めた。
日本人は韓国の「動くゴールポスト」を非難した。……いいや、ゴールポストは動いていない。韓国での謝罪行為とは身分行為である。ゴールポストは初めから、日本の身分行為である。
* * *
韓国が早くから要求してきた「真情性ある謝罪」とは何か?
韓国の真情性。あるいは「心からの」、「心のこもった」、「真正の」。要するに、日本側の物理的で客観的な行動は決して評価されない。韓流謝罪は謝罪行為では終わらない。韓国での謝罪とは終わらせる行為ではなく続ける行為である。続けろ、相手が満足するまで。いわゆる「良心的日本人」は、韓国人の意見をそのように理解し、要約し、代弁するほど半島力があった。しかしいつ満足するか、ゴールポストの在り処までは予言してくれなかった。
満足/不満足の基準を知るためには、韓国の破棄の根っこを理解する必要がある。なぜ破棄したのか? それは韓国の日本観が関わっている。地理的、歴史的、宗教的にまとめれば以下のとおり。
一、小中華:野蛮人たる日本への覇権。世界の見掛け上の中心は余所にあるが、実は韓国こそが真の世界中心地であり、他の諸国民は野蛮人である。すなわち、韓国こそが真の「民主主義」国家であり、一つ東の日本人は野蛮な「日王」の野蛮な「島国」である。特徴的にも、彼らは日本を「弟」と表現してきた。
二、易姓革命:前支配者たる日本への粛清。支配者が前の者から今の者に変わったのは天命が改まった(革まった)からである。前の支配者は天に見捨てられた。すなわち、韓国こそが真の、今の支配者であり、天が見捨てた「日帝」の「残滓」は「破壊/清算」すべきである。憲政レベルでこう。以上の信念二つは韓国の文化窃盗問題にも関わっている。
三、朝鮮儒教:野蛮人かつ前支配者たる日本への鮮道徳的優越。野蛮人兼前支配者は「不道徳」な身分であり、道徳的な、「優越」した今の支配者からの命令すべてに従わなければならない。すなわち、韓国は道徳的であり、日本は不道徳な「戦犯国」なので、日本は韓国の全命令に従わなければならない。
要するに……日本は、韓国から見て一つ東にあり、一つ昔にいたから、悪い。
そして、李承晩。韓国の初代大統領。上述の信念三つを現体制に組み込んだのが彼だ。韓国の歴代大統領は彼が定めた枠組み内で合理的に行動しているにすぎない。
一番大事なのが、国民情緒法、つまり民意である。すべての根っこは政府ではなく民、「普通の韓国人」の情緒である。「普通の韓国人」の情緒を他の何かに責任転化することはできない。
日韓合意破棄は、この小中華・易姓革命・朝鮮儒教、李承晩と国民情緒法から自然に生じた。これらこそが理由であり、他の理由はせいぜい二次的か個別的なものにすぎないだろう。この破棄は「慰安婦」や「合意」などではなくとも起こっていただろう。日韓合意の過程を韓国の例外的な現象として説明する努力はすべて断念されている。
* * *
日本側の反応は目覚ましかった。
……戦争や災害などの非常事態に匹敵する。日本人は日韓合意の実質的破棄を韓国の反日活動として理解した。戦争・災害レベルの反日、と。
反日? アメリカだって反日ではある。ペリーに始まり、石油の制裁と民間人の大量虐殺、戦後の大衆洗脳、全般的搾取と特にプラザ合意、ジャパンバッシング、二〇一八年現在に至るまでの、特に空の軍事的占領。しかし韓国の反日はまったく次元が違う。
韓国の反日の特色は、理解しがたいことにある。それは近代的合理性が欠如している。それは主家国家のとは異なる合理性に支配されている。日本人が苦労して理解してきたその特色は、「近づく反日」であった。韓国は日本を、一方では「襲い来る悪い賊」として、ナム(余所者)と見ており、他方では「逆らう悪い弟」として、ウリ(身内)と見ている。ウリとナムの境はつねに動き続ける。彼らの反日は、右足では弟に正しい歴史や立場を教えてあげたいという当人たちとしては利他的な動機で近づいてくるが、また左足では敵を従えるために近づいてくる。いずれにせよ、彼らは日本に押し寄せてくる。つまり、近づく反日だ。
韓国の反日にとって、金が欲しいだの悪政のガス抜きだのは二次的な理由にすぎないようである。韓国人の中では反日は自覚できないほど普通である。「親日行為」は法的に犯罪であり、また社会的に制裁を受ける。左は侮日、右は用日、いずれにせよ反日である……一口で言えば、フルスペクトル反日国家だ。さもなくばヘル朝鮮(Hell+朝鮮)に倦んでガドポン(God+日本)に憧れる極端さ。
* * *
韓国の反日的満足は、小中華と易姓革命、朝鮮儒教に沿って決定される。すなわち、(一)野蛮人たる日本への覇権と、(二)前支配者たる日本への粛清、(三)野蛮人かつ前支配者たる日本への鮮道徳的優越だ。
覇権と粛清、鮮道徳的優越……これらを一言で表す言葉が、昔ながらの朝鮮語の中にある。「東方礼儀之国」だ。東方礼儀之国とは朝鮮王朝が支那に事大するさまのことであった。もちろん、支那朝鮮語の「礼儀」とは日本語の礼儀ではなく、あくまで支鮮の礼儀である。
「日本は韓国に対して謝罪しろ」とは、「日本は韓国に対して東方礼儀之国であれ」を意味している。
謝罪「しろ」=東方礼儀之国で「あれ」。つまり身分が問題だ。法律用語を使えば、鮮謝罪は身分行為なのである。韓国側の理解としては、謝罪する行為は遺恨を終わらせる行為ではなく、身分を始める行為でなければならない。そうしないかぎり、日本の謝罪行為は謝罪の精神・実質を伴っていない。つまり、「真情性がない」。日本の身分を、小中華・易姓革命・朝鮮儒教どおりの身分に正すこと、つまり韓国への東方礼儀の国に正すことが、韓国政府の、そして一般韓国人の対日政策である。
ゴールポストは動いていない。普通の韓国人は日本が鮮謝罪を履行するのを待機している。日本は東方礼儀を履行していない。
東方礼儀とは? 彼らが国内外で実践した東方礼儀のことを、ここで語るつもりはない。ただし、今の問題が性に関わる以上、貢女(コンニョ)その他の朝鮮性風俗のことは調べておけ。東方礼儀の民が女性の性をどう扱ってきたかを。韓国での戦時売春婦問題の特別な盛り上がり方には文化的、性風俗的な理由がある。過去は関係ない? ならあの裸コンパや高い性犯罪率と偽証罪率は例外なのだろうよ。
「韓国人が満足するまで謝罪しろ」。彼ら自身が告白するとおり、彼らの要求はどこまでも膨らんでゆく。フットインザドアだ。支那の尖閣侵入や北朝鮮のロケットでも同じように、パヨクは事態が膨らむことも、その膨らみ方も認識できない。しかし、それは膨らむし、その膨らみ方は歴史的・文化的に制約されている。
韓国人は言う。「歴史を忘れた民族に未来はない」。彼らは歴史を忘れるが、彼らの遺伝子は歴史を覚えている。遺伝は現実である。彼らは日本人に東方礼儀を期待してきた。彼らは「スシ女」(蔑称での「日本人女」)への同害報復を、いわばスシ貢女を期待してゆく。
女子高生の韓流ブーム、という朝日新聞お好みの報道は、意図的であろうとなかろうと、偶然ではない。中年ではない。東南アジア人ではない。男性ではない。若い日本人女性、の親韓化。社会経済学的に言えば、最も長期的に高い妊娠率を保つ、性的に魅力的な耐久財を、現支配者の下へ。……北朝鮮を地上の楽園と謳ったのは誰だった? その結果は?
わたしは冒頭で、良心的日本人は「ゴールポストの在り処までは予言してくれなかった」と言った。しかし口にせずとも、彼らはその在り処を薄々理解していたようだ。さすが。
韓国と日本の市民団体は、異常なまでに主張が似ています。異常なまで、に。
シンシアリー
* * *
韓国からの戦時売春婦の労働には、「最広義の強制性」があった。日本軍は売春婦を高額で雇ったが、その売春婦たちは朝鮮人が拉致し、あるいは朝鮮人が脅迫し、あるいは端的に朝鮮人が強要して、当人たちの意志に関わらず、売春へ売り出されていた、と推定されるのが最も合理的である。韓国人による韓国人のための韓国人の強制性。それを知らなかったとはいえ、日本は韓国人の性犯罪に加担してしまったのだった。
相手がフィリピンや台湾などだったら、このような複雑な問題でも宥和的に対応してしかるべきであろう。しかし、相手が韓国人であり、当の「従軍慰安婦問題」がすべて捏造である以上、そして何より、韓国側の満足する「解決」が究極的には新たな性犯罪――「スシ貢女」――にほかならないと推定される以上、この問題については、日本は韓国側の日韓合意破棄を認識し、韓国に対してその破棄の謝罪と全係争費用の賠償を要求すべきである。この問題が、日韓両国の捏造と、米支鮮の干渉の果実であるにせよ。
伊藤正敏『寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民』
日本文明の大半は中世の寺院にその源を持つ。最先端の枝術、軍事力、経済力など、中世寺社勢力の強大さは幕府や朝廷を凌駕するものだ。しかも、この寺社世界は、国家の論理、有縁の絆を断ち切る「無縁の場」であった。ここに流れ込む移民たちは、自由を享受したかもしれないが、そこは弱肉強食のジャングルでもあったのだ。リアルタイムの史料だけを使って、中世日本を生々しく再現する。
「BOOK」データベース
以下書評。
国家との縁切り:「国家から独立して、このような異質な第三勢力が存在したのは唯一中世のみである……縁切りとは、縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である」。
中世日本のパナルコ資本主義、一〇七〇年から一五八八年まで:中世日本の一部は確かにラフなアナルコ資本主義体制が敷かれていた……わたしはこれをパナルコ資本主義と呼びたい。