周回遅れだった日本国憲法
トルーマンがスターリンの署名なしにポツダム宣言を出したのは、ソ連参戦の前に日本を降伏させ、アメリカが占領統治の主導権を握るためだった。それを加速させる原爆投下はアメリカにとっては必要であり、それは冷戦の始まりだった。
1945年は、国際的な座標軸が大きく転換した過渡期だった。ルーズベルト大統領はスターリンを信頼しており、米ソが敵対するとは考えていなかった。トルーマンも当初はそう考えていたが、ドイツが5月に無条件降伏した後、ソ連は東ヨーロッパをまたたく間に軍事的に制圧した。
それに続いてソ連が日本に参戦することは(ヤルタ会談の密約で)明らかだったので、トルーマンは戦争終結を急いだ。イギリスのチャーチル首相は1946年3月に「鉄のカーテン」演説で冷戦の開始を宣告した。わずか1年足らずで、ソ連は同盟国から仮想敵国に変わったのだ。
この大転換の最中の1946年3月にできたのが、日本国憲法である。それは冷戦の始まる直前の、米ソが平和共存できるという幻想を「凍結」したようなものだ。そのときすでに冷戦は始まっていたのだが、日本はこの周回遅れの憲法を改正できないまま現在に至っている。
原爆投下は冷戦の序曲であり、アメリカの世界戦略の一環だった。だがトルーマンは広島と長崎の被害の大きさに驚き、1945年8月10日に「大統領の許可なく原爆を投下してはならない」という命令を出した。
原爆投下は人類の悲劇ではなく、アメリカの戦争犯罪である。それが終戦を早めて救った命もあるが、犠牲は余りにも大きかった。今さらアメリカに謝罪を求める必要もないが、日本が反省する筋合いはないのだ。