はじめに
私の様々な経験や私が提唱してきたアジア解放史観(”大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だったー帝国政府声明の発掘”展転社刊に詳述)から見て、日本人は韓国人とどう付き合えばよいのか、あるいは付き合わない方がよいのか、付き合わないとしたら、どのようにすれば縁切りできるのか。そんなことを考えながら上梓したのが拙著『絶滅危惧種だった大韓帝国- 朝鮮半島を国連信託統治とせよ』(展転社)である。おのずと、朝鮮史や朝鮮人の民族性についても筆は及び、分かりやすく、かつ面白く書けたと思う。ただし、それは決して意図してそうなったのではなく、朝鮮の歴史を追求すればするほど、その虚無なる歴史に呆れ果て、もう「笑い飛ばす」しかその虚しさから逃亡する手立てが無くなてしまったからであるという事実を最初に付け加えておく。詳細については拙著を参照されたい。
世界中で嫌われる韓国人
私の〝韓国人体験〟には、いい思い出がほとんどない。
昭和六十年(一九八五)、内閣府を辞して母校の北海道大学農学部の農業工学に研究生として身を寄せていた時、寒冷地の農業を学び、満洲に北海道の農業技術を移植させるために留学してきていた中国人の李さんという人がいた。ある日、李さんが「帰国しても満洲には行きたくない」と呟いた。その理由を尋ねてみると「満洲は朝鮮人が多いから嫌」というのである。朝鮮人は「すぐにヒステリーを起こして暴力を振るう」のだそうだ。
平成四年(一九九二)、シベリア鉄道と北海道の宗谷本線を繋ぐプロジェクトの調査で東シベリアのハバロフスクに赴いた時のことである。ロシア人通訳の方に「バザール(青空市場)には行かない方がいい」と引き留められた。バザールには韓国人が多く、観光客と分かると因縁を付けられて金品を奪われるというのである。ロシア人さえあまり近付かないとのことであった。
アメリカ行きの飛行機で出会った中年の韓国人のおばさんたちは、観光ビザで入国してそのまま居残るつもりだと言っていた。韓国人には不法入国することに対して罪の意識がないということがハッキリと分かった瞬間であった。どおりで日本にも不法入国の韓国人が多いわけである。祖国を捨てることに何の戸惑いも感ぜず、祖国愛とか愛国心とかいう概念がまったく欠如している人種なのである。
その飛行機では、眠る時間になると通路がおばさんたちの寝姿で埋まってしまい、CAさんに注意されても「どうせ死ぬときはみんな一緒よ」と開き直っていた。ここまで民度の低い人種を大日本帝国はよく面倒を見ていたなと感心したものである。
ロシアによる朝鮮占領を阻止する
明治四十三年(一九一〇)の日韓併合に連なる歴史を正しく理解するには、十八~十九世紀のロシアの動きを見なければならない。
「ロシアは不凍港を獲得するために南下政策をとった」。教科書ではこのように書かれているが、これは半分正解で半分間違いである。ロシアという国は広大なその版図に比べて外洋に面しているのは、千島列島からカムチャッカ半島へといたる北西太平洋沿岸のみである。そんな中、国境策定のため明治八年(一八七五)に樺太千島交換条約が締結され、ロシアの太平洋への直接的な出口はカムチャッカ半島のみとなってしまった。このような貧相な港湾事情のためにロシアは南下政策をとったのである。不凍港どころか港そのものが不足していたのである。
当時の軍事的脅威とは海軍力であり巨大な大砲が搭載された戦艦である。万が一朝鮮が侵略され、釜山港をロシア帝国の軍港として使用されてしまうと、半日で九州は砲撃される。当時、我が国唯一の近代的製鉄所であった八幡製鉄所も破壊される。日本にとって、ロシアに対抗するには朝鮮を清国から独立させ、ロシアなど欧米列強へともに対抗させる選択肢は残されていなかった。朝鮮を清国から独立させ、ロシアに対抗させる、そのために日清戦争を戦うことになったのである。
日清戦争は日本が勝利し、朝鮮は大韓帝国として晴れて独立を勝ち取った。大韓帝国は独立国として欧米列強に対し毅然たる外交を展開すると日本は期待していた。しかし、何を血迷ったのか大韓帝国は”売れないスナックのママ”のごとく、ロシア帝国に秋波を送り始めたのである。ロシアからしてみれば、まともな軍事力を持たず、無防備な上で秋波を送ってくる独立朝鮮は大歓迎であった。さらに、ロシアは三国(フランス、ドイツ、ロシア)干渉によって日本が下関条約で獲得した遼東半島を返還させるなど、朝鮮半島への関与を続けていた。こうして日本は今度は日露戦争でロシアと戦わざるを得なくなったのである。
世界の予想を裏切り、白人列強の中でもナポレオン戦争に勝利するほどの陸軍大国であったロシア帝国に日本は勝利した。近代において有色人種国家が白人列強に勝利したのはこれが初めてであった。
恨むならむなら自らの先祖を恨め
日韓併合について、韓国側は日本がまるで生娘を手込めにするかのごとく併合したかのような言い様をし、何らかの軍事的強制があったのではないかと主張している。しかし、これは完全な間違いである。
日韓併合前、大韓帝国の国家元首であった純宗(じゆんそう)が行政府の長である李完用(りかんよう)首相にあてた勅書では、大日本帝国と大韓帝国の合邦を速やかに進めるように指示している。もし、日本側の軍事的強制による併合であるならば、このような勅書が発行されることなどあり得ないし、無理に発行させる必要もない。占領して我が国領土に組み込めばそれで全てが終わってしまう。実態は大韓帝国側から日本に対し併合懇願があり、協議のうえで併合が決まったのである。著者はこの勅書を”併合懇願勅書”略して”懇勅”と呼ぶことにしている。
”併合懇願勅書”略して”懇勅”日韓併合全権委任状であり純宗の署名が入っている・
このような事実を叩きつけたとしても「当時の国民の意思を代表していない」などと韓国人は言い訳するであろうが、それは外交的に通用しない。議会を持たず国民国家ではなかった当時の韓国では国家元首の決めることが大韓帝国の意思である。我が国も、徳川の時代に外国と条約を結んだのは幕府であったが、明治政府は徳川の時代に結ばれた不平等条約の改正を地道に進め、「徳川の時代に結ばれた条約は国民の意思を反映していない」などと開き直ることなどあり得なかった。
まして、日本人は開国から百六十年以上経ってから、当時外国と結ばれた条約に対してイギリスやアメリカを恨み続けることなどありえない。それは、その条約を結んだのは我々の先祖であり責任があるとしたら我々の祖先に責任があるからである。韓国人にはこう言い返せばそれですむのである。
「日韓併合はお前らの先祖に責任がある、恨むならお前らの先祖を恨め」
絶滅危惧種だった大韓帝国
日韓併合から二十七年後の昭和十三年(一九三七)、ソ連極東地区に居住する朝鮮民族三万六千四百二十二家族、十七万千七百八十一人の朝鮮人が一夜にしてて中央アジアへ強制移住させられた。その理由は「朝鮮人は国家への忠誠心が希薄で外国勢力と結託する可能性がある」というものだった。沿海洲に居住する朝鮮人住民が日本のためにスパイ活動を行っていると考えられていたのである。ソ連は、満洲で抗日戦を展開しようとしていた中国共産党との協力体制構築のためにも、スパイの恐れのある朝鮮民族を極東に住まわせておくわけにはいかなかったのである。
朝鮮人はソ連政府から支給されるはずだった資金も受け取ることができず、移住させられたものの殆どが稲作農家や漁師だったこともあり、中央アジアの砂漠地帯への対応は困難であった。そのため、少なくとも四万人の朝鮮人がまもなく死亡したと言われている。
ソ連はほかにも、五十万人とも言われるチェチェン人をカザフスタンへ、ジョージア南西部のメスヘティ地方に居住していたムスリム諸民族を中央アジアへ、カスピ海北西部のカルムイク人を西シベリアへ強制移住させている。
このような歴史からも、もし朝鮮半島がソ連領になっていれば、半島の朝鮮人も沿海洲の朝鮮人と同じように中央アジアやシベリアへ移送されたと考えられる。特にシベリアは極寒の地であるからして、そこに移送して「後は勝手に仲良く生きていってください」と放置すれば、数年で朝鮮人は絶滅したはずである。ロシアの民族浄化はガス室も射殺も原爆も焼夷弾も必要としない。シベリアへ移送して放置すれば、それでこと足りるのである。朝鮮人は間違いなく〝絶滅危惧種〟だったのである。
ロシア帝国の南下・占領を恐れていた李完用の認識は正しかったといえる。日韓併合により、ロシア帝国による占領を避け、朝鮮民族のの絶滅を防いだのである。さらに、大日本帝国は無きに等しかった教育制度を造り、司法制度を整え、交通インフラを造り、身分制を廃止して、朝鮮半島を近代化した。
自己統治能力無き雄アンコウの国
朝鮮半島の根本的病理は事大主義(支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度)という名の属国根性である。分かりやすく例えるならば〝お妾根性”である。しかも、都合に応じて旦那を取っ替え引っ替えする最も質の悪い妾である。
十三世紀、朝鮮はモンゴル帝国の妾をしていた。そして、旦那であるモンゴル帝国をそそのかし、海の向こうにある日本を攻めさせた(日本では元寇と呼ばれている)が結果は惨めな敗退であった。
中原にてモンゴル帝国が衰退した後は明王朝が取って代わった。そこで、朝鮮はモンゴルに占領されていた地域に攻め込み、領土を回復し、暴虐の限りを尽くしてモンゴルを半島から追い出した。まさに〝恩を仇で返す行い”であった。以後、〝恩を仇で返す行い”は彼らの「国技」として定着する。
明王朝に衰えが見えると、こんどは清王朝に旦那を代えた。清が朝鮮に明を攻撃するように命じると、清が行うよりも残虐な仕打ちを明に対して行ったのであった。次の旦那に気に入られるには前の旦那を打ちのめすのが妾道の本質である。
そして1839年アヘン戦争が起こり清王朝の力が衰えたのを見ると今度は日本とロシアに秋波を送り、日清・日露の戦争を経て1910年の朝鮮併合へと続いていったのである。
今、日本は韓国から「恩を仇で返されている」状態である。新たな旦那である米国に気に入られるには、たとえどんなに恩義があろうと前の旦那である日本を貶さなくてはならないのである。それが妾として世間を渡り歩く王道なのである。
奴らが日本に返している仇とは日本が植民地解放という開戦目的を達成したにもかかわらず、表向き敗戦国家とされていることを良いことに「敗戦白丁奴隷」として日本人を扱うことなのである。日本人を敗戦奴隷と見做しているから日本へ引き揚げ中の日本人を殺害しても罪悪を感じないし、何度も謝罪を要求し、何度も賠償を請求してくるのである。
明治四三年(一九一〇)日韓併合によって絶滅から救われ、昭和二十年(一九四五)の終戦を境に三等国かつ最貧国へと転落していた韓国は、昭和四十年(一九六五)の日韓基本条約に基づく経済技術援助によって再び息を吹き返し、今日の二等国の地位を獲得した。日本に寄生しているときは繁栄し、寄生を拒否されると衰退するのは、寄生国であることの証である。
韓国朝鮮はその寄生ぶりからよくコバンザメに例えられるが、その実態は雄アンコウの生態に酷似している。アンコウの雄は深海底で雌に齧り付くと、そのまま雌の体の一部となり寄生する。最後は血液まで雌から供給され、一体化したまま生き続ける究極の寄生魚である。その生き方はまるで韓国の歴史とうりふたつである。
雌に寄生する雄アンコウ
雄の顔が雌の体に埋まって見えない。このイラストでは3匹の雄が雌の腹部に食いつき一体化している。 Contributed by Robbie N.Cada
(ウィキペディアより引用)
日本に併合を依頼してきたから、それに応えて併合してあげたのに、子や孫の代になって「近代化したことを許せない。それではまるで朝鮮人は無能みたいではないか」と言って非難される。それだけではなく、世界中に慰安婦像を建てて日本を貶める。このような国家には二度と施しを与えるだけではなく、国家そのものを消滅させなくてはならない。断交だけにとどめて国家を存続させれば、またしても国交回復をネタに日韓議連の議員達に賄賂をばらまき、悪さを企むに決まっているからだ。
朝鮮半島を国連信託統治領とし「新脱亜論」を完成せよ
日本が歴史から学んだことは、朝鮮民族が形成する国家と付き合うと碌なことはないという現実である。彼らには独自の国家観など存在せず、ただその時代を生き延びるために事大主義(お妾主義ともいう)によって日本・支那・ロシア・米国を手玉に取って生き延びてきただけなのだ。彼らが宿主を交換するたびに東アジアは不安定となり混乱する。独立国家として自主的な国家運営を行う能力に欠けているのである。彼らに国家を所有させると結局周辺国に迷惑がかかる。
度重なる自国民への虐殺行為や、一国の国家元首が近隣国に核ミサイルを撃ち込んでやると恫喝し、国家レベルで借りた金を返さず、国家が率先して世界中に慰安婦像を建て、隣国(日本)に対する人種差別を行っている。ミサイル恫喝も借金踏み倒しも人種差別も、宣戦布告に等しい行いである。これらの事実だけを見ても国際秩序の中で独自の国家を所有する資格など朝鮮民族にないことは明らかである。
では、彼らとどのように関わっていくべきなのか。最初に浮かぶ答えは国交の断絶である。しかし日韓基本条約には廃棄事項が存在しないため、国交の断絶には一方的破棄という好ましからざる手段しか残されておらず、締結した条約はすべて遵守してきた栄光ある我が国の外交史に大きな汚点を残すこととなる。
前述したように慰安婦像と核ミサイル恫喝への報復は国家の抹消でなくてはいけないわけであるが、今日国家を抹消するによい方法がある。国連による信託統治とする方法である。
1945年2月、ヤルタ会談で米英ソ首脳はヤルタ協定を結び、朝鮮半島を当面のあいだ連合国(米英中ソ)四ヶ国による信託統治下に置くことを決めていた。そして終戦直後の1945年12月、モスクワで開催されたモスクワ三国(米英ソ)外相会議にて、朝鮮を米英ソ中4か国の信託統治下に最長5年間置くこと、信託統治後は選挙を行い、統一政府を樹立することで合意していた。結局この構想は朝鮮民族特有の足の引っ張り合いから実現しなかったのであるが、南北分段以来70年に亘る朝鮮半島自身の凄惨なる歴史をみれば、その凄惨なる歴史事象の数々の原因は米英ソが民度など無きに等しい民族に中途半端に独立を与えた結果であると判断せざるを得ないのである。
北朝鮮と韓国を国連信託統治に置くということは終戦直後に戻すということであり、疑似戦勝国(表向きは戦勝国であるが、実態は全植民地を喪失した敗戦国)である〝旧連合国”も同意できるのではないだろうか。もし同意できないのであれば、我が国は朝鮮半島が不安定であることから生まれる様々な軍事威圧と日本人に対する人種差別に対抗するため、場合によって日米安保体制を終了させ、イスラエルのごとく独自の核武装と重武装化を実現するしか道は残されていないことを旧連合国に伝えるべきである。
核によって日本を脅し続ける北朝鮮は、米国による空からの無力化攻撃とロシア軍による地上侵攻による金正恩体制崩壊のあと、ロシアを施政権者とする国連信託統治領とし、もしもロシアがロシア領への併合を望むのであれば、北方領土問題の解決を条件に認めてもよいのではないだろうか。
韓国国民も独立国家として無能なる韓国人政治家に統治されるよりも、プエルトリコのように米国による信託統治を経て、米国の自治連邦区にでもなったほうがよほど幸せであろう。韓国については国民投票を行い、是非を問えばよい。反対する韓国人は殆どおるまい。何故なら米国に密入国する必要がなくなるからだ。また軍人ですら武器を捨てて戦わないお国柄であるからして韓国軍の軍人まで賛成するはずである。ただし米国民がそれを受け入れるかどうかはまた別の問題であるが。
朝鮮人に独立国家を持たせずにかつ朝鮮半島を安定化させる道は国連信託統治領に組みこむことである。それしか残されていないと私は考える。安倍総理は盟友であるトランプ氏とプーチン氏に提案してみてはいかがであろうか。
福澤諭吉は明治十八年(一八八五)に、有名な「脱亜論」を書き「脱亜入欧」の概念を提案した。支那韓鮮とは関わらず、欧米とのみ付き合えという意味である。私は諭吉先生の唱えた脱亜論を忠実に履行していたなら、日本がアジアの欧米植民地をすべて解放独立させ、解放をアフリカまで波及させることは叶わなかったことであろうと考えている。我が国の欧米列強との戦いの狼煙は満州朝鮮半島においてあげられたからである。
朝鮮半島の併合と満州国の独立は欧米帝国主義国家に対し自分たちの植民地もそのうち解放独立させられるのではないかという恐怖心を植え付けた。そして実際に満州事変から10年後、大日本帝国はアジアの白人植民地解放へと乗り出し、それを完成させた。大東亜解放を成し遂げた戦後こそ、やっかいな隣人である朝鮮半島と支那に関わる必要はなくなったのである。いまこそ「東アジアの悪友」(脱亜論より)である支那韓鮮とは縁を切るべきである。
アジア解放史観への転換しか支那韓鮮を黙らせる手段は無い
支那韓鮮が日本に対して歴史戦を挑んでくるその根拠は東京裁判史観である。疑似戦勝国である米国は東京裁判を捏ち上げ、アジア解放の英雄である大日本帝国を侵略者であり悪党国家であると、自らの悪戯を棚に上げて決めつけ、その侵略敗戦史観を日本人に洗脳し植え付けた。その結果日本人は侵略敗戦史観に塗れ、総懺悔民族へと転落した。その総懺悔心理につけ込んできたのが支那韓鮮である。彼らの言い分は「日本人は懺悔を続け”敗戦奴隷”に身を落とし続けなさい」ということなのである。少しでもそれに刃向かいそうな保守系政治家が現れると、メディアや対立政治家に賄賂を送ってねじ伏せてきた。
大東亜戦争が紛れもない植民地解放戦争であったことは拙著「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だったー帝国政府声明の発掘」(展転社刊)にて著者が科学的に証明した。
日本人が東京裁判以来吹き込まれてきた敗戦侵略史観を抱き続ける限り、支那韓鮮による日本叩きは止まらない。慰安婦が論破されると徴用工を持ち出し、それも論破されるとまた違うものを持ち出してくる。モグラ叩きのように日本叩きは永遠と続くのである。
韓国人が白人国家において勝手に他人種を中傷する銅像を建てることなど戦前は不可能であった。有色人種は白人の奴隷以下であったからだ。人種平等を実現したのは靖国に眠る英霊たちである。その英霊たちが有色人種に与えた自由を悪用して、英霊たちを性的異常者であったと慰安婦像を量産することにより罵っているのが韓国人である。しかしこのような無茶苦茶がまかり通っているのも、日本人が敗戦侵略史観に染まって懺悔を続け、「アジア解放戦争だった」と反論しないからである。
支那韓鮮を黙らせるには東京裁判史観を根底から覆す必要がある。それは別に難しいことではない。全ての日本人があの戦争が植民地解放戦争であったことを認め、次のように叫べばよいのである。
「アジアを解放して何が悪い、悪党は植民地主義者の白人とその手先をしていた支那韓鮮である」
かの戦争は植民地解放戦争であった。その科学的根拠は拙著「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だったー帝国政府声明の発掘」(展転社刊)と「絶滅危惧種だった大韓帝国-朝鮮半島を国連信託統治とせよ」(展転社刊)に詳述してある。
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