2018-08-23

容姿が良い人間を見ると跪かなければいけない気持ちになることがある

高校でも大学でも容姿が良い友達というのは居なかった。

ただ、高校ではクラスという単位強制的に会話をする機会が出てくる。

また、大学では資本が「コミュニケーション」というものを重視するため意味があるとは思えないグループワークを行ったりするもの

そこでも容姿が良い人間と話したりする。

ただ、今まで容姿の良い人間と大抵価値観合致したことはなかった。

話しているうちに自分容姿言動や行動をバカにされているのではないかと感じたりもした。

ただ、それはやはり自分が醜く不当であるからなのだろう。

彼らを見ると、自分古代中世人間が「高貴」な人間に跪いていた時と同じような気持ちにさせられる。

自分とは違う天上人なのだ。そして、彼らのほうが素直で正しいのではないかと自他共に感じる。

ただ、日本人の多くは中世感覚が抜けきっていないようだが現代というのは身分制度を無くす闘争がある。

自分容姿という不当な格差に虐げられていると高校時代から感じ始めた。

どうやら自分容姿という身分制度から政治やら反体制というものに関心を持ったようだった。

容姿が醜いか政治やら社会に注意が向いて、体制やら権威への疑いが湧いてきたのだった。

さらに良い扱いを受けてこなかったから、世間というもの不正欺瞞不公平に満ちていると見えるし、事実そうなのだろう。

最近反体制フィクションを好んで見る。

ただ、彼らは容姿が良い。そして、容姿が醜い自分とは別人種だと感じるのだ。

現実ではあまりないことだろう。

容姿が良いと皆から良い扱いを受けるから社会は良いものに見えやすいだろうし、不満も溜めにくいはずだ。

勿論、様々な人がいることは理解している。

ただ、自分容姿が醜いからこそ自由を求めているのだ。

そして、それは結局容姿が良くなることでしか解放されない気さえする。

  • anond:20180823193934

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  • anond:20180823193934

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