アルシェの物語〜In the Beginning was the Word〜 作:Menschsein
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アルシェは最短距離で神殿から自宅へと向かう。平時の帝都であれば屋根よりも高い空間を跳べば、帝都の空を守っているロイヤル・エア・ガードの警戒網に引っ掛かり、すぐに事情聴取されてしまう。だが、今の帝都の上空は赤く染まっていた。
草原で傷を負った旅人を見つけた禿鷹が、上空で旋回をしながら旅人の命が尽きるのを待つように、ロイヤル・エア・ガードは帝都の上空と帝都周辺に目を光らせている。だが、帝都上空には、飛竜の姿はまったく見当たらない。
・
アルシェは屋敷の扉の前に降り立った。そして深呼吸をした。それには二つの理由があった。
一つ目の理由が、屋敷へと
アルシェが深呼吸を二度した理由の二つ目は、恐かったからだ。悪魔が恐いのではない。悪魔が帝都に出現してからどれくらいの時間が経ったのだろうか。アルシェが帝都に戻ってきた後も、逃げ惑う人々を神殿まで送り届けるのに時間がかかってしまっている。妹達の救出が間に合わなかったなら……。妹達が悪魔の手にかかっていたら。
そんな恐怖がアルシェに深呼吸をさせたのであった。
扉を開けたアルシェの目に飛び込んできたのは、エントランスの真っ赤な絨毯の染み。黒っぽい赤色の染み。疑いようも無くそれは血が流れた跡だった。だが、亡骸がエントランスには無い。血の染みは階段に続いている。
血を流したのが誰であるか不明ではあるが、その人は血を流した当初生きていた。
お願い、間に合って……。そして、妹達の部屋があるエントランスを登って左側から、叫び声が聞こえた。それは父の声だ。深呼吸をして失った時間を取り戻すかのように、アルシェは階段を登る時間を惜しみ、
叫び声と金属音。それが聞こえて来るのは、妹たちの部屋だ。
「クー! ウィー!」
アルシェは妹たちの名前を呼びながら部屋へと飛び込む。
部屋の中には悪魔が一匹、そしてその悪魔に向かってサーベルを振り回す父。部屋の隅ではクーデリカとウレイリカが母の手に抱かれながら泣いていた。母も顔面蒼白で震えながら悪魔を見つめている。執事のジャイムスは、悪魔から母と妹を守るように立っているが、ジャイムスの左腕からは血が流れつづけて、紺色の絨毯を赤く染めていた。
「
アルシェの渾身の
そしてその隙にアルシェは、妹たちの所へと移動する。
「退治は出来ぬのか!」
「出来ない……」
「冒険者の真似事をしていて、その様か!」と父親はアルシェに言いながらも、悪魔をサーベルで警戒しづつけている。
「お母様……」とアルシェは父親の言葉を無視して、部屋の隅にいた母親のもとへと駆け寄る。
アルシェが駆け寄るなり、「アル、クーとウィーだけでも連れて早く逃げて」と母が口を開く。
――もとよりそのつもりだった――
そんなことをアルシェは言うことなどできない。
「心配しないで。私も昔、護身術を学んでいたのよ。後から追いかけるからね」と母がアルシェに言う。母が両手で握りはじめたのは、ペーパーナイフであった。そんなもので悪魔に対抗することなどできるはずがない。それに、母が大切に育て、咲き誇った
母は死を覚悟している。それをアルシェは悟る。
「私の愛する子どもたちには、私のように恵まれた子ども時代を送らせることができなかったわね。許してね」と母は言って、泣いているクーデリカとウレイリカをアルシェに託した。
「お母様……」
「でも、私は可愛い三人の娘に囲まれて幸せだったわ。でも、最近、あなたは家を留守にしがちで寂しかったのよ。クーとウィーにはこれからそんな寂しい思いをさせないでね……」
魔法学院の生徒であった時は、授業が終われば家に帰ってきていた。冒険者となってからは、連泊して冒険に出ることが多くなっていた。そして、カッツェ平野から帰ってきた時も、遺跡調査から帰ってきたときも、妹たちには会いに行っていたが、母親に顔を見せに行ったりはしていない。母に寂しい思いをさせていた。いや、母が寂しい思いをしてくれていた……。
「アルシェお嬢様。悪魔が回復しています」とジャイムスが苦しそうに右手を脇腹を押さえなが言った。ジャイムスは脇腹も負傷しているのであろうか。
アルシェの
「
アルシェの
「アルシェ。クーデリカとウレイリカを連れて早く逃げろ」と父は悪魔にサーベルの刃先を向けながら言った。そして、スッとアルシェに左手で何かを投げて寄越した。
アルシェはそれを咄嗟に受け取る。アルシェの右手の手の平に載せられていたのは、指輪だった。
「お父様……これは……?」
「愚か者! そんな簡単なことも分からぬか。フルト家には男子はおらぬ。それならば嫁いでいない最年長のお前がフルト家の当主となるに決まっておろうが!」
父親がアルシェに投げて渡した物。それは、フルト家に代々受け継がれてきたフルト家当主であることを示す指輪であった。
父の形見。それが貴族の当主の証である指輪とは、皮肉なことだと思いながらアルシェはその指輪をポケットへと滑り込ませる。
「すまなかったな……」
アルシェの父親は、悪魔を警戒しつつそう呟いた。
「え?」 父が謝罪の言葉を口にしたようにアルシェには聞こえた。一度も家族に対して、母にですら謝罪をしているところをアルシェは見たことがなかった。家族や自分に対して酷いことをしたとしても、それが当然だというような顔をいつもしていた父だった。
「すまなかったな。当主の指輪だけでなく、爵位も一緒に譲って然るべきなのだがな。私が父から受け取った爵位。それをお前には渡せなかった。当主失格だ。許せ」
父が謝罪している。指輪と一緒に爵位を自分に譲ることが出来なかったこと。謝って欲しいことはそんなことじゃない。フルト家の当主であることを証明する指輪なんて自分はいらない。貴族の爵位だって自分から願い下げだ。もっと謝って欲しいことは別にある。指輪と一緒に爵位が譲れなかった。そんなことはどうでも良いことだ。ポイントがずれている。
だけど……。父が謝った……。
「お父様……」
アルシェは、悪魔と対峙している父の背中を見つめる。父の姿を直視したのはいつ振りであろうか。自分が思っていたよりも父の背中は小さかったのだとアルシェはその時気がついた。
父親の後ろ髪。金髪の髪には白髪が交じっていた。悪魔の爪によって受けた傷であろうか、母やクーデリカとウレイリカを身を挺して守ろうとしたんのであろうか。
「早く行け! 当主は、時として残酷な決断をしなければならない。家を守るためにな……」
貴族狂いの父親だけど……
世間知らずな母親だけど……
それに、長年、すでに破綻しているフルト家に仕えてくれているジャイムスもいる。
また、あの幸せだった頃の家族を取り戻せるかもしれない。諦めるのにはまだ早いかもしれない。それに、ここでクーとウィーだけを連れて逃げたら、その機会は永遠に失われる……。
私は……見捨てられない……。そんなこと、やっぱり出来ないよ……。
ごめん…………モモン…………。
妹を連れて家を出る……。
妹達が安全に暮らせる場所に、冒険者チームの拠点を移す……。
そして、モモンと一緒に新しい拠点で一緒に冒険をする………………。
ごめん、モモン……。私から言い出したことだけど……やっぱり私、そんなこと出来ないや……。
「お母様、クーとウィーをお願いします。お父様、お父様もお母様の所へ。ジャイムスも!」
あのバッカスの酒蔵で出会った老執事が教えてくれたこと。自分の限界を超えるということ。
かつて、フールーダ師匠が見せてくれた魔法。自分の今の実力では到底使うことはできないだろう。だけど……やるしか無い。いや、やらなければならない。悪魔を倒さなければならない……。自分の全てを絞り出してでも。
『
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モモンは、帝都の大通りを北から南へと悪魔を切り倒しながら駆け抜けていた。
「どんどんPOPしてくるな……。第十位階の
モモンはそう呟きながら、悪魔を一匹、また一匹と倒す。
「む? 爆発音? 戦闘か?」
その戦闘音は、帝都の南門の外から聞こえてくるものだった。モモンは、その音がする方向へと急いだ。
・
「む? 戦っているのはプレアデスのエントマ・ヴァシリッサ・ゼータか? セバスやソリュシャン・イプシロンが帝都にいたのも意味がわからなかったが、エントマまで何故帝都に? それに、相手は、”蒼の薔薇”だったか? 王国の冒険者と言っていたが、なぜバハルス帝国の、しかも帝都に来ているのだ? まさか前回の戦いの
”蒼の薔薇”とはすでに一度戦闘をしている。敵である可能性が高いであろう。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータは、ナザリック地下大墳墓の九階層を守護する役目を持っている。当然、自分がギルド武器であるスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを破壊しようとするのなら戦闘になる可能性がある潜在的な敵と言える。
問題は、帝都に現れている悪魔たちをどちらが召喚しているかということであろう。もちろん、この両者が悪魔の召喚とは無関係ということも有り得る。
とりあえず……様子見か? それにしても、セバスやソリュシャン・イプシロンといい、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの戦闘といい、これは本当に
モモンが、エントマと蒼の薔薇の戦いを物陰から隠れて観察してすぐのことであった
「む? 見たことのない魔法だな……」とモモンは呟く。
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イビルアイが放った魔法で、メイド服を着た蟲使いは、顔中から蒸気を上げてもがく。その様は、酸を浴びたかのようであった。
「一体、何の魔法?」
ティアの質問にイビルアイが答える。
「殺虫魔法<
<勝負あったな。”蒼の薔薇”のあのイビルアイだったか。エントマの属性に効果的な魔法を使える。蟲という種族の弱点属性だから、さすがの源次郎さんもその弱点を装備で埋められなかったはずだ>
イビルアイの魔法を受けたエントマはもがく。エントマの整った顔がどろりと垂れ下がり、ぺちゃりと地面に落ちた。顔の皮膚が剥がれたような光景であるが、それは違う。地面に落ちた顔の皮膚、その裏には蟲の足がびっしりと生えていたのだ。
「まさか、仮面状の蟲だというのか……」
「ゴボォオオ!」
エントマの喉が晒される・ひどく固そうな喉の中央には一本の亀裂のようなものが走っており、そこから粘着質の大きめの固まりがこぼれ落ちた。
嘔吐物のようであるが、それもまた地面の上でうねっている。
「――
肌色の蛭の先端部分は人間の唇を思わせる外見であり、ヒューヒューと先ほどまでのメイドの可愛らしい声を上げている。
「ヨクモォ……ヨクモォ……絶対ニ殺ス」
<無理だ、エントマ。今ならまだ逃げられるだろ? お前だけではこいつらに勝てない……>
「可愛らしい声になったじゃねぇか。俺はそっちの声の方が好きだぜ?」とガガーランが
エントマは、それを後ろに跳んで回避する。
イビルアイは、エントマが離れた隙に、地面をうねっていた
「キ、貴様ァァァァ!!!! 私ノ御主人様カラ頂イタ声ヲ!!!!!!!」
「主人だと? 笑わせるな。お前のような醜いメイド・モンスターを側において喜ぶ者がいるとは思えないが」とイビルアイは冷淡にエントマを見下しながら言った。
「ソンナハズハ無イ! 至高ノ御方ガタハキット私達ノモトヘト戻ッテキテクダサル! 私達ハ見捨テラレタンジャナイ! ソンナハズハ無イ!」
エントマは悲痛な叫び声を上げる。
<ごめんな、エントマ……。もうナザリックは、アインズ・ウール・ゴウンは俺には重すぎるんだ……>
「よく分からないけど、敵は冷静さを失っている! 一気にたたみかけるわよ!」とラキュースがチームに号令をかける。
「了解だ。<
「爆炎陣」
「砕けやぁ」
<早く逃げろ……エントマ。勝てないことくらい分かるだろ?>
「雷鳥乱舞符!」
「
「我が意志で動く黄金の
<どうした……エントマ。早く逃げろ……。源次郎さんがこんな光景をみたら悲しむぞ……>
「爆散符」
「鋭斬符」
・
・
「おや、源次郎さん、やまいこさん、弐式炎雷さん、どうしたんですか?」
「モモンガさん、見てくださいよ。ついに私達で構想していたプレアデスの六人目がついに完成したんです!」
「あと一人でプレイアデスは全員揃います。作り込み過ぎてなんど挫折しそうになったか……」
「僕、感動してなんかもう泣きそう……ユリに妹がたくさんできたよ……」
「やまちゃん……まだ、プレイアデスは全員揃ってないけど……。感動するの早くないかな? ってでも、姉妹っていいよね。弟がいないあたりが特に」
「姉ちゃん、しれっと俺をディスってる!」
「六人目のお披露目をしていただけるのですか?」
「はい。製作者は私です。名前は、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータです!」
「へぇ。可愛い……って、あれ、顔が取れた……って、蟲〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!」
「あっ!!!! ぶくぶく茶釜さん……。驚いてそのままログアウトしちゃった……。虫とか苦手な方だったんですか?」
「源次郎さん、気にしなくて大丈夫ですよ。そもそも、自分がピンクの肉棒のアバターなのに、虫が苦手とか、姉ちゃん、いろいろ変わってますから」
「良いですね。ピンクの肉棒なのに、虫が苦手。そのギャップ、萌えます」
「さすがタブラさん……。そこにギャップ萌えを見出すとは……」
「あの……。私の種族も昆虫系なのですが……」
「いやいや、たっちさん。地味に凹まないでくださいよ。たっちさんは、
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「
「衝風符」
<何故逃げない! 早く逃げろエントマ! 本当にやられてしまうぞ!>
「私ハ負ケルワケニハイカナイ。帰ッテキテ頂クノダ! モモンガ様二ナザリックヘ戻ッテキテキタダクノダ!」
「バケモノめ。最後のトドメだ……」
<アルシェ……。すまないな。約束を守れそうにない……。俺は過去の思い出を捨てることができそうにない。俺は前に進めそうにない……。やっぱり俺にとって、ナザリック地下大墳墓は宝なんだ。アインズ・ウール・ゴウンは俺の大切な場所なんだよ……>
「装備解除……。"
イビルアイ、ラキュース、ガガーラン、ティア、ティナへと、時間が停止した世界の中で、
「モモンガ様……御手ヲ煩ワセテシマイ申シ訳アリマセン……」
時間停止への耐性を備えたマジック・アイテムを装備しているエントマ・ヴァシリッサ・ゼータは、地面に横たわりながら、自らの忠誠を捧げる至高の存在に向かってそう口を開いたのであった。